第10話 老いた画家の日常
ノスト・バージェスは、死んだ。それはもう、変えられない事実だった。若き巨匠として名を残すか、あるいはぽっと出の画家として歴史の間に名を消すか。
それはともかく、一人の画家は冥界からよみがえることはなかった。
けれど、俺の日々は続いていく。マリアによって嘘から解き放たれ、自分の心を直視して、俺は再び筆をとった。
そして、二度とやるまいと心に誓っていた創作活動に踏み出した。
けれど俺はもう、画家であるつもりはなかった。俺は芸術家である必要はなかった。俺はただ、マリアのためだけに絵を描くことができれば、それでよかった。
幸せに満ちた日常を、形に残すために、マリアの美しさを、マリアとの思い出に満ちた俺自身の心を表すために、俺は真っ白なキャンバスに向かった。
そうして、俺はマリアと共に生き続けた。
ふう、と小さく息を吐く。
最近、体が思うように動かなくなってきていた。マリアはもっと体を動かすべきだと言っていたが、俺はもう、この生き方を変えられない。とっくに絵に心囚われてしまった哀れな囚人は、もうその世界から飛び出すことはできないのだ。
けれど、あるいはだからこそ、俺は骨のようにやせ細った腕に鞭打って筆を動かす。
最近、また芸術とは何かを考えるようになった。肉体が思うように動かないというもどかしさは、あるいは近づいて来る死は、俺の精神的な活動を充実させ、絵に向かう情熱は昂るばかりだった。
芸術とは、何か。
かつて投げ出したその分野の真理は、未だ俺の中に明確な答えはない。
けれど多分、芸術とは、自分の心をさらけ出す、そんな活動全てに当てはまるものなのだと思う。
どれだけ多くの者の目に留まって評価されるかということではなく、作品に高値がつくかということでもない。
大事なのは、その絵が、その精神的な活動の成果が、たとえ一人でも、その心に届き魂を震わせることができるかどうか、ではないだろうか。
だとしたら、俺がレーダという一人の男として描いてきた全ての絵は、もう十分芸術と呼べるのかもしれない。
俺は、これまで描いてきた無数の作品たちのことを思い出した。ギャラリーに並ぶのは、家族の絵に、俺の心を映した絵に、家や旅行先を収めた絵。
その全ては俺たち家族の軌跡であり、人生であり、生きた証だ。
俺を呼ぶ声が、遠くから聞こえて来た。筆を置き、椅子から立ち上がる。乾いていないキャンバスに背を向ける。
未だに衰えの見えない、それどころかますます美魔女にふさわしい妖艶さを放つようになった妻の下へと、俺は歩き出した。
俺の絵は、マリアと、子どもたちくらいの心に響けば、それでいい。多くの者の目に留まらなくたっていい。
あれらの絵が後世に語り継がれるかどうかは、もはや俺にとってはどうでもいいことだ。
まあ、美しいマリアの姿が後世まで語り継がれるというのか一興だと思うが。
遠くで微笑むマリアに片手をあげて答え、俺は杖を片手に彼女の方へと更なる一歩を進めた。
俺は、やがて死んで行く。そして、作品は時折消失しながらも、しばらくはこの世界に俺たちの生きた証として残り続ける。
その果てに空しく朽ちるのか、あるいは芸術として語られるのか、俺には分からない。
けれどできれば、商品になることなく、生きた芸術として最後まであってほしい。
死んだ芸術 雨足怜 @Amaashi
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