第3話 画廊

 その画商は街の中心から大きく外れた、ひどく辺鄙なところにある。どうしてこんなところにあるのかと以前聞いた際には、このほうが客の受けがいいからだと彼は答えていた。客の受け以前に店にどれだけの人が来るかどうかが肝心だろうにと思ったが、「わかってねぇな」と一蹴されてしまった。つまり、行きつけの画商は相変わらずこの家からひどく遠いところにあり続けていた。


 大きなキャンバスを何枚も持ってその場所まで向かうことは容易ではない。正直こんなことで筋肉痛になって思うように筆を振るえないのはごめんで、俺は押し入れにしまっていた組み立て式の荷車を取り出し、その荷台に傷がつかないように軽く梱包した作品を載せて歩き出した。


 不思議なものを見る目が俺に集まっていた。その中には、侮蔑の感情のこもっている視線もあった。もう若くないのに叶わない夢を追いかけている阿呆か、あるいはゴミを回収して生計を立てている浮浪者に見えたのか、真実のほどはわからなかった。けれど不快であることには変わらなくて、俺はのんきに突っ立っている街灯の一つを蹴り飛ばした。

 ひどく足が痛んだ。金属の棒を蹴ったのだから当然のことで、けれど俺のいらだちは増すばかりだった。

 額に汗をにじませながら、荷車を引いて歩道を進んだ。そのうちに、左右に広がっていた石造りの建物は次第にその感覚を広げていき、代わりに畑が混じり始める。その比率は先へ進むほどに畑優勢へと変化していき、それと同時に建物の中に風車小屋が混じり始めた。

 ちょろちょろと流れる水の音と、風車の音。くるくると回る羽をぼんやりと眺めながら、俺は砂利道を歩き続けた。


 降り注ぐ日差しはひどく強くて、どこまでも俺を攻撃し続けた。


 そうしてたどり着いたのは、巨大な風車小屋。遠近感のおかしくなるようなそのこげ茶色の建物が、目的の画商が営む画廊。

 素朴感あふれる建物の前には黒のポルシェ。こうしてみると、いつもこの画廊には服装から気品がにじむ紳士淑女たちが一組は滞在しているような気がする。意外と儲かっている、のか?こんな場所が?

 明らかに場違いなそれの横に荷車を止めて、俺は額の汗を拭った。

 レイフォン。レイだとかフォンだとかリーンだとか呼ばれている初老の画商は、今日も入り口のカウンターテーブルで新聞を読んでいた。


「よう、邪魔するぜ」


「邪魔をするなら消えろ。目の毒だ」


 モノクルを光らせるレイフォンは、顎で俺に退出を要求してきた。これはいつもの挨拶。気にすることじゃあない。客と俺の対応の落差がひどいが、もう慣れたものだ。五年以上の付き合いがあるレイフォンも、俺がこの程度で出ていかないことを知っているからそんな軽口を叩けるのだ。ああ、そうに違いない。

 この画商にとって俺に、そして俺の作品に価値がないというわけじゃあないんだ。だから俺への対応が悪くないわけじゃない――はずだ。


「そりゃあねえだろ。作品を納品に来たんだ。客だろ、客、お客様」


「阿呆が。売れない商品を無理やりおいていくやつのどこが客だ。うちは倉庫じゃないんだ。いい加減あの肥やしをどこかへ持っていけ。邪魔で仕方がない」


「そんな作品たちをいかに高額で売るかがお前の仕事じゃないのか?俺の作品を泣かせてくれるなよ」


 本当に笑わせてくれる。売れないのではなく、お前が売らないというのが正確なところだろ。大体、俺の作品がこの画廊に並んでいるところを俺は見たことがなかった。今日も後で確認のために見回るつもりだが、間違いなく俺の絵は飾られていないだろう。

 つまり、俺の絵は物置から出されていないということ。そりゃあ売れるはずがない。きっと倉庫から出されて展示されていれば、俺の作品も他同様ちゃんと売れていくはずだ。


「ふざけたことを言うな。儂は自分がこれと認めた作品を適切な価格で買い手に売っているだけだ。二束三文の価値しかない商品を、どうして芸術だと言って売ると思っている?」


 ああ、腹が立つ。俺の作品が売れない原因は、お前の怠慢が理由だろうが。だが、ここで当たり散らすわけにはいかない。物置の肥やしにしてくれやがるとはいえ、レイフォンは倉庫屋として役には立っているんだ。俺の作品を一目見て鼻で笑った、お高く留まっている画商たちに比べればよほどましだ。第一あいつらは芸術というものをわかっていない。格式張っていて、型にはまっていることを好む、常にスーツを身に着けている阿呆どもだ外面を取り繕うばかりの彼らの目は節穴だ。実際、あいつらが展示室に並べていた作品はひどいものばかりだった。限りなく写真に近づけた、外面だけ美しくて何の魂も宿っていない絵。画家の命が何一つこもっていないあんな作品に目玉が飛び出そうな法外な値段をつけているあいつらに頭を下げて画廊に俺の絵を展示してもらうのはこっちからお断りだった。

 だが、こいつは違う。俺の作品についてはともかく、こいつには確かに芸術を見る目がある。以前酒の席で昔贋作に引っかかってひどい目にあったという話をしたことがあるそれからこいつは必死に目利きを磨き、とうとうこうして揺らぐことなく画商で生計を立て続けている。

 昔は、こいつが認める作品を書いてやろうと反骨精神を燃やして絵を描いていた時期もあった。だが、ダメだった。俺にはこいつのツボがわからない。こいつが評価する価値を、芸術性を、俺は理解できなかった。

 つまり俺とこいつが分かり合えないのは芸術性の違いが理由――なはずだ。


 これから来客対応があるから話はあとにしろ――そう言って追い払うように手を振るレイフォンに背を向けて、俺は暗がりにある画廊の奥へと一歩を踏み出した。ちなみに、入館料なんてものは知らん。本当はあるはずだが、俺はもう何年もそれを払った覚えがない。最後に払ったのはいつだったか?確か最初にこの画廊を訪れた時、あとは――

 並ぶ芸術たちを見ながら、俺は暗い画廊をすすんでいく。

 間接照明によって暗がりに浮かび上がった絵画たちは、確かに目を奪われるような不思議な気迫や雰囲気があった。

 それらの絵は、確かに一目でわかるほどの特異な作品ばかりだった。レイフォンの目利きは、確かだ。ああ、俺とあいつの芸術性はそれほど大きく乖離していない――並ぶ作品たちが、その事実を俺に突きつける。


 胸が、あるいは魂と呼ぶべきものが軋んだ気がした。小さな鈍痛が頭に響いた。


 その痛みを努めて感じていないふりをして、俺は画廊を進んだ。進めば進むほどに、脳が悲鳴をあげていた。見るな、理解するな――そう警告しているようだった。

 俺の足は、コの字を描く画廊の順路の、その一つ目の曲がり角で止まってしまった。


 つらいでしょう?苦しいでしょう?その苦難から逃れるためには何をすればいいのか、あなたはもうすでに理解しているでしょう?

 ――真正面にある半裸の女性の姿絵が、俺に声をかけてきているようだった。


「……うるせぇ」


 小さくつぶやいた声は、自分でもわかるほどに掠れていた。わかっている。芸術家から離れれば、この苦悩は、売れない苦しみは、はるか遠い理想に手を伸ばす現実から解放されると、そうわかっていて。

 けれど俺に染み付いた生き方が、あり方が、俺を放してくれない。俺を、許してくれない。


 俺は、筆を握る以外に何もできない、凡人にもなりきれない愚者だった。

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