最終話 Fのキャンバス

 彼が筆を置いたあとのことを、もうよく覚えてはいない。


 ツトツト。ツトツト。


 窓ガラスを叩く雨音と、太ももからお尻にかけての不快感でわたしは目を覚ました。


 手を伸ばして確かめると、絵の具かと思った正体は経血だった。それがなんだか変に思えてクスリと声が漏れる。

 気が付くと、わたしは彼と裸になって眠っていた。


「……ねえ」


 わたしの呼びかけに、反応はなかった。

 独り言になるのかもしれない。それでもわたしは構わなかった。


「わたしね、本当は子どもがいたの」


 ピクリと、Fの肩に電気信号が走ったように映る。


「高校生のころにね。お父さんとの子だった」


 看護師の母と、公務員の父との間に生まれたわたしは、両親が誇らしかった。

 人の命に係わる仕事をする母と、人の生活を支える父を尊敬していた。運動会や、授業参観、卒業式に両親がいないことなど、わたしにとっては些細なことだった。


 幼いわたしにとって、心という器は母によってつくられ、愛情は父によって注がれていた。


「なんで、こんなになっちゃったんだろうねぇ」


 その愛情という名のエゴが、とっくに溢れているとも知らずに。


「お母さんが夜勤でいない日を狙って、お父さんはわたしを嬲った」


 寝込みを襲われたとき、父がわたしの乳房を嬉々として触っているとき。わたしは必死に他の誰にも言ってはいけない秘密を背負わされた。

 この性交をどうやったら隠し通せるだろうと考えることは、わたしにとって家族に対する最後の愛情で、唯一わたしを正気に保つ術だった。


 それ以外、わたしは正常ではいられなかった。

 

 自宅の洗面所にあった生理用ナプキンが減っていないことに気が付いたのはわたしではなくお母さんだった。


 中学生になって、その胸が膨らみが嬉しくて、つい家の中でもカップ付きのブラジャーなんか付けてたから。


 そういうわたしが悪かったって言われたら、それまでだけれど。


 だったらわたしはどうやって女という性になればよかったの?


 何を貫かれたの。突然に奪われたのは、何だったの。


 答えられないなら怒らないでよ。


 愛してないなんて言わないで。


 ねえ。


 お母さん。 

 

「……男の子か、女の子かもわからないままだったけど」


 例えばあの子が生きていたならば。

 雨の日に張った大きいキャンバスみたいに、鈍くて真っ白に育ってほしかった。


「どうして」


 彼は背を向けたままだった。


「どうして、今そんな話をするんですか」


 拗ねた子どものように尋ねる彼にわたしはくしゃっと笑って言ってやる。


「いま、思い出したから」


 わたしはひとりで服を着て、Fの頭を一度だけ柔らかく撫でてからホテルを出た。


 雲の隙間から月光が海に反射し、刃物のようにわたしの顔を照らす。たった一筋の線が、切込みをいれるように頬を伝い、零れ落ちた。


 手に持っていた携帯電話が震える。

 何度も、何度も震えた。

 チカチカと光る電子機器を、わたしは一度つよく握りしめてから優しく海に放る。


「……ばいばい」


 海面で魚が跳ねたような音がしたとき、わたしは少しも悲しくなかった。その証拠にわたしは笑ってさよならを言えた。


 電車もなくて、街灯をもついてない道路を一人で歩いて帰るときも、次の日の仕事について考えることができた。


 わたしが誰の心にも残らず、通り過ぎていく風俗嬢のように。彼もまた、わたしの心から離れていくものだと思っていた。

 仕事を終えたのだと思えば、わたしは鉄屑になれた。


 けれど、家の脱衣所で自分の裸を見たとき。左胸から、わたしを抱きしめながら伸びる遠浅の海のような青色を目の当たりにして、Fが自分の心からいなくなることはないのだと心が理解した。


 だってわたしたちは、そういう遊びをしていたんだから。


 太ももを伝い流れる経血と絵の具が、シャワーの冷たい水と一緒に排水口へ流れる光景を見て、わたしはわんわんと泣いた。


 産まれたばかりの赤子のように、声をあげて。


 例えば、わたしがもっと誠実な生き方をしていたら。


 もっと違う答えをFに伝えることができたかもしれない。どれだけ時間を経ても、わたしは何度でも考えるだろう。


 けれどわたしたちは、加速するコンプレックスをどこで止めればよかったのかなんて分からなかった。


「あいしてる……あいしてるよ」


 流れる水の音が、全部嘘だよと言ってくれる。


 かわいていく。かたまっていく。


 水に濡れるばかりの出来損ないの船に、いつかまたあの子を乗せてもいいように。ありのまま、わたしは泣いた。


 間もなくしてわたしは『LIP.s』を辞めた。


 オーナーの守重に辞職願を渡したとき、彼は初めて相談にのってくれた。


「ここでのことは、この先そんなに必要はないからできれば忘れてしまいなさい」


 オーナーはわたしの行為すべてを決して否定しなかった。


「君には必要なことで、でもその全てを抱えて生きるには辛いから、覚えていたいことだけを、あのプレイルームから持って帰りなさい。いいね」


 それからわたしが風俗業に戻ることはなかった。オーナーの言う通り、勤めていた当時のことを言いつけ通り忘れるように努めた。

 実際、そうすることでわたしは上手く振る舞えたこともあった。

 だけど、忘れがたいとは記憶じゃなくて感情なんだ。


 Fが慎ましく抱えていた、あの深く落ちていきそうな緑色と、みずみずしいレモンイエロゥの斜線が入ったスケッチブック。あの色合いがイタズラをするみたいに脳裏にチラつく。


 古いペンキを、上から塗りなおすように。誰かと肌を重ねても、塗ったペンキの下にある深緑が透けて見えてしまう。


 あれから4年という月日が過ぎた。


 わたしは勤めていた会社の後輩と結婚した。

 仕事も辞めて、ブラジャーのまんま煙草を吸って、たまに君のことを思い出してみたりする。そんな代わり映えしない普通の生活を享受してしまっている。


 ツトツト、ツトツト。

 外の雨音だけはあの日と変わらない。ふと我に返り、夕飯の支度を始める。


 時計の針が二周すると、インターホンが三回鳴った。わたしと夫の間に決めた合図だ。玄関に行って鍵を開けると、夫は肩に水晶みたいな小さい水滴をいくつものせて帰って来た。


「ただいま。ごめん、雨に降られて。傘もないから走ってきた」


 なんとなく、Fならきっと雨宿りをして帰っただろうと頭に浮かんだ。


 スケッチブックが濡れるといけないから。


「……どうした? なんかあった?」


 果たして、なにかあったか? と、訊ねられて素直に答えてくれる女性はどれほどいるというのか。けど、そういう夫の不器用さだけは、気に入っていた。


「なーんもない。なにもなかったよ」

 

 こんな毎日が同じことの繰り返しの日々で、きっと足を止めてしまったにも拘らず同じ距離にいるはずの君はいつまで経ってもわたしのところへは迎えには来てくれない。

 

 それは彼もまた歩みを止めてしまったからなのか。違う方向へ行ってしまったからなのか。

 なんだかどっちも、君が裏切ってるみたいで真実味が湧かないね。

 もしかしたら、わたしの待ち合わせ場所が間違ってるだけだったりして。


「ねえ」


 夕飯の後に、久しぶりにお酒を開けた。

 今日は夫と二人でお酒を飲む日。なんだか無性に喉が渇いて、珍しく夫よりもたくさん飲んだ。酒に酔った夫は大概なんでも言うことを聞いてくれる。


「わたし、パートで働けるとこ探そうかなって」

「え? いいんじゃない。どこか決めてるの?」

「あは。ないしょー」


 笑いながら窓の外を見つめると、わたしがかわかすことのできない雨が遠くで降っていた。


 この雨が、あの子を濡らすことがないように祈りながら。


 もう目にすることは叶わないあの絵が、水彩画だったらいいと思った。

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Fのキャンバス 久々原仁介 @nekutai

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