死んだ芸術

雨足怜

第1話 在りし日の画家

「君、絵のモデルになってくれないか⁉」


 一目でほれ込んだ人物へと、若い男が声をかける。そんな男に、まだ十代半ばほどに見える少女は、不審感を隠しもせずに一歩背後へと後退りした。

 長くつややかな黒髪が、少女の動きに合わせて揺れる。その先には、ゆっくりと沈んで行こうとしている太陽の姿があった。広々とした公園では、恐竜の姿を模した遊具を滑り降りる少年少女の歓声と、子の下へと帰ろうというのか、寂寥感ある鳴き声を響かせなが夕焼け色に染まった空を飛んでいくカラスたちの声が響いていた。

 夕焼けをバックにたたずむ少女は、この国では少々目立つ、はっきりした目鼻立ちをしていた。その微妙な異国風の面影が、画家の青年の琴線に触れたのだった。


「絵のモデルになってくれ。頼む、この通りだ!」


 もう一度、鳴き叫ぶカラスに負けないように声を張り上げて、男は深く頭を下げる。その拍子に首に提げていた画板が揺れて、男の膝を襲った。

 痛みにうめく男は、それでも顔を上げずに少女に頼み込む。

 下げられた頭。その後頭部に、「うっ」とためらうような少女の苦悶に満ちた声が響いた。


 青年が顔を上げる。

 これほどまでに情熱的にこい願われた経験のなかった少女は、男の熱意にたじたじになっていた。

 一歩、開いていた距離を埋めるように、男は前に進む。

 肩に担いでいた鞄が、揺れる。カチャン、とキーホルダーが揺れた。


「ごめんなさい!」


 早く帰らないと――大した用事はなかったけれど、恰好の言い訳を見出した少女は、そう男に言い捨てて鞄の持ち手を両手でぎゅっと握りこんで、走り出そうとして。


「そのまま!」


 くるりと背中を向けたタイミングで、男は少女に制止を求める。

 まるで地面に足が縫い付けられたように、少女は動きを止めてしまった。ドクン、ドクンと心臓が強く鼓動を刻んでいた。頬が、わずかに朱に染まる。

 少女の脳裏に、強く焼き付いた男の顔が浮かび上がる。冬の空のようなすがすがしい透明感のある青い瞳は、燃え上がるような情熱の輝きを帯びていた。麦畑のようなまばゆい黄金の髪は、かすかに吹き抜ける秋風になびいて揺れていた。

 視線の先には、燃えるように赤い太陽。その光のせいだからと、少女は顔のほてりの理由を自分の心に言い訳し続けた。


 少女の背後では、驚くほどの速度で筆を走らせる青年の姿があった。今この瞬間を手元のキャンバスに閉じ込めるべく、青年は鉛筆を進める。

 まるで体が芸術の神に乗っ取られたように、青年は一種のトランス状態で作業を続けた。世界の全てが、手に取るように手元の空白を埋めていった。花開くつぼみと、変わりゆく空、美しい変化の一幕の見せるすべての姿を収めるべく、彼は作業に没頭した。


 ふぅ、と青年が息を吐いて。

 それによって呪縛から解き放たれたように、少女は大きく息を吐きだした。


「終わり……ましたか?」


 ああ、とどこかぼんやりした声で青年は少女に答えて。そしておもむろに画材を足元に転がしていた大きなカバンにしまい始めた。

 え、と少女が小さく声を上げる。なんだ、と不思議そうに青年が作業を中断して顔を上げる。


「見せてくれないんですか?」


「未完成品を見せるつもりはないよ。たとえまだ未熟な卵だとしても、心だけでもいっぱしの芸術家でありたいからね」


 この作品が日の目を見るのは完成してからだよ――独自の価値観を風のように吹かせる異国風の男は、そうしてすたすたと歩き出した。

 すでに日が落ちた夜の公園。子どもたちが遊ぶ声も聞こえなくなったそこで、少女は立ち尽くした。


「何だったの……?」


 どこか夢見心地で答えた少女の耳に、バチバチという電撃の音が響いた。走り去っていく新幹線の、闇夜にぼんやりと浮かぶ白い車体を見ながら、少女は小さく吐息を漏らした。

 それは、ありふれた少女の人生における、おそらくは最もおかしな出来事だった。


 それから、しばらくして。

 絵を掻き上げた青年は、そのモデルとなった少女に絵を見せるべく、毎日その公園に足を運んでは、少女の姿を探し続けた。

 けれど、少女は一向に現れることなく。


 青年は少女に完成品を見せることなく、祖国へと去っていった。

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