第2話 売れない画家

「違う、こうじゃない!もっとこう、魂が揺さぶられるような……」


 目の前にあるキャンバスの上に広がる世界。俺の苦悩と人生観、その他すべてを乗せて描いた作品は、けれどどこかが足りなかった。人の目を引き付けるような迫力も、現実を超越した美しさも、おどろおどろしい気配も、ない。

 芸術の神は、その作品を祝福してくれていなかった。

 わかってる。これが、俺の今の力量だ。俺の力が、技術が足りず、だから頭の中にあるイメージを、うまく形にすることができていない。あるいは、世界を見る俺の目が、俺という人間性が、凡人のそれでしかないということだ。


 もうこれで何枚目だったか。

 気に入らない作品ばかりが増え、時間だけが浪費されていく。次のコンクールに出品するための絵画の製作は進んでいない。

 これも、俺の心を震わせるモデルと出会えないのが原因に違いない。もっとこう、心震わせるものとの出会いがあれば、俺は絵を見た者みなを震撼させるような絵が描けるはずなんだ。


 ああ、わかっている。これもただの言い訳だ。

 俺自身の心が震えるような瞬間には、そんな心躍る世界を、俺はいくつも見てきた。その記憶を、その思いを、その風景を、こうして絵という形でキャンバスの中に収めて、けれどそこにはやっぱりあの感動の輝きはなくて。

 つまり、俺の才能が、ないのだ。


 売れない画家として活動をし続けてもう十年になる。

 ここらが潮時じゃないか――そんな心の声を無視して、俺は新たな絵を描くべく真っ白なキャンバスに向かい合った。





 うららかな陽光が差す。光をすかす木の葉はまるでエメラルドのように美しい輝きを放ち、やさしい緑に輝いていた。そこにある生命力を手に取るように描けたら――寝ころんだままぼんやりと伸ばしたその手は、何もつかめなかった。

 生命力ある絵を、心震わす絵を最後にかけたと、自画自賛でもそう思えたのは果たしていつだったか。

 風が吹き抜ける。カサカサと鳴る葉擦れの音。芝生が揺れ、緑のにおいが漂ってくる。そこには、あふれんばかりの情報があった。寝そべった頭がつぶす芝生の感触、におい、音、味覚に関連して脳裏に広がる少々青臭い苦みは、子どものころにしていた草笛の味。世界はこんなにも多くの刺激にあふれていて、なのに俺の絵は少しの刺激も製作者である俺に与えることはない。


 まばゆい太陽は、俺の道を照らす輝きは、枝葉にさえぎられて見えることはなかった。

 手を持ち上げ続けているのに疲れて、その腕で目元を覆う。視覚一つが消えれば、ほかの感覚がまどろみから目覚めたようにより多くの情報を俺の脳に届ける。

 遊ぶ子どもたちの歓声、車のエンジンや工事の音、鳥や虫の鳴き声、砂のにおい、太陽の熱、頭部をくすぐるとがった芝生。


 疲れた体は、目を閉じてしまえばすぐにまどろみの中に落ちていった。

 俺は、抗うことなくその眠気に任せて意識を手放した。






 絵を、描いた。

 自分の中にある、自分という存在のすべてを込めて、絵を描いた。

 こうしていると、芸術というのはつくづく己というものをさらけ出すものだなと思う。自分の技量も、才能も、これまでの努力の跡も、そして経験も、人間性も。

 例えば、これまでの経験に暗い側面ばかりを見出す後ろ向きな人間の絵は、それに応じた暗さを見せる――要は俺の絵のことだ。

 かと思えば、世界にあふれんばかりの希望を見出している者の描いた作品は、輝かんばかりの熱と光を放っている。

 まあ、すべてがそんなわかりやすくできているわけではない。すべからく製作というものには苦悩があるからだ。その苦悩で光を輝かせることなく美しさを描き上げるか、あるいは苦悩すら美しさのための糧にする。

 重苦しい作品だって、心上るような祝福を秘めた作品だって、突き詰めれば製作者のすべてを込めた作品だ。

 少なくとも俺は、そう思っている。

 だから、俺は全身全霊を込めて、若々しい緑の輝きをキャンバスにのせた。

 手を伸ばした生命力を、己の中にある願いと希望と、それを求める魂の渇望を込めて、筆を進めた。


 わかっている。ああ、本当にわかっているんだ。

 俺には、才能がない。絵の才能なんて、ありはしない。

 けれど、絵を描くということを、絵を描くという生き方を辞められるかと尋ねられれば、俺は否と答えるしかなかった。

 何しろ、絵を描く以外の生き方を俺は知らなかったから。絵を描くことで自分を表現し、絵を描くことでギリギリ生計を立てて生きていく。そんな綱渡りの人生以外なんて、これまでの人生には見当たらなかった。ああいや、もっと若いころは絵を描くこと自体が純粋に楽しくて、扶養されてただ心の赴くままに絵を描くことができていたこともあったはずだ。

 俺の心は、枯れているのだろうか?もう、俺の心は万人が感じる美しい世界を見ることができなくなっているんじゃないだろうか?

 部屋の端に積み上げられた売れない絵画たちの、怨嗟の声が聞こえた気がした。あの声は、俺の声で、俺の叫びだった。


 そして自分の生き方を変えられない何よりの理由は、絵を描くことに費やしてきたすべてを、無駄にしたくないという思いが、俺の中にあるから。

 確か、コンコルドの誤謬というのだったか。俺は画家としてやっていく能力がないとうすうすわかっていて、それでもこれまで費やしてきた金と時間と、あらゆるエネルギーを思えば、今更この生き方を投げ出したくはなかった。いつか輝ける日が来る。いつか、売れる日が来る。俺の絵が、大衆に認められる日が来る。

 単独で個展を出したり、一枚に驚くほどの値段がついたりして、そうして心軽く筆を取り、絵を描き続けることのできる世界が、これまでの努力が認められる世界が、来るはずだから。

 そう思わないと、やってられなかった。


 そんな俺の筆は、曇った世界を映していた。

 キャンバスの上に描かれる若葉色の生命力あふれる巨木は、もはやその輝きを失い、わかわかしさを取り繕った、そんな見栄だけを求めた存在になり果てていた。






 そこまで考えて、気づいた。俺は、望む絵を描きたいために筆を握り続けているのではなく、惰性と後ろ向きな考えで、筆を取り続けていたのだということに。

 それが、俺が自分の限界を、心から悟った瞬間だった。


 俺は筆を投げ出し、そして書き溜めていた作品たちを、なじみの画商に持っていくことに決めて行動を開始した。

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