八 レボルバー

 サキと会った日の夜、常望はつぎのような長い夢を見た。

 常望の内務省勤務が始まって一年が経過した頃、常望と、深草公爵家の令嬢公子との縁談が持ち上がり、その翌年の九月に東京大神宮で婚礼が行われた。

 常望は、実は深草高房と厳橿梅子との間にできた子であり、公子は実は妹にあたるのであった。このことは、常望は小学生の時から知っており、公子は女学校を卒業するときに高房から聞かされていた。

 つまり、常望も公子も、初めから本当の夫婦になるのではないことを了解づくの婚礼であった。

 公子は、日本語よりもフランス語の方が流暢で、深草家では純西洋式の生活を送り、家庭教師や友人もフランス人やベルギー人が多かった。彼女はその分日本の旧家の生活に馴染みが薄く、どのような家に嫁入りすることになるのか、懸念していたのであるが、幼馴染の常望への嫁入りと聞いて、安堵したのであった。彼女は、家庭教師の一人であったカトリック教のフランス人の修道女の影響で、純潔の生活に憧れていたこともあって、本当の夫婦になるのではないことについては、むしろその方がありがたいと考えた。後継ぎは、親族の誰かが養子に入ることになるはずで、常望も公子もそのことは気にしなかった。

 常望にとっては、築地のカメヤホテルに勤め続けているサキが実質上の妻であった。そのような関係になったのは、サキの才覚によるものであった。

 サキは生活の苦労を重ねてきただけに、世事に長けたところがあった。彼女は軽井沢で常望に再会した後、東京に帰ると、再会の話を備前屋に話したのであった。そのうえで、つぎのように続けて言った。

「・・・そういうわけですから、このままでは若様は、恐れ多いことながら、ご自害遊ばすかもしれません。旦那さん、このことは厳橿家のしかるべき方のお耳に入れる必要があります。自分がそばにいなければ、いつそのような大それたお気持ちになるかわかりません。もともと、旦那さんは若様に代わって、私を築地にお囲いになったのでしょう?それを厳橿家に半ば公にお認めいただくことが、若様の心の平安のために是非とも必要なのです。」

 老練な商売人で頭の回転の速い備前屋は、事情をすぐに呑み込んだ。

「若様にもしものことがあるとすれば、大口のお客様が一軒なくなっちまうわけだから、そこは俺もなんとかしなくちゃなるめえ。あの家には家令の林さんという人がいるんだが、えらく頭の固いじいさんだ。どう話を持ってゆくかな?いっそ、梅子様に申しあげてみようか?」

「梅子様?」

「若様のおっ母様よ。相撲の力士を贔屓になすっていて、粋な方で通っているから、いっそ梅子様に申しあげた方が、話が早いかもしれねえ。梅子様にも、西洋の彫刻を二点ほど納めたことがあるから、ご面識はいただいているのさ。」

 備前屋は、軽井沢から用事で東京に帰っていた梅子に面会して、人払いのうえ、サキの話をほぼそのまま梅子に伝えた。

「備前屋、よく聞かせてくれました。実は、本人が軽井沢で急に具合が悪いと言って、寝込んでしまったので、心配していたのです。別に病気ということではないのに、どうしたものかと思っていました。あの人も年頃なのね。いいでしょう。ちょっと若いけれど、当主が側室を抱えるのは、別におかしいことではないわ。こういうことは生理現象だっていうことを早くわかってもらった方が、厄介がなくて済むのよ。何事もお家のためよ。お家のためということは、そのままお国のためということよ。おまえにもお国のためにもう一肌脱いでもらうわ。

それより、その女の素性、大丈夫なんでしょうね。ほかに男がいたりして、子供ができた時に、どっちの子かで揉めたりするのは勘弁してほしいわ。」 

「奥様、その懸念はございません。それはお固いものでございまして、てまえなども指一本触れたことはございません。」

「あら、本当に?信じていいのかしら?」

「てまえは、いい加減、じじいでございますから、向島のほうだけで十分でございます。最近は若いのは手なずけるのが億劫になりまして・・・」

 梅子はほほと笑った。梅子としては、自分の奔放な行動にいつも冷たい目を向けてきた常望に一矢報いることができるという、まるで母親らしからぬ思惑で、目をぎらりと輝かせた。

「備前屋、ひとつ相談だけど、この話は私が知っているというのは、女には言っておいてもらっていいけれど、本人には内緒に願いたいわ。側室として囲う形になったことに気が付くと、またきっと、それは本意ではない、とか言い出すと思うのよ。自然ななりゆきを装ってほしいの。その女にもそう言い含めておいて。それで、お金の方はどうすればいいの?」

「女は築地のカメヤホテルで結構な給金をとっているので、ご心配はまずないかと存じます。」

「それならば、お金のことで家令の林の承諾を得なくてもすむから、好都合ね。家令の預かり知らない内々のことで通すことができるわ。備前屋も林に余計なことを言っちゃだめよ。」

 サキはこのような経緯で、常望と頻繁に会うことのできる環境を確保したのであった。常望は休日にはサキの家で過ごすようになった。本人は、自分が築地に来ていることを、他人は知らないものと思っていたので、初めのうちは夕方になると自邸に戻るようにしていたが、二か月ぐらいすると、夜も泊まるようになった。家令の林を始めとする厳橿家の使用人は、常望が休日にどこに行くのか不審に思ったが、梅子からは詮索しないように言われていたので、敢えて確かめようとする者はなかった。正妻の公子は、サキの存在を結婚前から梅子から言い含められていて、常望が外泊をすることを問題にすることはなかった。

 サキは、世事に長けていて、彼女の親の借金の苦労のなかで経験した話、たとえば、契約や担保や意思能力や登記などがどういうもので、金貸しや地主や女衒がどのように法律を使っているか、といった話は、常望にとって、役所の仕事に必要な世間の実情を知るうえで役に立った。サキは仕事柄、ホテルでとっている英字紙を毎朝丁寧に読むのであったが、英字紙は日本の新聞が当局を憚って報道しない時事を報じることが多く、サキから英字紙でこう書かれていたという話を聞くことは、常望の仕事に大いに役に立った。

 やがて常望は貴族院議員として政治の世界に転身し、間もなく九重公爵の跡を継いで貴族院議長となった。政治向きの重要な案件については、常望はいつもサキの意見を聞くのであった。世間にはサキの存在が厳樫公爵の側室として知られ、新聞には時々、正妻の公子を憐れむ記事が掲載された。

 常望とサキとの間には、男児が生まれた。その子は、九重公爵の指示で、備前屋の次男の実子として、生まれてすぐに引き取られた。

 常望は、政界が腐敗によって国民の信を失うなか、貴公子として国民の人気が高かったので、その人気に推されて首相になった。しかし、官僚も軍人も自分に喝采はしてくれても、組織として彼の言うことを聞いて動いてくれることはなかった。彼の頼りは大衆の人気だけであったので、人気とりのために対外強硬策を打ち続けざるをえなくなった。相談相手のサキの顔は日に日に険しいものになり、もともと彼が政治的実力のない生き人形でしかないことは承知しているはずなのに、まさにそのことに苛立ちを隠さなくなった。彼は、このまま自分が国民をどこに率いてゆくのか、もっと正確に言えばどこに率いて行っているように見えるのか、わからなくなっていた。自分に道を譲って引退した九重老公を始め、自分を支えて来た名門の貴族達は、自分が国民に迎合して彼らの権益をどんどん縮小させていると考えて、当初は自分を止めるためにいろいろな画策をしていたが、やがて彼らは自分を見放し始めた。常望は、家のためということとお国のためということとが分離してしまった時代の流れにおいて、自分の存立基盤である後者を選ばざるを得なかったのであった。気が付くと、自分の手足は、人形遣いによって操られていて、その人形遣いは前に庇のあるカーキ色の帽子を目深に被り、顔が定かではなかった・・・

 常望は、夢から覚めた。枕元には、東京から持参した文楽人形のサキエが壁にもたれていた。彼にとり、夢で見た自分の人生は、まったく自分の望まないものであったが、自分のたどるべき運命を正しく語っているように感じた。そして、人形としてのあり方を続けるための対処として、側室としてサキを抱えるようなことをすれば、サキを自分の望まない人格に変えてしまうにちがいないと思った。

 常望は、幼少の頃、幕末の激動を生き抜いてきた祖母のイトの言った言葉を思い出した。

「お国柄を守るために命を捨てはった方はあの世でどう思いはりますやろか。」

 彼は、ここまで自分を犠牲にして守ってきたものを、一気に壊してしまうことはできないと思った。彼は、人形として生きるのであれば、きれいな人形として生きるしかない、どのみち人々の犠牲になることに変わりはないのかもしれないが、それであれば、きれいなままで犠牲になりたい、そう思った。

 常望はさらに自分の夢について考え続けているうちに、つぎのように思い当たった。

 自分は、夢の中でサキとの間に子供ができたことについて、今、深い自己嫌悪を覚えている。自分にとって、子孫を儲けることは、自分と同じような生き人形を再生産することだ。しかも、本当の親が誰だかわからないのであれば、その不幸は自分が味わったのと同じもので、そういう人生を作り出すことは、どうしても避けたい。もしもサキと子供を作るようなことがあれば、それは母親の梅子が高房との間で行ったことと同じであり、それは自分としては自分に絶対に許しがたいことだ。

 だから、自分がきれいな生き人形でいたいというのは、自分の気持ちの半分であって、もう半分には、男女の生理的な関係に対する抵抗感があるのだ。もっと言うと、母親の梅子のことを自分は意識の上では許していても、心の底で許すことができていないのだ。父親がいれば、息子の自分はこのような母親の姿を見ないで済んだのかもしれない。そして、父親を模範にして、母親にこだわることなく、異性との普通で素直な愛情関係に入ることができたのかもしれない。しかし、自分の場合は、その部分が生まれつき欠けているのだ。自分がサキを知るまでは人形にしか愛情をもてなかったが、そのわけが、今日よくわかった。これは自分が生まれつき負っている宿痾だ。だから、たぶん、自分と関わる女性は、幸せにはなれないだろう。自分はサキを幸せにできないのだ。このことは、サキにも打ち明けることはできない。サキは自分が初めて好きになった女性だ。だからこそ、サキのために、美しい関係のままで、これでおしまいにしたい。

 常望は、このように強引に結論づけたところで、山本青年のことを思い出した。

 彼は、山本青年が自分であれば、迷うことなく、サキと心中するのではないかと思った。常望には、サキとの関係を昼下がりの美しい別れ話で終わらせてしまうことは、山本青年から見れば不純に見えるのではないか、すなわち、自分が宿痾をそのままにサキから逃げようとしているように見えるのではないか、という疑いが起こったのであった。しかし、彼は、先ほど思い出した祖母イトの言葉が、彼の結論を支持する根拠だと考え直して、山本青年の声に耳を塞ごうとした。

 常望は、枕元の文楽人形を相手に、独り言を繰り返した。心中物を沢山演じてきたに違いないこの文楽人形は、当然のことながら答えを返すことはなかった。

 彼がこうして考えた末に導いた結論は、

「サキとはなるべく美しい形で別れて、その後に自分は命を絶つ。」

というものであった。

「サキには迷惑がかからないようにして、この常望は人形としての生活に自分で終止符を打とう。そうすれば、またも人と別れるという悲しみから逃げることができる。」

彼はこのように思った。彼は、加賀侯爵に鳥撃ちの稽古用にもらったピストルを鞄に入れた。

 一方、サキも、常望と再び会った時に、自分はどのようにするべきであるか、考えていた。

 彼女は、藤沢の売れっ子芸者としての経験で、花柳界での特殊な男女関係について多少知るところがあった。その知見に鑑みると、常望が自分を遇する方法は、これまで尋常ではないと思っていた。彼女の常識からは、ただの世間知らずの坊やであれば、自分を側室として扱って、とうに目の色を変えて自分のところに足繁く通ってきているはずであった。それを、常望は、まるで生き人形のように備前屋に囲わせて、しかも自分は一度も見に来たことがなかったのであった。昨日の常望は、一見すれば、世の常の若者並みに、感情が高まったかのようであったが、その感情の高まりは、常望自らの生き人形としてのつらさの入り交じるものとも思われた。

 サキは、正直なところ、常望のことが好きであり、江の島で出会って以来、あこがれを持ち続けてきた。そして、常望が自分のことを好きであることもよくわかっていた。しかし、常望という貴公子は、お国のために生まれて育った人であり、その役割の意識が世の常の人間の想像できるようなものではない、何千年の家の伝統が培った強固なものであることが、サキには直感的にわかった。彼女は、もしも関係が深まったとしても、元芸者の自分が日本有数の名門である厳橿公爵と釣り合うわけもなく、ありうるとすれば自分が何らかの形で側室として関係を続けるようなことしかなかろうと想像したが、常望は、その一途な性分からは、世の常の側室として自分を囲ったり、人目を忍ぶ関係を続けたりするようなことはできなくて、苦しむのではないかと思った。

 サキは、このように考えているうちに、常望にもどかしさも感じていた。彼は自分の気持ちなどわかっていなくて、本当のところは自分とまっすぐ向き合うことを避けているのではないかと思った。しかし、彼が向き合うのを避けるからと言って、彼が自分のことを好きではないわけではないことはわかっていた。

 彼女は、心中について考えた。

 元芸者であった彼女としては、商売人の世界では、常望のような客と関係を結ぶだけで金星であることもわかっていた。ましてその側室になれば、芸者としては最高の上がりであった。しかし、彼女は商売人の世界を嫌っていた。だからこそ、日本画や和歌や英語を身に着けて、自分の肉体ではなくて才覚で暮らせるために、人知れぬ努力を重ねてきたのであった。日本の社会の現状からは、自分はあくまでも元芸者という経歴がついて回ることもわかっていた。自分が常望と心中するならば、うまく金星をものにした商売人という誹りもうけなくて済む。

「日本一の商売女が、心中すれば日本一の女になる・・・」

彼女はそのように考えた。

 彼女は、情死ということによって、常望という純粋で美しくて申し分のない日本一の貴公子が、永遠に自分独りのものになる予感に胸が震えた。

「常望が心中を切り出せば、自分は一緒に死ぬ。しかし、常望が別れたいと言うのであれば、それに従う。」

彼女はそう覚悟を固めた。

 その日、常望は、白い半袖シャツに白い麻のズボンをはいた軽装に鞄を持って出かけ、厳橿別荘の通用口を開けて、サキと約束した午後二時にサキを待った。

 サキは、時間通りに別荘に着いた。彼女は江の島で常望に会った時と同じ深緑色の着物を着ていた。

「よく来てくれた。今日は風が涼しくて、気持ちの良い天気だから、庭で話をしよう。」

 サキは頷いた。

 彼はサキを庭に案内した。庭は山本青年の拳銃事件以来、手入れがされないまま、夏草が茂り放題であった。庭に面した建物のガラス戸や窓は、カーテン下ろされたままであった。

 梧桐の木立の日陰になっている、元は芝生であったところに、かつてはパーティーに使われた大きな食卓が放置してあった。彼らはその食卓の傍らの、かつて山本青年が座ったことのあるベンチに座った。

 サキが言った。

「若様、今日でお目にかかるのが最後になるのでしょうか。」

「サキさん・・・今日はそのつもりでここに来たのだ。」

「若様は、私とお会いになることは、やはりおやめになるのですね。若様は、日本のすべての人のために、きれいな生き人形でなくてはならないはずです。それがこの世の定めなのです。」

「定め・・・そうだ。そのとおり、それが定めなのだ。その定めのために、生身の常望は、犠牲になるのだ。」

「生身のサキも、犠牲になって構いません。あなた様という方を好きになるということは、そういう覚悟でなくてはなりません。それは、生身の女としてはとても悲しいことですが、私のように取るに足らない者にとっては、分不相応な光栄で、うれしいことでございます。」

 二人はしばらくの間沈黙して、お互いの目を見つめ合った。

 そして、常望の右手は、サキの左手を握った。

 そのまま時間が長く過ぎた。

やがて常望がサキに囁いた。

「今のまま、時が止まればと思う。」

 サキは、常望の顔を見上げながら答えた。

「私もそう思います。」

「しかし、時は止まらない。」

「だからこそ、お互いに恋しいのだと思います。だからこそ・・・」

「だからこそ、これが美しい思い出になるのか・・・二人ともこの思い出を胸に、これからの人生を生きて行くんだね。」

「私たちは、そうするほかはないのです。この思い出で生きて行くのです。これからの人生が長いか短いかはわかりませんが、私は短いことを願っています。」

「僕もそうだ。生き人形というのは、死んでいるのと同じだ。今だけが人として生きている時間なのだ。」

 二人はもうしばらく手を握り合ったままでいたが、やがて常望は、サキの手を放して言った。

「サキさん、今日はありがとう。あなたがたとえ誰かと所帯を持つことがあっても、今日のことだけは覚えていてほしい。」

 サキは頷いた。彼女は涙を拭って、常望に言った。

「お別れの印に、歌を詠んでまいりましたので、差し上げとう存じます。」

 サキは、持っていた巾着袋から折りたたんだ和紙を取り出した。そこにはつぎのようにしたためてあった。


願はくば 秋の初めの 梧桐の 葉の蔭に鳴く 蝉となりなむ


 その和紙にはこのような歌が御家流で書かれて、絵筆で梧桐に蝉があしらわれた絵が添えられていた。

「ありがとう。返歌を仕ります。」

 常望は、鞄からノートを取り出してページを切り取ると、万年筆でつぎのように書いて、サキに渡した。


蝉宿す 梧桐なれば 今日よりは 我が身の秋と 木の葉散らさむ


 二人は、お互いの手にした歌をそれぞれ声を出さずに口ずさんでから、それぞれ大切に折りたたんだ。

 しかしサキは、気持ちのうえではどうしても納得がゆかないことを感じていた。自分は常望とここまで調子を合わせて美しい別れを舞台の上のように運んできたのであったが、最後の最後になって、常望は自分の気持ちをどれだけわかっているのか、どうしても聞いてみたい気持ちが頭をもたげてきて、次第に抗いがたくなっていた。

 サキは、改まった真剣な表情になると、それまでよりもやや低い声で切り出した。

「若様、今、私がどのような気持ちでいるか、本当におわかりですか?」

 常望は、突然サキからこのような質問を受けて、動揺した。彼は、サキが自分の気持ちをわかってくれたことに感謝していたが、サキがどう思っているのかに考えが及んでいなかった。

「僕は、あなたを傷つけないために、これが最善だと思った。あなたはその最善を受け入れたと思っていた。」

 サキは、自分の言葉が真剣な厳しさを帯びて、語調が強くなったことに気が付いたが、構わず続けた。

「それはお答えになっていませんわ。若様は、私があなた様との関係で傷つきたくないと思っている、そう考えていらっしゃるのですか?」

 常望は、今朝起きて以来積み上げて来た理屈では、答えることができなかった。

 サキは言葉を抑えることができなくなっていた。

「私は、若様をお待ちしていました。そのことが私にとってどれだけつらいことか、お考えになったことはありますか?私は若様のご都合のことはわかります。お一人だけのお体ではないことも承知しています。それとも、私のことは、信用できませんでしたか?」

「あなたのことは信じている。でも、女の人をどう扱えばよいのか、自分には見当がつかないのだ。」

「何もお考えにならず、私のところに飛び込んで来られてよいのです。わからなければ、わからないままで、私を尋ねて来ていただければよかったのです。」

「僕は、心中するか、別れるか、迷った挙句に、別れようと思ったのだ。」

 サキは、常望のその言葉に、思わずつぎのように言い返した。

「別れる方が、心中よりもよほど残酷ではありませんか?私は、あなた様が今日心中したいとおっしゃれば、ご一緒に死ぬ覚悟でここに参りました。」

 常望は、サキの言い切った言葉を心の奥で繰り返すと、やっとのことでつぎのような言葉を発した。

「死ぬ覚悟、か。別れるよりも、残酷、か・・・」

 サキは、常望の目をしっかりと見て言った。

「では、もう一度お尋ねします。私の今の気持ちがどういうものか、おわかりになりますか?」

「サキさん、僕はあさはかでした。謝ります。」

 常望はサキに深く頭を垂れた。

 サキが答えた。

「答えは、私に謝ることではありません。まだ私の心はおわかりになりませんか?」

 常望は、答えを探そうと、サキの爪先から頭までを目で丹念に追った。彼の脳裏にかすかに答えが閃いたかのように感じた。その答えは、自分が逃げて来たものを自分で何とか扱うのだという決意を必要とするもののようであった。彼は、今逃げてしまうと、永遠にその決意を行う機会が巡ってこないことがわかった。

 しかし、常望は、答えを自力で見出すことができなかった。

 サキは、常望が黙って考え込み始めたのを見ると、居ても立ってもいられない気持ちになった。彼女は、いきなり常望の右手をとると、自分の着物の懐にその手を挿し入れた。

 常望の手は電撃を受けたように一瞬びくっと痙攣して、その手を引っ込めようとしたが、サキはその手を懐から出させないよう、両手でしっかり上から押さえた。

「まだおわかりになりませんか!これが私の心です!」

 常望は、右手にサキの心臓の速い鼓動とともに、豊かな厚みのある肌にしっとり汗が滲んでいる感触を覚えた。

 サキは、常望が、

「あっ」

という声を上げて、顔をみるみる紅潮させることを想像した。常望がそうしたならば、自分は、

「私の心がやっとわかったのですね。うれしい・・・」

と言って、常望の胸に体を預けるつもりであった。

 しかし、常望は、顔色を変えるでもなく、無表情のまま、サキの懐からそっと右手を抜いた。

 サキは、常望の心に彼女の求めているような愛が燃え上がらないことに気が付くと、常望の顔から目をそむけて、泣き出しながら、

「常望様、さようなら!」

と言って、そのままベンチを立つと、別荘の外に駆け出して行った。

 常望は、サキの後姿を無言で送った。

彼は、別荘の建物に入ると、かつて山本青年が拳銃で死んだ部屋に向かった。

彼は、残されていたソファーのほこりを手で払って座った。

 彼は鞄からピストルを取り出すと、自分のこめかみに筒先を当てて、引き金を引いた。

 ピストルは、軽い金属音をひとつ立てただけであった。

 彼は矢継ぎ早にあと五回、引き金を引いた。

 部屋に、軽い金属音が五回響いた。

 彼はやっと、ピストルのレボルバーに、弾丸が入っていなかったことに気が付いた。

 彼のわずかな経験では、ピストルは従者が差し出すものを撃つだけであり、弾丸の仕込みには思いもよらなかったのだった。

 彼は、能面のような顔を少し崩して苦笑しながら、独り言を呟いた。

「僕は山本さんが死んだのと同じ年になったのに、あの世の山本さんに会うにはまだまだ未熟だ。山本さんはきっと僕にそう言っているのだ。」

 その時、駆け出したものの心配になって戻ってきたサキが、扉を開けて部屋に飛び込んで、常望の首に縋りついた。

 立秋を過ぎたばかりのなお眩い午後の日差しの下で、蝉時雨がひとしきり激しさを増した。

                                     完

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人形の公爵 うたふ兎 @utafu

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