第6話 マリアと出会い

 その、翌日。朝早くからマリアが画廊に足を運んだ。正直、俺はまだ夢を見ているんじゃないかと思った。昨日あれだけ遅くまで飲んでいたことなどおくびにも出さずに、彼女は今日も身だしなみに余念がなかった。それは彼女の習慣なのか、絵と画家に対する尊敬の表れなのか、あるいは俺に会うために正装なのか。

 できれば三つ目であって欲しいと、そんなことを思いながらオレはマリアを招き入れた。

 今日も、照明によってうす暗い廊下にぼんやりと浮かび上がった非凡な画家たちが手掛けた絵画たちが入場者を歓迎する。画家としての命を捨てたからか、あるいは慣れのせいか、俺はもうこの回廊に恐れをなすことはない。

 俺の足取りに迷いはなく、そしてそれはマリアも同様に見えた。


 まるで、一度この場所に足を運んだことがあるように、あるいは元来の度胸ある性質ゆえか、彼女は怖がりもせずに俺の後をついて来ていた。当然、物珍しそうに絵画をきょろきょろと見回すことはなかった。

 こっそりと背後のマリアを伺っていた俺と視線が合い、マリアがふわりと微笑む。

 心臓が跳ねた。

 落ち着けと、己に言い聞かせる。

 「自分」を殺してようやく訪れたこのチャンスを必ずものにするんだと、言い聞かせた。マリアはそのために利用される哀れな子羊だ。生贄に余計な感情を抱くな。優先順位を考えろ。

 微笑む彼女の顔から、必死で顔を逸らす。全集中力を発揮しなければ目を逸らすことさえできないほどに、彼女は魅力的だった。

 俺はどうしてしまったんだろうか。

 嫌に体が熱かった。

 昔何度か経験したことがある恋愛感情とは、また一つ違った経験のような気がした。甘くて、酸っぱくて苦い、青春時代を懐かしむ郷愁というか、哀愁とでもいうべきもの悲しさというか、とにかく言葉では言い表せないような感情が、心の中で暴れていた。

 廊下の先に、半裸の女の絵が見えた。

 半ばトラウマになっていたそれを努めて見ないようにする。この絵を通る時だけは、やっぱり体がこわばってしまう。幸いと言うべきか、このせいでレイフォンに自分の正体を確信される、ということはなかった。何しろ、アイツは「ノスト・バージェス」が死を決めた理由を、その決断に至ったわけを知らない。この絵の前での一連の出来事を、あいつは知らなかった。

 ぶるりと、強く体が震えた。絵の中の女が、俺のことを冷たい目で見ている気がした。やめろ、そんな目で見るな。俺は逃げたんじゃない、俺は死後の可能性に賭けたんだ。俺は、望む未来のために今からマリアを騙すんだ。


 一世一代の大勝負を前に、俺はかつてない恐怖にさらされていた。

 背中に、視線が突き刺さっているのを感じだ。あの絵――ではない。多分、マリアの視線。けれどきっと、気のせいだ。何かを探るようなそれは、俺の真意を――絵を見せたいという言葉が本当であるかを探っているのだろう。ナンパのような形で画廊に呼ぶことになった彼女は、ここで俺が彼女に襲い掛かるなんて、そんな可能性を考えているのではないだろうか。

 正直、男としての性か、彼女に触れたいと、その柔らかな髪を指ですいてみたいと、自分だけのために笑ってほしいと、まだ見たことがない表情を見せてほしいと、そんな感情があった。

 けれど、それよりも優先すべきことが俺にはあるから。だから、そんな獣のごとき感情を抑えて、俺は努めて平静を装ってマリアを倉庫へと案内した。

 コの字型の廊下の、真ん中。その壁には、コの字の内側にある広々とした倉庫へとつながっている。そこは、俺がかつて押し付けていた売れない作品たちをレイフォンが放り込んでいた場所で、そして今ではもう一枚の絵を加えた作品たちの保管場所だった。


 部屋の中は埃っぽく、そしてひどく暗かった。近くにある明かりのスイッチを入れたけれど、灯った蛍光灯はひどく頼りなく、明滅が分かるほどの具合だった。右奥には無数に並ぶキャンバスを覆う巨大なシート。あれらが全て「ノスト・バージェス」として描き上げた作品だと思うと感慨深く、そしてそれだけやって結局ろくに作品が売れることのなかった自分の無能さを突き付けられているようで、口の中に苦い味が広がった。

 それを罪の意識と共に腹の奥底へと飲み込んで、俺は扉に木の楔を咬ませて扉を開きっぱなしにして、下心はないと示しつつマリアを倉庫へといざなった。


 やっぱり、マリアは倉庫の中を見ても特に反応を示すことはなかった。不思議そうに周囲を見回すか、あるいは倉庫の汚さに顔をしかめるか、どちらかだと思っていた。正直、昨日の今日でマリアが訪れるとは思っていなかったから、掃除などできていない。幸いというべきか、目的の作品は向かって右側に別枠として置いてあったため、探す手間はなかった。

 埃をかぶった白い布。絵画を覆い隠す布に手をかけて、俺は確認するようにマリアへと振り向く。きゅっと握りしめた拳を胸に当てた彼女は、俺と視線を合わせて真剣な顔でうなずいた。

 俺もまた頷きを返し、埃が舞い散らないように静かに布をはぎ取った。


 そうして、明滅を繰り返す蛍光灯の下で、一枚の絵画があらわになった。これまで、

「ノスト・バージェス」と俺以外見ることのなかった作品が、マリアの目に映っている。

 正直、怖かった。彼女が落胆の顔をするんじゃないかと。酒に飲まれた勢いで完全に言い過ぎたと、後悔が押し寄せて来ていた。「ノスト・バージェス」としての最高傑作だとう確信はあった。けれどそれは俺の考えでしかない。どうあってもひいき目が入ってしまう俺には、この作品の本当の価値はわからない。

 マリアの反応を知りたくないと目を背けるように、俺もまたこれまで忘れ去っていた一つの作品へと、俺の心を揺さぶった世界の一部へと、視線を向ける。

 それは、かつて研鑽の旅で訪れた国の、ありふれた公園のひとつで描いた作品だった。薄暮の頃、わずかに白んだ西の空へと顔を向ける一人の少女の後姿。まるで世界を区切るように立ちはだかる新幹線の高架は、まるで少女の未来に立ちはだかる困難のように、逆光になってのっぺりとした黒い肌を晒していた。

 ぽつりぽつりと光の灯った街の明かりを見ながら、少女は吹き抜ける風に巻き上げられた髪を片手で抑えていた。たなびく黒髪は夜闇に溶け込みながらも街灯の光を湛えて美しく輝いていた。

 あの日の記憶が、呼び起こされた。

 懐かしい記憶を映し出した絵画を前に、俺はどれだけそうして立ち尽くしていただろうか。ふと背後にマリアがいることを思い出して、俺は恐る恐る、どうか失望の顔をしていないでくれと、背後を盗み見て。


 息を、呑んだ。

 あるいはそれは、マリアの様子に当てはまる表現だった。

 背後。微動だにせず絵を見ていたマリアは、大きく目を見開き、おそらくは開きっぱなしの口を楚々として手で覆い隠し。その黒い瞳は潤み、湛えた涙が、つぅ、と頬を伝っていた。

 人が心から感動するところを見たのは、いつぶりだろうか。彼女の表情に、心に、気配に、涙に、俺は飲まれた。

 絵を描きたい――そう思った。彼女の、目の前の彼女を題材に、モデルに、絵を描きたい。この興奮を、この美しさを、愛おしくさえある彼女の涙を、キャンバスに納めて永遠のものにしたい――俺は、一体何を考えているのだろうか。ノスト・バージェスはもう死んだ。ここにいるのは画商のレーダだ。画家じゃない。俺はもう、筆はとらない。

 そう、心に言い聞かせるのに。

 魂は筆を取れと叫び続けた。

 俺は取らない。もう二度と、絵は描かない。あの苦しみは、もうたくさんだ。売れない画家の苦しみから、やっと解放されたんだ。

 こんな感情、まるで俺という存在そのものが画家であると言っているようなものじゃないか。どれだけ苦しくても、その苦しさを知っていても、絵を描きたいと思うなんて馬鹿げてる。俺はそんな殊勝な人間じゃない。俺は全てを投げだした逃亡者だ。俺には、画家として生き続けることはできなかったんだ。今更戻る資格なんてない。

 本当に、そうか?目の前にあるこの絵は「ノスト・バージェス」の絵であると共に、確かに俺の絵でもあるはずだ。この絵がマリアを感動させたというのであれば、俺には画家としての才能があったと、そういうことにはならないか?俺には才能があって、ただ巡り合わせが悪かっただけだと、魂から絵がかきたくてたまらない俺は、才能の有無にかかわらず、画家でしかなくて画家にしかなれない、そんな男なんじゃないだろうか。

 答えは、出なかった。


 そんな俺の思考を止めたのは、震えながらも紡がれたマリアの声だった。美しく澄んでいて、それでいてはきはきとした彼女の声は今、驚愕と困惑、そして感激に揺れていた。それが、うれしくて。

 俺はわずかに心弾ませながら、口を開いた。すなわち、マリアが尋ねたこの絵のタイトルを、告げる。


「ハクボ、だ」


「薄暮……なるほど。そう、なったんですね」


 うれしいような悲しいような、不思議な声と表情だった。探していたものにたどり着いた旅人のような達成感と、唐突に達成してしまったことへの困惑と、これから先をどう生きようかという苦悩。多分、マリアの表情ににじんでいたのはそんな感情だった。


「いくらですか?」


 マリアから絵を買いたいと、そう受け取れる言葉を告げてくれたことがうれしかった。今日は何と幸せな日なんだろうか。マリアにこの絵を渡すのが運命だったようにさえ思えた。ゆっくりと口元から手を下ろしたマリアのほっそりとした指が、ひと房の黒髪を撫でる。

 そして、気づいた。今俺が感じた運命は、絵の中の少女とマリアが、同じ黒髪をしているからだと。とはいえこの国では珍しいとしても、絵を描いた場所ではありふれた色合いだった。だからこれは運命などではない。けれど、たぶんその色が、艶やかな濡れ羽色が、彼女にこの作品を渡すべきだと俺に思わせたのだと思う。


「約束だからな。はした金で十分だ。無名の画家のその一作を認めてくれる君になら、もはや捨て値で売るさ。その方が、この絵にとってもいいだろうからな」


「駄目ですよ。こんなに素晴らしい作品を廉価で買うなんて。あなたが許しても私が許せません」


「これも何かの運命だと思えばいいさ。君が郷愁の念に駆られた際、何気なく眺める日常の一幕になるだけでも、倉庫で埋もれているこの絵にかけがえのない価値が付くことになるんだ。このままここで朽ち果てていくのを待つなんて、惜しいと、そう思ったんだろ?だったら持って行ってくれればいい。それでいいんだよ」


 先ほど絵を見ていた時と同じか、それ以上に大きく目を見開いて、マリアはじっと俺のことを見ていた。水底に沈む黒水晶が蛍光灯の光の中で揺れる。興奮と、次第に膨れ上がっていく罪悪感。その葛藤の中で、俺は彼女の言葉をじっと待った。

 やがて彼女は目尻を軽く拭い、それから真っすぐな瞳で俺を見た。


 淡いピンクの唇が次にどんな言葉を紡ぐか等、既にわかりきっていて。

 俺は彼女の言葉を受けて、一も二もなくうなずいた。


 そうして、ノスト・バージェスの作品は、初めて日の目を見ることになった。

 それは、おそらくはノスト・バージェスという人間にとっての、運命の瞬間だったと、俺は今も、そして未来でもそう確信するのだ。

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