第4話 そうして彼は己を殺した

「大丈夫ですか?」


 突如響いた声に、俺は肩を跳ねさせた。恐る恐る視線を半裸の女の絵から横にずらす。そこには、気高く美しい一人の女性が立っていた。間違いなく、先ほど目にした高級車の持ち主あるいはその付き添いだ。俺とは別世界に生きる、けれど俺たち画家が生きていける理由でもある富裕層にいる女。

 美しい黒髪が、ライトを浴びてぼんやりと浮かび上がっていた。黒い瞳は、まるで黒メノウのように不思議な光のラインが入った、深い闇の底のような色をしていた。

 その瞳が、心配そうに揺れる。俺は、そんな顔をさせるほどの表情をしていたのだろうか。魂が体から抜け出たような顔?あるいは、亡霊にでも遭遇したような表情でもしていたのだろうか?


 わからない。女の行為も、その瞳に宿る感情の真意も。今俺が浮かべている表情さえも。

 わからない、けれど。

 その声が、顔が、言葉が、どういうわけかひどく俺の魂を揺さぶった。魂にひびが入ったような、そんな音を聞いた。

 理由は、わからない。

 ただ今すぐこの女の目の前から逃げなければならないと、そう思った。思って、俺はそこが画廊であることにも構わずに走り出した。

 ぎょっと目を見開いたレイフォンが、おかしな光がにじむ瞳で俺の事を見ていた。

 そんなことはもう、気にならなかった。


 女の黒い視線が、俺の魂にこびりついて離れなかった。

 あの目に、蔑みの色はなかったはずだった。軽蔑の光も侮蔑の光もなかった。ただ、そこには深い闇があった気がした。その闇に、俺はたぶん心とらわれたのだ。

 闇の底に、ゆっくりと魂が引きずり込まれていく。

 これまで必死に見ないようにしていた絶望が、俺の足から這い上がって、全身を包み込んでいく。

 気づくな――魂が叫んでいた。けれど、俺はもう、その言葉を無視することはできなかった。


 持ってきていた絵も、荷車も放り出して、俺は走った。

 久しくまともな運動をしていなかったから、体はすぐに悲鳴を上げた。

 足がもつれて、あ、と思った時には体は地面へと投げ出されていた。


 じぃんと、痛みが体のあちこちをうずかせた。擦りむいた手のひらも、肘も膝も、ゆっくりと、なぶるように俺の心に爪を立てていくようだった。

 痛みが、深まる。

 心が、ひび割れる。

 取り繕っていた心の奥から、いびつにゆがんだ感情が顔をのぞかせた。


 売れたい。有名になりたい。俺の絵を、世間に知ってもらいたい。


 挫折して、心ねじ曲がった醜悪な画家の思いが、あふれ出した。

 涙が出た。無様な自分に、泣きたかった。

 ああ、俺はゴミだ。俺は売れない画家だ。商売目的で絵を描き続けて、真に必要な心から、心の奥底の叫びを封じて魂を込めることなく絵を描き続けた無能だ。あるいは、売れない苦悩だけを作品に込め続けてきた阿呆な画家だ。

 レイフォンが阿呆と言っていたのは、こういうことだろうか。

 だが、もう遅い。理解したのは、あまりにも遅すぎた。

 気づいて、そして。

 俺の魂は、画家としての魂は、もう修復不可能なまでに壊れてしまっていた。


 俺はきっと、生涯画家として大成することはない。


 だが、この身に巣くう醜悪な感情が、多くの人に自分の絵を見てほしい、知ってほしいという、画家にとってはあるいは最大の望み。それが、俺の心で叫び続けた。

 俺の人生は、画家として生きて死んだ人生は、終わった。終わってしまった――そうだ。俺という画家はたった今、死んだのだ。


 死。芸術家の、画家の死。

 それはあるいは、作品に付加価値をもたらす。俺の作品は、果たして俺が死んだ後にどれほどの価値を見せるだろうか。やはりガラクタとしてレイフォンの倉庫の片隅で朽ちていくのだろうか。あるいは、空高く羽ばたいて、死した巨匠の作品として名声を得るのだろうか。


 わからない。けれど、知りたいと思った。

 俺は、俺という画家が死んだあと、俺が作り上げてきた絵が有名になる未来を見たかった。


 そう、俺は、俺という画家を殺す道を選んだ。






 俺は重い体を引きずって今のアパートへと向かった。ぼろくて、隙間風だってひどい、けれど格安のアパート。そこに無駄に並んでいた惨敗兵たちの――俺の目から見てもガラクタ以外の何物でもない作品たちを、破壊していく。

 芸術の値段には、希少性という付加価値が加わっている。それを生み出すためには、俺が書き続けた作品たちは多すぎた。レイフォンの画廊においてあるまだましな作品たちはいい。だが、ここにあるガラクタは処分する必要があった。これらの存在は、俺の絵が万に一つ、億に一つ有名になる可能性の芽を摘み取る害悪だった。


 これまで描き続けてきた人生の軌跡を、魂のかけらを、俺は次々に破壊した。そのたびに、心が壊れていった。もはや修復不可能なひびが入っていた俺の心は、ぼろぼろに砕け散った。俺は、そうして画家としての俺を粉々に砕いて、そして。

 無数に並べられていたキャンバスたちの奥の奥から、黄ばんだ布にかかっていた一枚の絵を見つけ出した。それを、絵も見ることなく砕こうとつかんだ俺の体は、けれど金縛りにあったように動かなくなった。

 魂が、叫んだ。これだけは、破壊するなと。

 懐かしい寂寥が、遠き日の出会いと別れが、脳裏に浮かび上がった。

 そっと、ほこり除けをめくってその絵をのぞき込んで。


 俺は、泣いた。

 そこには、かつての情熱と、未来への希望に満ち溢れた若き画家ノストとして描いた、一人の女性の絵があった。

 俺は、その絵を壊す気にはならなかった。ひょっとしたらこの絵ならレイフォンに買い取ってもらえるかもしれない――そう思っても、売る気にもならなかった。俺はしばらく考えて、そして。

 その絵一枚だけを残して、俺は死を選んだ。


 その翌日。新聞の一角には、とある画家が無差別殺人犯によって殺されたという記事が載った。

 被害者の名前は、ノスト・バージェス。売れない画家として活動を続けてきた、その日三十歳になる男――すなわち俺の名前だった。

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