第8話 罪悪感
レーダ画廊の名は、瞬く間にこの国の、ひいては諸国の識者の知るところとなった。天才的画家ノスト・バージェスの才能を若くして見出し、そして彼亡き後もその作品を守り続けたとして評価されるようになった。あるいは、世界で唯一、ノスト・バージェスの絵画たちを多数見ることができる画廊として、あるいは美術館なあり方で知られるようになった。
俺は資本家たちの望みに応え、あの薄暗い倉庫を改修してノスト・バージェス単独展示室へと変えた。
美しい光の中で飾られる絵画たちは、けれどひどく空虚に見えた。
一大ブームを引き起こしたそれらの絵は、泣いているようにも、あざ笑っているようにも、やっぱり能面のように表情に変化なくあり続けているようにも見えた。
絵は、たぶん俺のことをあざ笑っていた。マリアに会えさえすれば、ノスト・バージェスとして死ななければ、お前がこの賞賛を受け取れただろうにと。
けれど、俺はどうでもよかった。今更捨てたその名も、名誉も、かつては狂おしいほどに願った、大衆にノスト・バージェスという画家の作品が見てもらえるということでさえ、興味がわかなかった。
俺はただ、何もわかっていない金持ちたちの言葉を右から左に聞き流しながら、その心の中で絶えずマリアのことを考えていた。
ノスト・バージェスの作品の火付け人にして、俺が一枚の絵を託した女性。彼女の泣き顔が、瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
あの涙の意味を、知りたかった。あの絵の何にそれほど感動したのか、彼女の本当の言葉を、聞きたかった。伝聞ではない、彼女自身の、歪められていない評価を聞きたかった。
おそらくは彼女こそ、この世界で唯一ノスト・バージェスを、あるいはその作品を、正しく芸術家・芸術として見ることができている者だろうから。
俺は、マリアに会うことを望んだ。
けれど同時に、マリアに会わないことを望んだ。マリアに会って、そして――考えるだけで、俺は吐きそうだった。もはや心の大部分を占めた罪悪感が、マリアの幻影を見ただけでうずいた。暴れ出そうとするその思いは、叫ぶ。
俺はマリアを利用したんだ!あなたを利用して、ノスト・バージェスという売れない画家が大成する夢を見たかったんだ!俺は腐った人間だ!俺はあなたを裏切った!真摯に絵を向き合ってくれていたあなたを、俺が裏切ったんだ!
心の悲鳴を押し殺して、俺はただ淡々と、ノスト・バージェスを求める資本家たちに答え続けて、そして。
残る全ての絵が、世界へと羽ばたいていった。
空っぽの展示室を、呆然と見つめていた。
そこには、あれだけ並んでいたはずの駄作は、ただの一枚もなかった。
意味が分からなかった。これが現実なのか、それとも俺が都合よく歪めた夢の世界なのか、判別できなかった。
まるで足は地面についておらず、体がふわふわと宙を漂っているようだった。
あるいは、大地はすぐにでもひび割れて、奈落へと俺を引きずり込もうとしているようだった。
驚くほどの金が、転がり込んだ。
無価値だったはずの絵画たちに莫大な値がついて売れて行って、俺はなり上がった。
けれど、それだけ。
俺の心は、乾いていた。
空虚で、そして狂おしいほどの罪悪感が、その穴の中でうごめいていて。
俺は、空っぽの展示室に鍵をかけて、背中を向けた。
埃一つないその場所は役割を果たし、再びただの倉庫へと戻った。
ゆっくりと、覚束ない足取りで俺は画廊を進んだ。無数の絵が、ノスト・バージェスのそれよりも明らかに価値のある絵たちが、俺に恨みの視線を向けていた。多少入れ替わった作品たちと共に、新進気鋭の、芸術に心燃やす若き芸術家たちの、あるいは挫折することなく書き続ける熟練の画家たちの顔を、思い出した。
彼らの顔は全て、憎悪に、嫉妬に、染まっていた。どうしてノスト・バージェスだけ、どうしてお前だけ――それらの目が、口が、表情全体が、語っていた。
あの作品に一体どれだけの価値がある⁉どうして僕たちの絵は売れず、あんな駄作が売れていくんだ。おかしいだろ、なぁ――
責める声が、耳朶を揺さぶる。
幻聴が、俺の足取りを重くする。
視界の端、半裸の女が俺を睨んでいた。ノスト・バージェスよりよほど技量の高い同世代の、けれど今でも絵を描き続けている男の作品が、そこにあった。
その女が、俺を睨む。
睨んでは、いなかったかもしれない。
けれど俺は、その目がやっぱり今日も、俺を睨んでいるような気がした。
あの日のように、俺に逃げてしまえと誘う声は、聞こえなかった。
逃げる理由なんて、なかったから。俺はもう、画家という立場から、苦しみに満ちた創作活動から、解放された。
もう、俺は自由だった。大金を手にして、名声を得て、画商として大成して、かつての望みであったノスト・バージェスの作品を世に広めるという夢も果たした。
けれど、女はやっぱり俺を見て、声を投げかける。
戻って来いと。お前は、やはり苦しまなければならないと。お前は、芸術家という道から決して逃れることはできないのだと、告げていた。
「うるせぇ」
あの日のように、そう吐き捨てて。
けれどやはり、俺の脚は動かなかった。
体が、魂が、叫んでいた。絵を描きたいと、美しい世界を、真っ白なキャンバスの上に閉じ込めたいと。
けれど、それは無理だ。そんなことはできない。あの苦悩に満ちた世界に、俺は戻りたくない。そして、俺にはもう、自分の心を震わせる、世界なんて、見えやしない――
「大丈夫ですか?」
声が聞こえた。落ち着きのある、若さと気品を具えた声。
魂が震えた。それは、狂おしいほどの罪悪感か、愛情か、恐怖か。
ゆっくりと振り向いた、その先に彼女はいた。
わずかな既視感が、あった。
今日もやっぱり夜に溶ける黒目黒髪をぼんやりと薄暗い回廊に浮かび上がらせたマリアが、美しい黒水晶が、そこに立っていた。
やっぱり――柔らかな唇が、そんな言葉を紡いだ気がした。わずかに、顔に影が差していた。それは、視線が下を向いているせいか、あるいは、何か辛い記憶が呼び起こされたからか。
わずかにうつむいていたマリアが、顔を上げる。そこには、先ほど垣間見えた気がした影は、見えなかった。
温かで、それでいて鋭い黒曜石のような瞳が、俺の体を貫いた。たったそれだけで、魂さえも彼女の手に握られたように思えた。
心臓が激しく脈を打った。この場から逃げ出したい――そう思った。
けれど、体は動かなくて。
一歩、マリアが近づく。
暗がりの先から進み出たその顔は、よりはっきりと俺の視界に映る。
泣いているような、怒っているような、慈しんでいるような、そんな表情でマリアが口を開く。
やめろ、俺を罰してくれるな。俺の罪を、晒してくれるな。俺の醜さを突き付けてくれるな。
宣告を待つ受刑者のごとき面持ちで、俺はマリアの言葉を聞くまいと心に蓋をする。
あるいは、俺はマリアに断罪されることを、求めていたのかも知れない。
果たして、マリアが俺に告げた言葉は、「少しお茶をしませんか」という物で。
俺はようやく金縛りから解放されて、小さく、本当に小さくうなずくことしかできなかった。
黒いポルシェに乗って進んだ先は、白い外壁が美しい豪邸だった。高々とそびえる黒い鉄柵を越えた先には、美しい噴水付きの庭園が広がっていた。
マリアは、慣れた足取りで石畳を進んだ。俺は、ただ黙ってその背中についていくしかなかった。
ここはどこだと、問いたくて。けれどもう、予想はできていた。
弾む心が、逢瀬に歓喜する魂が、告げていた。ここは、彼女の自宅だと。彼女は、俺を自分の生活空間へと招いてくれたのだと。
期待してもいいのではないか――よこしまな考えが、胸の中に浮かび上がった。そんな感情は、すぐに罪悪感という狂気によって叩き潰され、飲み込まれ、漆黒の海へと消えていった。
俺がマリアとどうこうなろうなど、虫が良すぎる話だった。俺は彼女を裏切っている。彼女を、利用している。たとえ彼女がその事実を知っていようと、俺が俺を許さない。
そして何より、ただ二回会った程度の間柄であるマリアが、自分に好感を持っているはずがなかった。じゃあ、マリアはどうしてここへ俺を連れて来た?やっぱりここはマリアの家ではなく、特殊な喫茶店か何かか?そういえば最近はこうした古風かつ気品のある喫茶店がブームだという話ではなかっただろうか。では、彼女は言葉通りお茶をしに喫茶店へ訪れた?
いいや、たぶんここは、彼女の、マリアの家だ。その足取りが、気を抜いた空気感が、それを示していて。
そして俺の予想は、玄関先に飾られた一枚の絵によって、肯定された。
「……ハクボ」
俺たちを出迎えたのは、一枚の絵画。夜の世界に一抹の太陽の軌跡を残した時間、消えゆく光とそこに立ちはだかる壁を睨む一人の少女の後姿。それは葛藤の背中であり、歩みを止めずに歩き続ける覚悟の背中であり、ただ美しい空の色に心打たれる背中であり、あるいは――何だろうか。
俺が捨てた絵が、捨てた過去が、そこにあった。まるで、俺をあざけるように、その絵が俺を見下ろしていた。
ゆっくりと、マリアはその絵の前へと歩いていく。当然、俺もマリアの背を追って先へと進んだ。
マリアの手が、額縁に納められた絵へと伸ばされる。ガラス板をなでるその手には、慈しみが、愛情があった。
その手が、愛おしそうに絵の右下にあるサインをなぜる。
ぞわりと、背筋に言いようのない感覚が迸った。
俺は、足音を立てないようにこっそりと前に歩み出て、マリアの横顔を盗み見た。
息を飲んだ。
熱を帯びた瞳、朱に染まった頬、熱い吐息が柔らかな唇から零れ落ち、長い睫毛がか細く揺れていた。
恋する乙女の顔をしたマリアが、そこにいた。
狂おしいほどの激情が、のど元までせり上がる。
俺が、俺がノスト・バージェスなんだ――そう、言ってしまいたかった。
この期に及んで、あれだけ胸の中に広がっていた罪悪感は仕事をしなかった。俺を見てくれ、俺がノスト・バージェスだ、俺がその絵の製作者だ、俺を見てくれ、そんな絵じゃなくてこの俺を見てくれ、その顔を、その目を、俺に向けてくれ、その思いは、俺に向けられるべきものなんだ。俺が、受け取るべき賞賛なんだよ――
体が、震えた。溢れた激情が、涙さえ流した。
けれど、夢見心地に絵を見上げるマリアは、俺の様子に気づきはしなかった。
急速に、心が冷えていった。激情とは、温まるのも冷めるのも一瞬な感情だ。一呼吸置けば、その感情はまるで静寂の中に広がる水面のように、波紋一つ浮かべることなくそこにあった。波風吹かず、ただ静かに、鏡のように世界を映す。
俺はもう一度、絵を見上げた。
そして、気づく。今俺は、賞賛は絵画ではなく、その絵を描いたものにこそ向けられるべきだと思わなかったか?ああ、俺は確かにそう思った。この際、絵の作者がノスト・バージェスだろうが今ここにいる俺だろうが、どうでもいい。
正しいのはどちらだ。素晴らしい、心震わせる絵が一枚あったとして。賞賛を受けるべきは、その絵か、あるいはその絵を生み出した芸術家か。
そんなもの、その絵自体に決まっている。何しろ、芸術家自身には、鑑賞者の心震わせるような何か等ないのだから。そこにあるのは苦難と困難と無数の習作あるいは失敗作と、芸術家自身の心にある強い思いの、抜け殻。
抜け殻――だとすればその中身は?ああ、中身は、絵の中に詰まっている。芸術家というモノは、己の中にある全てを、創作物へと込めるのだ。込めて、そうして、芸術へと昇華される。
だとすれば、絵に賞賛が向けられるということ自体が、その製作者が賞賛されているということと同値ではないか?
そうして俺の思考は再び、その賞賛を受け取るべきはノスト・バージェスか、ここにいる俺かという議論に戻って来た。
けれど、ノスト・バージェスはもう、死んだのだ。
今ここにいる俺は、せいぜいノスト・バージェスの抜け殻。燃え上がる情熱を失い、名も顔も捨てて、芸術に唾を吐いた一人の画商だ。
賞賛を受け取るべきは、やっぱりノスト・バージェスだ。
――けれど、マリアの想いがノスト・バージェスに向いているという事実だけは、許せそうになかった。
俺はマリアを、愛しているから。
罪悪感というヘドロの中でもがきながら、俺はその水面へと顔を出す。手を、伸ばす。
マリアという、美しく咲き誇る一輪の花を、泥で汚そうとするように、その手を、伸ばして――
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