第5話 死と、変わらない世界

 ノスト・バージェスは死んだ。死んで、そして。ノストの遺品は生前の知人であったレイフォンに引き取られることになった。

 それから、数年後。元々体のあちこちにガタが来ていたレイフォンははやり病をこじらせて逝き、彼の弟子であった壮年の男が画廊を引き継いだ。






 ノスト・バージェスという画家が死んでからの作品たちの価値の変遷を見る――そのためには、俺という人間が死ぬわけにはいかなかった。死ぬのは、あくまでもノスト・バージェスという画家。

 だから俺は、かつてやけっぱちになっていた時に知り合ったアンダーグラウンドのつてをたどり、俺という人間を殺し、そして顔も名前も変えてレイフォンの弟子になった。

 レイフォンは、たぶん俺が昔ノストと名乗っていた男だと気づいたと思う。レーダ・ヒムカという新たな名前を手にした俺を見て、レイフォンは驚いたように目を瞠ったから。

 けれど。それだけ。レイフォンがそれ以上何かを言うことはなくて。俺もまた、自分のことについて深く語る気はなかった。けれどレイフォンが俺に気づき、そして何かを思ったことによって、俺は彼の弟子になった。


 俺は画家としての人生を失って、けれどその人生の中で培ってきた目利きだけは失っていなかった。何度もレイフォンの画廊に通っていた俺は、彼の目利きの技術を受け継ぎ、早くもいっぱしの画商に至っていた。そう、自負していた。

 残る問題は、レイフォンが培ってきた顧客――画家あるいは絵の買い手――とのつながりの一部が途絶えてしまったことと、顧客と俺との間に十分な信用関係がなかったことだった。長きにわたって上流階級との信用関係を築き、そして生きた年数と貫禄を持っていたレイフォンとは違って、ポッと出の俺に不信感を隠さない客は多かった。けれど俺は、あくまでも一人の画商として、芸術を求める者の手につなげるために、奮闘し続けた。


 俺は、画廊の最も目立たない場所に、値段をつけることなくノスト・バージェスの作品の一つをひっそりと置いた。日の目を見たその作品は、けれど誰の目にも留まることはなかった。ノスト・バージェスという存在が死んでから、すでに四年。彼の死はとっくの昔に消費され、その価値などあってないようなものだった。


 俺が死んで、けれど絵の価値は変わらず低迷を続けていた。所詮、世界などこんなものだ。名声を持つ人物の目に、画廊で埋没する俺の作品が映ることもなく、ただ無価値な作品が一つ、画廊に並ぶだけ。

 そんな風に、俺の新しい生活は過ぎていった。






 バー「フレイヤ」。街の一角にひっそりとたたずむその場所は、最近の俺の行きつけの店だった。赤レンガが美しい木目が織りなす店内の装飾は心休まるものがあり、古いレコードの響きはノスタルジックに俺の心にしみわたった。

 何より、そのバーに時折訪れる若い女性が、俺の琴線に触れた。

 黒い髪が美しい、異国風の女性。黒髪自体は旅行客で時折見るのでそれほど珍しくなかったかが、この地に骨をうずめる気がありそうな人物はあまり見なかった。女は、服装から察するにこの国の上流階級の社交場に出入りしているだろう人物――俺からかけ離れた存在だった。

 遥か遠い日に訪れた国を思い出させるその女性。身分が釣り合わないにもほどがある彼女に、俺は心奪われてならなかった。


 その女は、マリアと名乗っているらしかった。ある時彼女とともにバーに足を運んでいた妙齢の女性が、そんな風に女のことを呼んでいたから。

 黒髪を結い上げることでさらされた白いうなじがなまめかしかった。妖艶に緩む唇から、目が離せなかった。


 俺が今日も店でウイスキーの氷を揺らしながらその琥珀色の液体を透かしてグラスの輝きをぼんやりと眺めていると、いくつも空いているカウンター席のすぐ隣に誰かが座る気配があった。

 甘く、それでいてどこか気高いように思う不思議な花の香りが隣から香った。

 俺はゆっくりと、半ばとろけた思考で隣へと軽く視線を向けて、体を凍り付かせた。


 そこには、俺が探していた女が、俺の心をつかんで離さないマリアがいた。

 俺の視線に気づいたマリアが、わずかに眉尻を上げ、ゆるりと微笑む。バーテンダーに注文を入れた彼女は、「よく見る顔ですね」と俺に話しかけてきた。うだつの上がらない飲んだくれにしか見えないだろう俺に、だ。

 心臓が喉から飛び出しそうだった。誘惑するように揺れる熱を帯びた瞳が、緩んだ口元が、俺の視線をとらえて離さない。間接照明の光を浴びて暗がりに浮かび上がった黒髪が、なまめかしく輝いていた。

 のどの渇きを酒でごまかして、俺は「ああ」と一言だけとらえた。ぶっきらぼうにもほどがあった。明らかに悪く思われたと、そう考えたのに。

 マリアは楽しそうに顔をほころばせて、カウンターに置かれたグラスへとゆっくりと口をつけた。


 正直、夢見心地だった。彼女はまるで俺に興味があるように、たくさんのことを聞いてきた。美人局の可能性が脳裏をよぎった。けれど、目の前の女性はそんな外面だけ取り繕った女ではなく、いうなれば美魔女、あるいは魔性の女という表現がふさわしい、艶やかな女性だった――俺の目には、それ以外には映らなかった。

 女は、俺のどんな話を聞いても楽しそうに笑っていた。その笑顔が社交辞令であってもかまわなかった。俺は画商という職業について、できる限り面白おかしく語れたと、そう思う。

 聞き上手なマリア、俺の心をわしづかみしたマリアを見て、ふと彼女のような心美しい人物であれば、たとえ価値のないノスト・バージェスの作品を手にとっても笑うことなく、忌避することなく自宅に飾ってくれるのではないかと思った。そうして、彼女の家にノスト・バージェスの絵が飾ってあるところを見た社交相手にその名が広まって、ノスト・バージェスの絵はゆっくりと価値を持っていくのではないか――そう、夢想した。

 けれど、俺はそれを言うのをためらった。彼女の身なりから予想される地位は、ノスト・バージェスという画家の作品を広めるためには有効だった。だが、俺は彼女を利用するのが嫌だった。

 それほどまでに、俺は彼女にほれ込んでいた。愛していたという表現を使っても、間違いではなかったかもしれない。


 俺は彼女を利用したくなくて、けれど降ってわいたこの運命を逃したくもなかった。そして何より、彼女に俺の作品を見てほしいと思って、そして聞き上手な彼女は、俺の口を軽くしていた。


「……一つ、ぜひ君に手に取ってほしい作品がある」


 気づけば俺は、そんなことをマリアに告げていた。

 こんなところでも商売ですか?――呆れの響きの感じられない声で、からかうようにマリアが笑った。


「商売……確かに商売かもしれない。だが、純粋に、君に見てほしい絵があるんだよ。別に、買ってくれなくてもかまわない。何なら、捨て値に等しい値段で売ってもいい」


「それはつまり、その作家の名前を私に広めてほしいということでしょうか?」


「さてな。君が気に入ってくれれば、それでいいさ。俺は、あの絵を君に持っていてほしいと、そう思ったんだ。無価値だからと師匠が倉庫にしまっていたあの絵が君の手にわたってくれることを、俺は願っているよ」


 これは運命なのかもしれない――そう言いながら、俺は自分の名刺を、レイフォン改めレーダの画廊の場所や連絡手段を描いた名刺を女の手に握らせた。

 女は少し困ったように紙片を受け取り、書かれている内容に目を通した。

 その時、その目がわずかに見開かれていたのは、すでに相当酔っていた俺の目の錯覚だったかもしれない。

 それからしばらくして顔を上げたマリアは、強い光を宿した目で俺を見て、「行きます」と告げた。


 必ず行きます、ですから、その作品をちゃんと見せてください――ひどく真摯な声が、心に突き刺さった。俺は彼女を利用としている――罪悪感で、心が張り裂けそうで。けれど罪の意識を酩酊感がごまかしてくれたから、俺は負い目を顔に出すことなく、マリアに微笑み返すことができていたと思う。

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