第9話 愚かに、そして大胆に。貴女を描いていたならば。

 雨よりも少し遠い場所で。


 たったふたり。


 セックスもしないで。


 言葉だけで分かり合おうとなんて。


 藍色の嘘をつきながら。


 ただ、言葉を待った。


 迎えにいくことも、できたかもしれない。促したり、慰めたり、そういう言葉を口にすることは簡単だった。


 でもわたしたちはそうしなかった。


 心と言葉は、連結することはあっても連動しているわけじゃない。言葉は音であり、つまりは手段に過ぎない。わたしだって、傷つけまいと、必死だった。


 いまのわたしからあげられるものは、時間しかなかった。


「性は、添え木です」


 つよい、感情だった。


「……僕は。違う、僕らは。きっと……きっと。小さな鉢でもがく植木です。添え木がないと、言葉や心にしっかりと根を張ることができません」


 わたしさえも、搔き壊してしまうほどに。


「添え木は、2本しかありません」


 Fから溢れる言葉は液体みたいになって、喉を伝い、足元から部屋に広がる。わたしの足首まで浸かる。


「僕らはどちらかに……どちらかに巻き付いてしか蔓を伸ばすことはできません」


 Fからは、どこかわたしを受け入れない潮の匂いがする。


「両方に跨ることは、むずかしい?」

「できませんよ、そんなこと」

「どうして」

「跨ることは、どうやったってできないんです」

「もし、できたら?」

「……根が細くなって枯れるだけだ」


 乾いて、水が足らなくて。

 音はなく、躊躇った彼の唇だけが動いていた。


「わたしたち、色々なものに変身するね」


 ライオン、麒麟、音叉に植木。

 わたしたちは、不安定で完成形。


「でもそれは、しょうがないことなのかもね」

「どうして、ですか?」

「わたしたち、粘土だから」


 乾いてしまった、わたしの粘土を。

 君が欲しいと言うならば。

 わたし、死んでもいいわ。


「ほら」

 時計を見上げる。

「もう、美術の時間だ」


 45分はすでに通り過ぎていた。

 起立。窓に向かって頭を下げる。


 ここから先は、溝引き定規でなぞった延長線。

 筆先は乾き、線は淡く白紙の上を伸びていく。


「授業を始めるときさ」

「はい」

「どうして、頭を下げるのかな」

「教えを、乞うからでしょう」

「じゃあ。いまって必要?」

「必要ですよ、きっと」


 Fの視線は窓の向こうに注がれている。

 あの、憎むような、愛おしいような、そんな顔で見ている窓の向こうで、君を連れ去る水の音がした。


「ねえ」

「なんでしょう」

「……なんでもないよ」


 消えてなくなる。

 予感がしただけ。


「ねえ」


 わたしは、誰かに話しかけるときに使う「ねえ」という言葉が大好きだった。どれもこれもを欲しがった。


 ねえ、お話聞いて。

 ねえ、食べさせて。

 ねえ、玩具買って。

 ねえ、手にぎって。

 ねえ、ねえ、ねえ。


 ねえ。わたし、ここにいるよ。


 ずっと、言葉にできなくて。

 それはただ、相手の心にわたしがいないことを確かめることが怖かったのだ。

 どこにいるんだ、わたしって。問いただすこともできずに。

 男に抱かれて、恋人にでもなったつもりで。

 今この瞬間にも枯れそうな喉のなか、後悔は小石みたいに詰まって、飲み込むこともしないで、叫ぶこともままならない。


 その、傲慢な思い上がりがどうしようもなくて痛かった。


 つまりわたしは、青く、何者でもなかった。


「ねえ」


 感覚。なにもかも痛覚。


「セーラー服、着てよ」


 彼の皮膚から、絵の具のような衝動が弾けている。

 その仄暗いブルーがわたしと重なることがないのだと思うと、わたしはただ泣きそうに、笑うことしかできない。


 ああ。こんなに弱い女じゃなかったのに。

 黒く塗りつぶしたくなるよ。

 セックス。


「わたしの、着て」

「……だめですよ」

「いいよ、わたしが良いって言うんだから」

「でも」

「下着も、ぜんぶ」

「汚れますから」

「それでもいいわ、汚しなさいな」


 両手で彼の両頬に叩くように触る。

 わたしたちは向かい合う。

 ああ、変な顔。


「あなたに、あげる」


 わたしはスカーフを解いて彼に渡した。

 

 それを彼は、本当に嬉しそうにまた泣きそうになって受け取った。それが、ほんの少し、わたしを救った。

 

 ペラペラなセーラー服とひだスカートをカーペットに落とすと黒色レースのブラジャーが露わになる。ホックを、家の鍵でも開けるみたいに回して外す。

 ショーツをお尻から滑らすと、やっぱり少し寒かった。


「脱がすよ」


 「はい」とも「うん」とも言わず、恥ずかしそうに頷いた。


 雨に濡れた男物のコートは彼自身の戒めのように重かった。

 

 一枚一枚が彼を守る鈍い色をした、鎧だった。

 

 わたしはそれを、外していく。


「ねえ」

「……なんでしょう」

「男の人が好きなの?」

「そういうときも、ありましたよ」

「いまは」

「そういうのは、やめました」

「どうして」

「つかれたんです」

「なにに?」

「誰かに縋らないと、証明できないことに」

「……そう」

「男性を好きになることは、そんなに大切ですか」


 黒いワイシャツがFの腕から抜け落ちて、足跡のない砂浜みたいな胸が露わになる。

 それを隠すように、しゅるしゅるとブラジャーを通し、抱き寄せるように、ホックを止めてあげる。


「なんとなく、女なんです」


 すかすかのブラのカップを、それでも少しだけ嬉しそうにFは撫でた。


「男の人って、誰を好きになったの」

「中学の先生です」


 人を急かすような金具の音、ベルトを外す。


「どういうところが、好きだったの」

「声です」

「乙女ね」

「乙女ですよ、ずっと」


 偽物の女子会みたいな笑いが起きた。


「僕を……わ、わ、わ」


 話しだそうとして、できなくて。喉元で根掛かりした釣り糸を引っ張るように声を絞り出す。


「わ、た、し。わ、私を……」


 羽化の瞬間を見ていた。


「……わ、私を、呼ぶ声が好きでした。君は女の子でいんだよって言ってくれた。そういう初めての人でした」


 Fから漂う青色へ、次第にレッドピンクが混ざっていく。


「初めては、特別だね」

「特別、でした。すごく」


 下着を脱がして、お尻に指を這わすと、小さくて、少しかたい。


「汚いでしょ、私」


 Fのカラダは、性器の周りに至るまで全身が剃毛されていた。。

 

 白く、それ故に手首がポトリと落ちそうなほどの鋭い切り傷が一層痛々しい。そして目を逸らしてしまいそうなほどに美しい。

 

 自然には有り得ない。どこか人形めいた四肢と、自分の手足を見比べて、悲しい答え合わせを始める。

 

 包み込むようにして彼の手を取ると、傷跡のところだけざらざらとしていて、泣きそうになった。

 

 このほとんど光が入らない部屋で、彼の身体だけが海月のように浮かんで見える。


「綺麗よ、そう思って、生きてみなよ」

 

 脹脛を滑らせて履かせたわたしの下着には、辛うじて収まる。

 スカートに足を通させて、セーラー服のチャックを上げる。Fはそっとお姫様みたいに目を閉じていた。


 長いまつ毛が震えている。

 キスしてみようかと思った。

 思っただけよ。


「先生に気持ちは、伝えた?」

「卒業するときに」

「どうだった?」

「添え木の話をされました」

「さっきの?」

「はい」

「くそ野郎ね、そいつは」

「そうですね。きっとそんなにいい人じゃなかった」


 そんな悲しそうな顔で笑わないでよ。

 レイプしたくなるよ。


「でも、しょうがないことです」

「しょうがないって、なにが」

「みんな、そうなんですよ」

「そうってなに。わからないよ、そんな曖昧な表現じゃ」

「みんな、私のこと概念として許してるけど、実在としては拒絶してる」

「だから……難しいよ」

「近くにいたら、気持ち悪いでしょう」

「そんなこと、ないよ」


 上ずったというにはあまりにも一瞬、声がつまった。


「うそつき」


 目の前には女がいた。

 似ても似つかないわたしがいた。

 唐突にFは両肩を掴み、濁流を必死に抑えるように強く目を閉じながら、早口でまくし立てる。


「明日、いきなり、ご友人がレズビアンであることをカミングアウトしてきたら、どう思いますか」


 Fの手が震えている。


「職場の同僚がゲイだったら?」


 ちがう。


「男だと思っていた人が女性用トイレから出てきたら」


 わたしが震えているんだ。


「セックス、しようとしたとき、相手が同性だったら……!」


 震えて、炎のように揺らいでいる。


「今までと同じ関係でいれますか……? はい分かりましたって、マリーさんは、言えるんですか……?」


 ノーメイクな君だから、そんなにきれいな涙を流せるのだろうか。


「私は、言えない」


 この暗い水槽みたいな部屋で、ずっと苦しそうに喘ぎながら燃えている。その青黒い炎が、わたしに飛び火してくる。

 

 燃え移ったその傷も、厚い絵の具を塗れば治るのだろうか。

 絵の具を剝いで取ったとき、その傷跡は残らないのだろうか。

 どうしようもなく労わる気持ちばかりが、浮かんだ。


「男として、振る舞うのだってそうです。私だけじゃありません。みんな、そう、です。みんな、隠して生きてる。そうすることが、歯車になることだと思って疑わないから。強いられることさえ、快感に変わる。……忘れて、隠し通して死んでいく」


 何もしてあげられない自分があまりに惨めだったから、医者の真似事なんかして診断書を作ってあげる。


「アンハッピー・リフレイン症候群」

「なんですか、それ」

「思い出せば、我慢してきた自分が偉いと感じるみたいな、そんな病気」

「病気なんですか、これ」

「うん。これは、いま、わたしが名付けた病名」


 たぶん流行るよ。

 みんな、病名がないだけの、患者だらけの世界だからさ。


「……知ってますか」

「たぶん、知らないけど」

「僕のことを、周りを納得させる魔法の言葉があるんです」

「なにそれ」


 Fは消え入りそうな声でわたしに教えてくれた魔法の言葉は、最後に「障害」という単語がついただけの差別だった。


 お腹の辺りで鉄でも溶かしているんじゃないか。

 これが激情と言わず、何と表現すればいいの。

 誰かも分からない大人が、どうでもいい人間たちに共有しやすい形に調整した言葉なんかで、Fをくくってほしくなかった。それで納得しようとしているFにさえも怒りが込み上げて来る。


 わたしを舐めんな。


「そんな言葉で、納得するなら!」


 彼の手を強く掴んで、左胸につよく押し付ける。足がもつれ、Fが覆いかぶさるようにしてベッドへ押し倒された。


「どうしてわたしを描いたの」


 夢を描く子どもみたいに。わたしを見て、完成形をスケッチしていたんじゃないの。


「……だからいつも」


 いつも。

 キャンバス越しにわたしを見てたんじゃないの。

 答えてよ。答えてよ、わたし。


「自分を、描いてるみたいだったから」


 指先には心臓の音だけがあった。


「貴女を描いているとき、自分のなかの女に会える気がした。自分のカラダさえ丸みを帯びていくようだった。それだけでよかった……それなのに」


 彼は身体を起こし、自身の付けたぶかぶかのブラジャーを握りしめる。


「貴女が暴いた」


 Fの細い指が、黒のレースに怖いほど沈んでいる。

 それは、憎しみかもしれないと思った。


「……貴女が、きらいです」

「そう。好かれてると思ってた」


 イタイ勘違い女のレッテルを張られようとも、不思議と惨めな気持ちにはならなかった。


「どうしてかなぁ……!」


 空いた方の手で、Fは強く目頭を押さえる。


「どうして、捨てられないのかなあ……!」


 Fが筆を動かすとき、押し寄せる白波を感じた。

 いつも、わたしはFを追いかけて、近づこうとするのに、一際つよい波で元の場所へと押し返される。


「君のせいだからだよ」


 わたしは、君が渡ろうとする怖い海を、代わりに漕いであげたかった。

 君の船になりかった。

 この瓶詰されたファッションホテルで、君を乗せて浮かぶボトルシップに。


「どんな形でも君だから」


 この汚れて、傷ついた粘土を、Fで濡らして。


「ぜんぶ、君の性だよ」


 風俗という空間が、性というどうしようもない本能が、ほんの一瞬、歩く道筋を狂わせてしまっただけだから。わたしたちが交わることはこの時間をおいて、他にはないから。


 だからお願いします、神様。

 硝子みたいな勇気で良いから。


「だから、描いて」


 Fを失う勇気をください。


「……きっと、貴女も、私の前からいなくなる」


 責めるように私を見ている。ちくりと、柔らかい果物に針を刺したような痛みが胸に生まれる。

 かつて、Fの想い人がそうであったように。

 わたしもまた溶けだしていく雪のような過去になる。

 どうしてか分からない。この喪失の予感はよりはっきりと輪郭と色彩を帯びていく。


「わたしは女」


 いつか苦しまなくていい日が来るように、君の女をすべからく浚っていこう。


「貴女が描く、ただの女よ」


 手を広げる。

 足を三脚みたいに開いて、キャンバスを張るかのようにむき出しの胸を張る。

 言葉はなかった。波の音だけがあった。


 Fは目を真っ赤にして立ち上がり、自分のもってきた手提げバッグを破くようにあけると、乱暴にパレットをあけて金魚鉢に筆をつける。

 たったその一滴で乾いた絵の具を溶く。

 筆先が頤に触れる。


『私の粘土は』


 迸るイエロー。

 射殺すグリーン。

 筆が、カラダに触れて。

 触れるたびに、激流のように言葉が流れ込んでくる。


『私の粘土は、生まれたときにはぐちゃぐちゃだった』

 あどけないカーマイン。

『女でも、男でもない』

 離さないでパープル。

 わたしを置いていくブルー。

『僕は誰なんだ、私は』

 わたしは君が安らぐ言葉を知らない。

 わたしは、君が苦しむことばかりしている気がする。

 悪い女だから。

 それでも、この冷蔵庫のありものでつくられたようなわたしたちに、かけられる言葉が世界のどこかにあるならば。

 きっとそれは、遠い海の果てで眠っているんだ。

『君は化物』

 ひとつだけだった。

 わたしたちはいつも。

 いつもそうだ。

 ひとつだけを。

 そのたったひとつだけを。

 自分を騙しながら、つよく求めて。

 しわくちゃに乾いて死んでいく。

 それがこわくて。

 ただ。

 君のそばで。

 波を浴びていたかった。


『情念の、化物』


 迸るイエロー。

 射殺すグリーン。

 あどけないカーマイン。


『迷わなくていいように』


 離さないでパープル。


『苦しまなくていいように』


 性を。君の性を、わたしの船で浚って、半歩先の海路を渡ろう。


『わたしたち、記憶喪失になって、いつか、同じ距離で笑おう』


 二人で描いた宝の地図を、単色のまま伸びていく。

 わたしが赤で、君がブルー。


『きっと』

『もう交わることはない』

『そうね』

『だから、貴女に刻みます』

『なにを?』

『私を、僕を』

『あは。なにそれ』

『……言葉では』

『言い表せない?』

『はい』

『そっか、かわいいね』


 笑ってあげたら、Fは見開いた目から宝石のような涙を流した。

 甘ったれなんだよ、君は。

 かわいいから、いいけどね。


『君の、せいだよ。ばか』


 迸るイエロー。

 射殺すグリーン。

 あどけないカーマイン。

 離さないでパープル。


『もう、溺れたらダメよ』


 わたしを置いていくブルー。


『じゃあね、ばいばい』




 わたしを置いていく、ブルー。

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