七 生き人形


 東京の築地は、明治の初めに外国人の居留地とされ、洋館や教会が早くから立ち並んだ街であった。もちろん、短期的に日本に滞在する外国人のためのホテルも開業していた。

 その後、築地は外国人居留地としてはそれほど発展しなかったが、その名残で、商用の外国人向けのホテルが一軒、カメヤホテルという看板を掲げて営業し続けていた。

 カメヤホテルは、商用のホテルなので、建物も広壮なものではなかったが、一応ロビーも食堂もあった。お客は西洋人が多かったが、ホテルの営業が純西洋式であってしかも値段が手ごろであることから、洋行帰りやハイカラ好みの日本人の客もあった。

 サキは、藤沢の芸者置屋から、備前屋によって落籍されて、築地の借家に居住させられていた。備前屋は旦那としては変わっていて、サキをいつも上座の座布団に座らせて、自分は下座で燻し銀の煙管をくゆらせながら世間話をするだけで、泊まることはなかった。彼はいつも、

「向島が悋気を起こしてならねえから、こっちは煙草一服だけにしておくぜ。」

と言って、帰って行くのであった。サキは、備前屋には藤沢では三度ほど座敷に呼ばれただけなのに、どうしてこの男が自分を落籍したのか、不思議であった。

 やがて備前屋は、この築地のホテルの女給の仕事を探してきた。それは、備前屋が、サキが女学校出であることを知って、試しに英字新聞を持ってきたところ、彼女がだいたいの意味を読み取れることがわかったので、英語が多少でもわかる女給を探していたこのホテルの仕事を斡旋したのであった。

 サキのホテルでの仕事は、午後三時から深夜までで、フロントでのチェックインの補助や、宿泊客の切符の手配や買い物や郵便物発送の手伝いなどと取り決められた。ホテルとしては、サキを看板娘にするつもりであり、なるべく宿泊客の眼に触れる場所で働かせることにしたのであった。

 ホテルの仕事の斡旋は、備前屋が独断で進めたものではなかった。この半年間、彼は、常望に、相模楼にわたりをつけ、一番の売れっ子であった玉龍ことサキを宴席に呼び、そして彼女を落籍して借家に住まわせるまでの過程の一部始終を報告していた。ホテルの仕事も、備前屋が見つけたいくつかの仕事から、常望が選んだものであった。一方で備前屋は、常望から落籍の費用見合いで受け取った藤原佐理の掛け軸を、関西の財閥に費用の倍以上の金額で転売していた。

 備前屋は、自分の背後に常望がいることを、サキには話さなかった。

 常望はその年の春に大学を卒業して、内務省勤務の高等官となっていた。

 常望は、備前屋にサキを落籍するように依頼して以降、一度もサキに会ったことはなかった。彼は、備前屋からの報告を聞くだけで十分と思っていて、自分の思惑の通りに事が運ぶことに満足していた。備前屋が常望に、築地の借家を案内するから、お忍びで少しでもサキをご覧にならないかと申し出たが、常望は、

「いや、その必要はない。何もおのれの色好みでこのようなことをしているわけではないのだ。」

と答えた。

 常望は、備前屋から夏に買った文楽の人形に、サキエという名前を付けていた。彼は人形のかしらの操り方を研究して、自分と対話するような形を何とかさせるまでになった。時々のはずみで、からくりがくるっと動いて、人形の頭が目を向いた化け物の表情になることがあったが、常望はその表情をかわいいと思った。自分には、生きたサキよりも、命の通わない人形のサキエの方が、自分の思うままになるからいいのだと思い込もうとした。

 彼は、文楽人形は、マネキン人形のように、自分の秘密の儀式に使うことが物理的にできないことにすぐに気が付いた。彼は、文楽人形の中でもっとも美しいと思った、その手の先を克明にデッサンした。この手の先は、かつて人形遣いの遣い方ひとつで、喜怒哀楽の様々な表情を語ってきたはずであり、彼は手の先の語る表情を想像しながら、何通りものデッサンを描いた。図柄は、たいていは手の先をかしらと取り合わせたもので、彼は、指で瞼を押さえたり、鬢を撫でたり、項に触れたりといった構図を次々にこしらえては、黙々と、誰も見ることのないはずの絵を描くことに没頭した。

 彼は、デッサンをしながら、その絵のかしらの表情が、人形のサキエではなくて生きているサキのそれにおのずと似てくることに気が付いた。彼は、意識の上では、自分はおよそ他人との縁に望みを持っていないと思っていたが、自分の描いた絵を見て、自分の内心はそのような意識に徹しているわけではないことに気が付き、苦笑した。それでも、彼はお忍びでサキを見に行くことには躊躇を覚えた。

 サキは、三月からホテルでの仕事を始めた。彼女は、洋服を着て出勤し、午後三時ごろから、宿泊客のチェックインに際して、フロントで予約の確認をして、チェックインの終わった宿泊客を部屋まで案内した。

 彼女の最大の仕事は、夕食後に宿泊客に席画の芸を見せることであった。

 さして大きくないこのホテルでは、夕食時間は午後七時から約一時間と決まっていて、食事が終わると多くの宿泊客はロビーで寛いだ。彼女は、その食後の時間に、席画の芸をして、宿泊客の注文する日本画を描いた。彼女が富士や芦ノ湖や清水寺といった日本の名所をすらすらと描いて、最後にローマ字でTAMARYUと署名すると、外国人の宿泊客は感嘆して、彼女にチップをはずんだ。チップはホテルとの取り決めで、ホテルと彼女とで折半することになっていた。

 彼女は、五月ごろになってある程度仕事に慣れて来て気持ちに余裕ができたところで、昨年の夏以来の一連のできごと、すなわち、自分が十一月に落籍されたことに加え、二月になって弟に東洋育英財団というところから思いがけず奨学金が出たこと、備前屋が自分には全く手を出す気配がないこと、これらの事実をつなげて考えるようになった。そして、備前屋は誰かの指図で自分を預かっているのではないか、と思い当たった。彼女としては根拠がないながらも、江の島で会った厳橿公爵がその人ではないかと、半ば願望を籠めて想像した。しかし、彼女は、それならば、自分を備前屋に預けた人は自分の様子を見に来るはずではないかとも思った。彼女は、自分をそっと見に来ている、それらしい人物がいないか、ホテルでも自宅でもまわりに注意していたが、そのような人物は見当たらなかった。それに、厳橿公爵のような若い貴公子が、芸者を落籍させて囲うような、年寄り臭いことをするだろうかという疑問も湧くのであった。彼女は、常望が江の島で渡船から手をとって自分を引き揚げてくれたときの感触を、時々思い出していた。そして、大磯の財閥の別荘開きの日に、席画の模擬店に常望が表れた時を思い出した。彼女は、その時には、常望には、芸者という商売人として、自分の素の気持ちを隠したままで芸だけを見せて、私的な言葉をかけるようなことは避けたのであった。彼女はそのことを悔いる気持ちの一方で、たとえその時に何か言葉をかけても、商売人の愛想のように受け止められたかもしれないという気もした。このように、彼女が日々自分の身の上の不思議を思う時、彼女の意識は自ずと常望に至るのであった。しかし彼女の意識に上る常望は、わずかな時間顔を合わせていた記憶以上には実体のないもので、しかも身分が全く自分と異なる貴公子であり、彼女には思い続ける甲斐がないようにも思えるのであった。

 サキが勤務するカメヤホテルは、軽井沢に夏の間だけ開業する外国人向けのロッジの運営の一部を受託することになった。ホテルは、七月と八月の二か月間、接客要員を十日間交代で派遣することとなり、サキは七月の下旬の十日間ロッジに派遣されることになった。それは、ホテルで仕事を初めて間もない従業員としては異例のことではあったが、サキの外国人の接遇がすぐれていることが雇い主にすでに認められていたからであった。サキは藤沢で一番の売れっ子芸者であったから、客あしらいはお手のものであり、外国人にもその手際を応用することは容易であった。

彼女が二か月間軽井沢で勤務することについては、このところ築地には無沙汰をしている備前屋はあずかり知らなかった。備前屋は、彼女がカメヤホテルから自分の店の若手の番頭よりも高い給金を貰うようになったので、彼女への経済的援助は五月を最後にやめたのであった。彼女は住まいの家賃も自分の給金とチップの分配金でまかなった。備前屋が知らないことは、常望はもちろん知ることはできなかった。

 八月になって、常望は勤務先から休暇をとって、母の梅子と、軽井沢の三笠ホテルに逗留した。山本青年の拳銃事件のあった厳樫公爵の軽井沢別邸は、いずれ売却に出すつもりで引き払っていたが、結局事件の後も買い手を探すことなく、空き家のままにしていた。三笠ホテルには、毎年の常連である深草公爵家の人々も滞在していた。ただし深草公爵当人は台湾赴任中で、軽井沢には来ていなかった。

 上流階級がこぞって軽井沢を訪れる目的のひとつは、日本に滞在する主要な外国人との社交であった。アジアに赴任した多くの外国人は、暑い夏の間はそれぞれの任地で避暑に適した場所を探して、二か月近くをそこで逗留することとしていて、日本に滞在する外国人も同様であった。軽井沢の外国人は、大使館や公使館の別荘があればそれを使ったり、貸別荘を借りたり、ロッジやホテルに宿泊した。

 常望は、祖父の九重公爵から政治方面での将来を嘱望されていたので、彼の周りでは彼がいろいろな国の外国人と交際するように取り計らった。

 軽井沢に滞在する外国人の中に、ベルギーの貴族の出身で、駐日公使の秘書をしている、アルフォンス・ド・オルムザンという若者は、常望や、深草家の良房や公子と仲良くなった。彼は、常望と年齢が近かったうえに、常望たち三人がフランス語に堪能であったので、三人に殊更親近感を持ったのであった。彼らは一緒にテニスをしたり、ボートを漕いだり、カードで遊んだりした。アルフォンスは外国人向けのロッジに滞在していて、彼は毎日のように三笠ホテルに出向いて来るのであった。

 しかしながら、常望の見るところ、アルフォンスの最大の目当ては、公子であった。常望のとっては、公子はまだ子供であったが、よその青年から見れば、娘盛りに入ったばかりの美しい姫君であった。アルフォンスは、ボードレールの文体に似せた詩を作って、戸外の緑陰で公子に読んで聞かせた。

 ある小雨の降る日に、常望はふと思い立って、アルフォンスにフランス語の本を数冊借りようと思った。常望は、使用人を連れないで、一人で地図を片手に、アルフォンスの宿泊しているロッジに向かった。

 彼がロッジに着くと、アルフォンスは上司の公使に呼ばれて出かけていて、留守であった。小一時間で戻るだろうとのことであったので、彼は空いているロッジの一室で休息することにした。

 彼がその部屋に入って間もなく、扉をノックする音が聞こえて、

「失礼いたします。お洋服が濡れておられるようですので、タオルをお持ちいたしました。」

という女性従業員の声がした。

 常望が

「どうぞ」

と答えると、扉を開けて明るい灰色の質素な洋服を着た女性従業員が入ってきた。

 常望は椅子から立ち上がり、タオルを受け取ろうとして、その女性従業員の顔を見て、あっと驚いた。

 女性従業員も、常望のその様子で、あらためて目の前のお客の顔を見た。

「常望様・・・」

「サキさん・・・サキさんだね。」

「はい、野村の姉のサキでございます。」

「どうしてここに?」

「私は築地のカメヤホテルから、夏の間こちらに手伝いにまいっているのです。」

 常望は、備前屋からそのような話を聞いていなかった。

 サキは続けた。

「私が藤沢の相模楼から引かれて、カメヤホテルで働いていることは、ご存知でいらっしゃいましたでしょうか?」

 常望は、嘘をつくということはしたことがないので、正直に答えた。

「それは備前屋から聞いて知っていた。」

 サキは、これまで自分が抱いていた疑問の答えを確かめたい衝動にかられて、続けた。

「私は、備前屋の旦那さんが一存で進めたとは思っておりません。若様のご指図があったのではないでしょうか?」

 常望は、答えてよいか逡巡し、少し考えた末に答えた。

「そうだよ。お察しのとおりだ。」

「お指図をなさりながら、なぜ私をご覧になりにお越しにならなかったのでしょうか?」

「弟さんが数学を続けるようにすることが、お国のためになると思ってやったことだ。それ以外の意図はない。」

 サキは常望の手にタオルを残して、一歩引き下がり、深くお辞儀をした。

「若様、まことに失礼いたしました。弟のために、ありがとうございます。」

 常望は軽く頷いた。

 サキは続けた。

「私のような者は、ご恩の万分の一もお返しすることはできませんが、自分のできることは何でもいたします。」

「そんなことはよいのだ。あなたとは一生会うこともないと思っていたのだから。」

 サキはその言葉を聞いて、常望にその場でどうしても確かめたいことがあると思った。

「若様、私とお会いになりたくはなかったのですか?」

 常望は、答える言葉を咄嗟に見つけることができなかった。

 サキは続けた。

「江の島で若様にお目にかかることができましたのは、もちろん私には分不相応のことでした。ですから、大磯の席画のお客様としてお見えになった時は、なれなれしく思し召しにならないように努めておりました。ですがその時、本当に若様は私のことにお気づきになられたのか、確信が持てませんでした。」

 サキは、自分の言葉に次第に抑えが利かなくなりつつあることに気付きながら、なおも続けた。

「私は、備前屋の旦那さんの後ろには、若様がきっとおられるに違いない、そう信じて、それを頼りに、ここ半年の運命に耐えてきたのです。若様、私には本当にお会いになりたくはなかったのですか?」

 常望が口を開いた。

「僕は他人との縁が生まれつき薄いのだ。誰かと親しくなっても、何らかの事情で離れて行ってしまうのがあたりまえなのだ。だから、」

 常望はややためらった後、言葉を継いだ。

「だから、悲しい思いをしたくないから、サキさんにも会いたくなかったのだ。」

 サキは思わず呟いた。

「かわいそうなお方・・・」

 常望が言った。

「自分のことをそのように言われたのは初めてだ。こういう時には、どういう顔をすればよいのだろうか?」

 常望は、これまで人前で崩したことのない、能面のような端正な顔に、寂しげな笑いをわずかに浮かべた。

 サキが言った。

「人というものは、いつかは別れる運命にあります。だからこそ、惹かれ合うのではないでしょうか?おたがいを慈しみあいたいのではないでしょうか?悲しい思いをするからといって、人と親しくなるのをご遠慮なさる必要はないのではないでしょうか?」

「それは、われわれの世界では、歌や絵の世界だけで対処しているのだ。」

「それで、私のことも対処されたのですね。」

 サキは、「対処」という言葉をきっかけに、急に悲しい気持ちが胸にせき上げて来て、やがて、顔を覆って、声を押し殺しながら泣き出した。

 常望は、自分の面前で人が泣くのを生まれて初めて見た。

「ああ、サキさん、そうではない。そうではないよ。泣かせてしまって、ごめん。」

 常望は、自分が生まれて初めて人に謝ったことに気が付いた。

「若様は、謝る必要はございません。それは若様には他にはいたしかたなかったことでございます。私は、自分がしなくてはならないお礼が何であるか、わかりました。」

 サキは涙を拭って、常望の眼を見て言った。

「私は、若様にお目にかかることがたとえできなくなっても、いつも若様のお伴をいたします。別れていても、心でお伴をいたします。ずっと、そのようにいたします。もう若様はおひとりではありません。」

 常望はその言葉を聞いて、自分が経験したことのない熱いものが胸に突き上げるのを感じた。

「もう僕はひとりではないのか?たとえ会うことができないとしても?」

「そのとおりです。」

「ありがとう。そのように言ってもらったのは、生まれて初めてです。その言葉だけでうれしいです。」

 常望の口から、社交儀礼ではなくお礼の言葉が流れ出たのも、初めてのことであった。

 サキは、常望の能面のような顔に、笑顔がほんのり浮かんだことに気付いた。

「若様、私はもう事務所に帰らなければいけません。これ以上ここにおりますと、雇い主が不審に思います。」

 常望の口から、自分でも意外な言葉がひとりでに衝いて出た。

「軽井沢で、またサキさんに会うことはできないだろうか?もう少し話がしたい。」

 サキの顔が一瞬明るくなった。彼女は常望の気の変わらないうちにと、急いで答えた。

「・・・明日の早朝であれば。人目がありませんから。ロッジの手前に、道祖神がお祀りしてある小さな祠がありますから、その前で、朝五時ごろでいかがでしょう?」

「わかった。明日の朝、何とか抜け出して行くから。」

 常望は、もうアルフォンスから本を借りることはどうでもよくなって、ロッジを後にした。

 常望は考えた。自分は、これまで、人と親しくなることはやがて悲しい別れになると思ってきた。自分は本当の親から引き離されて育ち、育ての親であった祖父母とも小学校に上がってしばらくすると引き離された。自分と社交辞令以上の長さの言葉を交わす人は、九重の祖父や深草公爵家の人々のような親族か、使用人か、まわりの選んだとりまきの同級生にほとんど限定されていた。決闘事件の山本青年は唯一自分と対等に話ができたが、知り合って間もなく死んでしまった。サキだって、自分は人目を避けてでした会うことはできず、軽井沢の夏が終われば、ことによればもう再び会うことはないかもしれない。昔の公家や大名であれば、いずれどこからか正妻をめとった後に、側室として囲うということは、サキにはかわいそうである。だから、自分としては、サキとの関係を深めることには躊躇がある。

 彼女は、たとえ自分に再び会うことができなくても、心は自分の傍にいつもいる、それが恩返しだ、と言った。その言葉はありがたいが、本当にそんなことはあり得るのだろうか?たとえばサキが誰かと夫婦になって、子供ができたりすれば、そのようなことは忘れてしまうのではないか?

 常望はこのようなことを、何度も同じ経路を堂々巡りしながら、考え続けた。東京から軽井沢のホテルまで持参した人形は、この日の常望には、ただの人形以上のものではなく、いつものように話しかけるような気も起きなかった。彼はスケッチブックを取り出すと、この日に間近に見たサキの姿を何通りもデッサンした。

 常望は翌朝四時半にホテルを抜け出して、サキと約束した道祖神の祠に向かった。

 彼が祠に近づくと、朝霧の中に、江の島で会った時と同じ地味な深緑色の着物を着たサキがすでに来て待っているのが見えた。

「サキさん、来たよ。」

「おはようございます。お待ちしていました。」

 早起きの野鳥が囀って、空は霧が少しずつ晴れて来た。

 唐松の枝を通して射す朝日に、サキの襟元が輝いて見えた。常望は、そこに文楽人形のサキエにはない瑞々しさを感じた。

「もう少し話をしたいと言って呼び出したのだが、自分は何を話せばいいんだろう?」

「若様、朝はまだ何も召し上がっていないんでしょう?おむすびを作って持ってきました。よろしければ召し上がりませんか?お話はそれからにいたしましょう。」

「自分のことは、若様なんて呼ばなくていいよ。常望でいいんだよ。」

「それは恐れ多いので、若様と呼ばせていただきとう存じます。」

 二人は、別荘街の道からわき道に入り、やや開けた場所に腰かけるのによさそうな倒木を見つけて、そこに腰を下ろした。常望は左に、サキは右に座った。

 サキは巾着から竹の皮で包んだおにぎりを二つ取り出して、一つを常望に勧めた。

 常望はおにぎりを受け取り、二人は黙っておにぎりを食べた。

 食べ終わると、サキが言った。

「こうやって、お話をしなくても、ご一緒の時間を過ごすだけで、幸せでございます。」

「そういうものだったんだな。黙っていてもいいんだな。」

「黙っておられてもいいのです。」

 二人は早朝の林の甘い緑の香りを吸いながら、お互いの顔を見るともなく、手を握り合うこともなく、視線を浅間山の方に向けて、しばらくの間静かに座っていた。

 常望は、やがてサキの顔を見て言った。

「何も話す必要はないんだな。ずっとこのようにあなたと黙って座っていたい。」

「それは、お互いの心が通じているからでございます。たとえお目にかかれなくなっても、それは同じでございます。」

「信じてよいのだな。」

「信じていただければうれしゅうございます。」

「その言葉で自分には十分です。自分はきのうからいろいろ考えたんだけれど、会うのはこれでおしまいにしよう。自分は、これからどこかの名家から嫁をもらって、祖父の決めた進路に進まなければならない。それは自分の一存ではどうすることもできないのだ。自分は、生き人形なのだ。生き人形にとって、人間としての生活を少しでも味わうことは、実はとてもつらいことなのだ。」

「私も藤沢では芸者という生き人形でございました。ですから、お気持ちはよくわかります。あの時分にこのようにお目にかかっていれば、きっと常望様と同じように申しあげたことでしょう。芸者の時には、生き人形をやめられる時は、自分が死ぬ時だと思っていました。」

 常望は、不意に山本青年の小説「時雨雲」を思い出した。

 自分はあの小説を読んだ時に、心中とはずいぶん時代がかった話を書いたものだと思ったが、たった今、サキと自分との命が終わるならば、どんなに幸せなことであろうか・・・

 常望は、これまで経験したことのないような緊張と、その永遠の解決の望みとを心の内に感じた。

「サキさん、できることならば、自分は生き人形をもう辞めたい。」

 サキは、常望の言葉に、尋常ではない精神の動揺が感じられて一瞬たじろいだが、何とか答える言葉を探し出して言った。

「若様、これでおしまいにはしないで、また会いましょう・・・」

「やはり今日ここに来てはいけなかったのだ。自分は生き人形として生きることに疲れた。」

 サキは、常望が平常心を失いかけている様子を感じた。

 常望はやにわに右手を伸ばすと、サキの左手を強い力で握った。

 彼は、初めて触れたサキの手に、いつも愛玩する人形のひんやりした感触とは全く異なる暖かさを感じた。

 彼は、サキの手を握ったまま言った。

「もしも自分が、一緒に生き人形を辞めようと言ったら、ついて来るか?」

「もちろんです。喜んでご一緒いたします。でも、早まらないでください。若様はお国のために必要なお方です。お国のために、しっかりと生きていただきとう存じます。」

 常望は、かすかな声で囁いた。

「自分は、お国のために、これからも生き人形でいなくてはならないのか?」

 彼はそう言い終わると、目を閉じた。

 サキは、常望の頬が涙で濡れていることに気付いた。

 サキの心の奥で、ここは自分がしっかりしなければいけない、という声が聞こえた。

 サキは、その心の命ずるままに、彼の目をみつめて、はっきりした口調で言った。

「どうかしっかりとされますよう、お願いいたします。若様のために、私は何でもいたします。今朝はもう時間がございません。またお目にかかって、お話の続きをいたしましょう。明日の午後は非番でございます。」

 常望はサキの手を放すと、頷いた。

「わかった。明日の午後二時に、厳樫別荘の通用口を開けて、待っているから、来てほしい。」

 時間は六時を少し回り、滞在客の早朝の散歩も増えてくる時間になっていた。二人はそこで別れた。

      

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