第9話 芸術の価値

「……俺は、マリアを裏切った」


 口から零れ落ちたのは、そんな言葉だった。不思議そうに揺れる瞳が、俺の姿を映す。無精ひげの生えたうだつの上がらない中年男そのものの俺が、そこにいた。

 まるで、夢破れた画家のように見えた。


「俺は、お前を裏切ったんだ。俺は、ノスト・バージェスの絵を広めるために、お前を利用したんだ。価値のないこの作品を、売ったんだよ」


 俺の想いに反して、口は勝手に言葉を紡ぐ。マリアに嫌われたくないと、心が叫んでいた。嫌われてしまえ、その罪悪感の中で絵を描き続けろ――半裸の女の絵の声が聞こえた気がした。

 長い睫毛が一度、揺れる。瞼の奥に消えた瞳が、再び世界を映す。闇のようでいて、強い意志の輝きを秘めた黒曜石の瞳。

 体全体をこちらに向けたマリアの視界から、絵画「ハクボ」が外れる。そのことが、無性にうれしかった。


 長い、時間が経った気がした。無限に等しく感じられる時間のその果てに、彼女はゆっくりとピンクの唇を開いた。


「……知っていましたよ」


 熱い吐息と共に、マリアは告げる。ああ、知っていただろうさ。マリアは、俺のような人間の言葉に乗せられる存在じゃない。俺の企みに気づかないほど無知でも無能でもない。直接的な関わりはほとんどなくても、彼女の纏う空気は、知恵者のそれだった。

 世界を冷静に見つめる黒の瞳の中で、俺は多分、笑っていた。醜く――自分の醜さをマリアに見せるように、笑っていた。

 そんな自分が、俺にはよくわからなかった。


「だろうな。けど、想定外のことが多すぎた。こんなにノスト・バージェスという男の作品が有名になるなんて、思っていなかった」


「それは、ノスト・バージェスさんの絵に、それだけの価値があったということですよ」


「いいや、違う」


 やけに強い声が喉を震わせた。やや険のある視線が、俺に突き刺さった。

 心臓が痛んだ。まるで、崩れて零れ落ちた心が戻って来たように、古傷が痛んだ気がした。


「違うんだよ。ノスト・バージェスの絵には、価値なんてなかった。間違いなく、駄作だった。お前に売ったように、捨て値ほどの価値しかなかったんだよ。なのに、そんな無価値な作品を買って、お前は絵を家に飾った。一歩間違えれば、見る目の無い愚者だと批判されかねない行為だ。それも、わからない。お前がこの絵を購入したことも、わからない。それになにより――」


 ――お前がこの絵を見て涙を流した理由が、わからない。


「私は、この絵に価値を見出したんですよ。あるいは、少なくとも私にとっては、この絵はどんな巨匠の絵にも、どんな天才的現代画家にも表せない価値が、ありました」


 マリアの視線が、絵へと向かう。つられて、俺もその絵を睨む。

 わからない。それはただの、風景画だ。過去を切り取った一枚の小さな絵に過ぎない。わずかな輝きは、若さと荒削りの技量によって生み出されたか細い光くらいはあるかもしれない。

 けれど、それだけ。

 そこに巨匠の作品を越える価値なんて、あるとは思えなかった。


「……わからない。俺には、わからない。価値はないはずだ。価値なんてないんだ。あるはずがないんだ」


 まるで呪っているようだと、思った。俺は、自分の絵には価値がないと思いたいと、そう願っていることに気づいた。それはなぜか。

 俺の審美眼がおかしいはずがないという自負心からか?ノスト・バージェスの名を捨てたことが間違いではなかったと思いたいからか?

 髪を掻く。顔を手で覆う。分からなかった。胸の中で暴れる感情は、もはや全てがぐちゃぐちゃに混じって、言葉で言い表すこともできない、醜いヘドロになり果てていた。


「この絵は、私なんです」


 顔を上げる。じっと絵を見つめるマリアの横顔を、睨む。

 わからない。何を言いたい?パズルのピースがかみ合ったように、この絵は自分を指し示しているのだと、そう言いたいのか?

 マリアの視線が、こちらを向く。気のせいでなければ、その瞳には愛があった。俺に向けられるはずのない、慈しみが、あった。


「十五年ほど前、私はとある島国で暮らしていました」


 マリアが告げる。俺は呼吸を止めて、あるいは心臓すら止めてマリアの言葉の続きを待った。

 長い睫毛が小さく揺れる。双眸は、まるで過去を見つめるように、俺に誰かの姿を重ねていた。


「緑豊かで、四季のある美しい国です。母方の祖母の祖国で、私は一人の画家に出会いました」


 マリアが語る。夕暮れが沈みゆく公園で、一人の異国風の青年に声を掛けられたこと。サンドイッチマンのような大きな板を胸の前にぶら下げたその人物は、自分をモデルにして絵をかかせてほしいと言って。さっさと帰ろうとしたところ、男に留められて仕方なく日が完全に落ちて空が藍色に染まるまで光が消えていく西の空を見つめていたこと。

 その情景が、脳裏にあふれた。芝生の匂いが、鼻をくすぐった。子どもの喧騒、電車の音、不審そうに顔をしかめた少女の声。

 黒目黒髪の、そしてあの国においてはどこかエキゾチックな容姿をした、絵のモデルとなった少女のこと――


「それからすぐに国を出ることになって、私は結局完成した絵を見ることは叶いませんでした。だから、でしょうか。事業を成功させて、心満たされてしまって足を止めた時に、その記憶がふっと心の奥底から湧き上がりました。あの絵を見たいと、そう思いました。私の青春自体を切り取った絵を、私は探し始めました」


 ごくりと、唾を飲み込んだ。続く言葉は、もう予想がついていた。熱の浮かんだマリアの目が、俺をしっかりと捉えていた。耳元に髪を掻き上げるマリアに、一人の少女の姿が重なる。夜に沈む、黒目黒髪の少女の姿。

 薄暮を見据え、ハクボの中に在る、少女の姿。


「そして、私は見つけました。レイフォンさんに案内された先、倉庫に並べられた無数の作品。それらは、なぜか私の心を強く震わせました。あの国の風が、作品の中に在る気がしました。そして、その絵を見て私は、金髪碧眼の、やせぎすな男の人の顔を思い出しました」


 思い出した。俺は以前にも、マリアに会ったことがあった。レイフォンの画廊で、あの半裸の女の絵の前で、マリアに会っていた。暗がりの中に浮かび上がった


「その、男は――」


「はい、死んだと、そう聞きました。……絶望、しました。すぐ、目の前に彼がいました。一目見て、彼だとわかりました。まるで何かに囚われているような暗い目をした彼を前にして、私はあろうことか恐怖を覚えて……そうして、走り出していった彼を、止めることが叶いませんでした。目前に迫っていた手掛かりは、するりと私の手の中から零れ落ちて。そして私は、気づきました。私は、当時空っぽだった心の中に、あの青年画家への熱を抱いていたことを。憧れのような、親愛のような、そんな感情を抱いていました。それだけが、私を動かしていて。だから、新聞で彼の死を知った時、私はこの上ない闇に囚われました」


 熱を帯びていた瞳に、暗い影が差した。その痛みを、世界から切り離されたような感覚を、俺もまた知っていた。手から零れ落ちた希望は、俺にとっては自分が心震わされる世界を思い通りにキャンバスの上に表現する力で、マリアにとってはかつて一度会ったきりの画家とその絵だったということだ。

 正直、わからない。マリアと俺が――ノスト・バージェスが会ったのは、一度きりだ。なのに、どうしてマリアは、それほどまでにノスト・バージェスを追い求めた。そして、なぜ、こんな話を今、俺に語っている。俺に、まるでノスト・バージェスへと向けるような視線を、向けている。

 わかっては、いた。けれど同時に、その答えは俺を再び呪縛の中に落とすもので。だから俺は、必死に気づかない振りをした。


「けれど、彼は死んでいませんでした。私が追い求めた彼の作品は、数奇なめぐりあわせで私のもとにやって来て、そして――」


 私は、私が追い求めたあの青年画家に、たどり着きました。

 そう言って、マリアはゆっくりと伸ばした手で、俺の頬に触れた。俺は、逃げることもできず、ただ黙ってマリアの手を受けいれた。柔らかな手だった。温もりに満ちた、女性の手。

 ああ、もう、目をそらしていることはできない。

 マリアは、知っている。俺が、ノスト・バージェスだと知っている。この絵の、「ハクボ」の製作者が俺だと、マリアは理解してしまっている。

 多分、始まりはあの女の絵だ。あの絵の前で、マリアと再会して。そしてその時と同じ状況で、ついさっきマリアと再会した。まるで運命のように、呪いのように、俺とノスト・バージェスがマリアの中で繋がり、重なってしまっていた。


 俺は、どうするのが正しい?どうすべきだ?俺は、どうしたい?マリアは、何を望んでいる?どうして、こんな話を、今俺にしている?

 俺は――


 涙が、流れた。一筋の雫が、マリアの手に触れる。

 少しだけ目を見開いたマリアが、おかしそうに笑った。大丈夫だと、そう言い聞かせるように、彼女は優しく微笑んでいた。


「あの絵には、価値はなかった。俺は、もう、ノスト・バージェスの名を捨てた。俺はもう、画家じゃない。俺は、俺、は――」


「私は、あなたを愛しています」


 言葉が、口づけが、俺の言葉を遮った。マリアの想いが、熱が、俺の体の中に流れ込んでくる。よどんだ心に、光が差す。冷え切っていた体の芯に、火が灯った。

 呆然と、立ち尽くすしかなかった。

 マリアの手が、俺の頬から離れていく。

 熱が、消えていく。


 顔を離したマリアが、恥ずかしそうに視線を下げ、とろんと目尻を下げて、笑う。

 再び顔を上げたマリアが、やっぱり俺へと手を伸ばす。まるで俺の存在を確かめているように、その手は俺という存在の感触を確認するように、優しく肌の上を撫でていく。

 俺は、ゆっくりと震える手を持ち上げて、マリアの手に重ねた。


 マリアが、笑う。

 俺は、笑えていた、だろうか。


 淡いピンクの――サクラ色の唇が、揺れる。


「私はあなたを愛しています。あなたの苦悩も、あなたの人生も、価値観も、思いも、すべてを愛しているんです。だから私は、過去のあなたの苦悩が詰まった、ノスト・バージェスとしての作品たちのすべてを愛おしく思います。私にとってそれらの作品は、値段をつけることができないほどに価値ある作品なのです。いうなれば……そう、私にとって、ノスト・バージェスの作品は私にとっての芸術そのものなのです」


「……芸術」


 かみしめるように、あるいは無意識のうちに、俺はその言葉を繰り返していた。

 芸術です――微笑みながら、マリアが告げる。その唇の動きの方がよほど芸術のような美しさがあると、そんなことを思った。


 俺の作品は――ノスト・バージェスの作品は、芸術なのだろうか。分からない。芸術とは何か、その真理にたどりつけるほど、俺は真摯に芸術に向き合ってきてはいない。既に逃げ出して久しい俺に、芸術の神が語り掛けてくれることはない。

 けれど、ノスト・バージェスの作品は、少なくともマリアにとって美しい、純粋なまでの芸術であると俺は理解した。


 心が、温かなものに満ちた。

 よどんだヘドロのような思いは、罪悪感を核とする感情は、まるでマリアの熱に溶かされるように、あるいはその光に浄化されるように、俺の心の中から消えていった。


 きゅっと、マリアの手を握り、それから体を抱き寄せる。

 驚きに目を瞠ったマリアに、俺は心からの笑みを浮かべた。

 すがすがしい気分だった。生まれ変わったような、そんな気持ちで。

 そして、その心には、狂おしいほどの愛おしさが溢れていた。


 ほっそりとした腰は、妙齢の女性のそれだった。その黒水晶の瞳は、ただ真っすぐに俺だけを見ていた。ノスト・バージェスでもレーダ・ヒムカでもなく、目の前にいる一人の男だけを、熱を浮かべた目で見ていた。


 そんなマリアが、愛おしくて。


 マリアのそれに、俺は貪るように唇を重ねた。

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