煙の遺言

遠部右喬

第1話

 男の目の前で、老人が横たわっている。しわくちゃの顔の中、半眼に開かれた目に光は殆ど無い。

 往診に来ている医師が小さく首を振った。

 点滴のチューブは老人の腕に規則正しく薬液を送り続けているが、それにどれ程の効果があるのかは疑わしかった。小さくやせ細った身体にかけられた布団の上からでは、呼吸しているのかも分からない。彼に残された時間があと僅かなのは、医師でなくとも明らかだ。

 山の麓近くに建つ小さな家。その寝間で、今まさに、男の最後の肉親の命が尽きようとしていた。

 と、老人の口がもごもごと動いた。男は頷き、医師に切り出した。

「爺さんの頼みなんです。申し訳ありませんが、少しだけ席を外していただいてもいいですか?」

「分かりました、廊下でお待ちしてます」

 最期の瞬間を身内だけで迎えたいと願う者は多いのだろう。存外あっさりと、医師は男の願いを聞き入れた。

 医師の退室を見届け、男はポケットから煙草とライター、携帯灰皿を取り出した。どれも、数日前に立ち寄ったコンビニで適当に買った新品だ。

 煙草のボックスにかけられたセロファンを剥き、ふたを開ける。中の銀紙を引き抜き、先程のセロファンと共にくしゃりと丸めて、ごみ箱に放り込む。

 男の指が、きっちりと並んだ細い紙巻を一本を抜き取った。



 男は祖父が苦手だった。


 単純に、顔を合わせる機会が多くなかったからだろうか。それとも、庭で飼っていた鶏を手際よく捌く姿を見てしまったからかもしれない。口数こそ少ないが、たまに訪れる自分達を愛おしそうに見つめる祖父に、子供心にどこかこわいものを感じていた。

「親父は、変な所で頑固なんだよなあ」

 一人息子である父が何度同居を勧めても、頑なに田舎暮らしを選び続けた祖父は、何を思っていたのだろう。人嫌いでも、この地を離れがたそうにも見えなかった祖父の気持ちは、未だに解らない。

 三年前に父と母が他界してからは、この家からは増々足が遠のいた。電話でのやり取りだけで、年に一度も会わないことを多少後ろめたく思うこともあったが、それだけだ。半月ほど前に連絡を貰うまで、そんなに具合を悪くしていたことすら知らなかった。

 もっと早くにご連絡すればよかったのですが、と、電話をくれたホームヘルパーは申し訳なさそうだったが、まだ口の利ける状態だった祖父に、いよいよの時まではと連絡を止められていたようだ。祖父なりの気遣いだったのか、あるいは、どこかよそよそしい孫の眼を耐え難く思っていたのかもしれない。

 どうにか仕事の都合をつけ、二週間の休暇を取るまでに半月近くかかった。休暇中に祖父がならなければ、再び休暇の申請をしなければならない。

(面倒だな)

 我ながら最低だと思う。肉親の生死よりも、上司からの白い眼の方が怖いだなんて。だがそれは、そんなにおかしなことだろうか。苦手な人ではあるが、情が無い訳ではない。ただ、不自由で自由な田舎暮らしを送る祖父と、自由で不自由な街暮らしを送る自分の生活は、実際の距離よりももっとかけ離れているだけのことだ。

「俺が死んだら、全部お前にる」

 それが祖父の口癖だった。実際に、自分にかかる医療費を除いた財産と呼べるもの全て、孫に残す手配は既に済ませているようだった。


 そうして、いくばくかの金と、資産価値に乏しい小さな山を受け継ぐことになった男は、半ばうんざりしながら、祖父の最期を見届けることになったのだ。



(我ながら、良く思い出したもんだ)

 煙草を咥えた口元に苦笑が浮かぶ。

 アパートからこの家まで車を走らせている途中、国道沿いにあった小さなコンビニに寄ったのは、買い出しを兼ねた休憩の為だけではなく、祖父のもう一つの口癖を思い出したからでもあった。

「死ぬ前に煙草を吸わせてくれ。絶対だぞ」

 お爺ちゃん昔は愛煙家だったのよ、と、とうの昔に亡くなった祖母がそっと教えてくれたことがある。祖母と知り合ってすぐ、祖父は禁煙したんだそうだ。

「私が煙草の煙が苦手だったから、きっと気にしてくれたのね」

 お爺ちゃんたら、たまに寝てるあたしの顔をじっと見てるのよ、あたしが気付いてるなんて、それこそ気付いてないだろうけど……と、続けた祖母もまた、よく祖父の背中を嬉しそうに見つめていた。


 まだ子供だった男とって、祖母の「のろけ話」は、外国の言葉よりももっと遠く、むず痒いものだった。実際、仲睦まじい夫婦だったのだろう。愛する妻の葬儀で、棺から頑なに目を逸らしていた祖父の姿は、今でも男の記憶に鮮明に残っている。


 かちり。


 男の手の中で、ライターが小さく音を立てる。

 ゆっくりと煙草に近付け、一吸い。

 十年以上ぶりに吸い込んだ煙は、喉を酷く刺激した。せる様に煙を吐き出すと、覚えのある感覚が甦る。

 貧血にも似た、煙と共に自分の一部が何処かへ消えていきそうな眩暈と浮遊感と、相反するようにのしかかる重力。

 祖母と同じで、男も煙草は苦手だ。高校生の時分、若気の至りでこっそり試してみたのだが、深く吸い込んだ煙を吐き出すと同時に眩暈と酷い吐き気に襲われ、昏倒して以来、恐ろしくて手を出していない。目の前で横たわる老人の望みでなければ、これから先も吸うことなどなかっただろう。

 煙草を指に挟み直し、祖父の口に咥えさせる。もう、吸い込む力すら残っていないだろうと思いながら。


 すう。


 思いがけない力で、布団がせり上がった。たっぷりと吸い込み、


 ふう。


 かさついた唇から吐き出された真っ白な煙が、祖父の上に屈み込んでいた男を包み込む。

「煙草の煙ってのは、口に含むもんじゃない。んで、胃から肺から煙で満たすんだ」

 火口から漂う煙は薄紫だけど、ちゃんと喫んで吐いた煙は白くなるんだ……再び噎せそうになった男の脳裏に、幼い頃に聞いた祖父の言葉が甦る。

 鼻から肺へ、祖父の身体を巡った煙が、男を冒す。

 肺から脳へ、次々と浮かぶ記憶。


 孫が生まれた日の、何とも言えないくすぐったい気持ち。

 息子が生まれた日は、曇りがちの空すら輝いて見えた。

 若く美しかった頃の妻との出会い、ときめき。

 鮮やかで、色も音も味も匂いも触覚も、想いすらも伴う、愛しく懐かしい景色達。


 男にもすぐに分かった。これは自分の思い出なんかじゃない。祖父の記憶だ。

 白い薄膜に包まれた、覚えの無い記憶が、男を侵食する。



「ご永眠されました」

 いつの間にか、医師が隣に座っていた。首にかけた聴診器を揺らし、祖父の眼を照らしていたペンライトを消した医師が、腕時計にちらりと目を走らせ時刻を告げる。

 男が我に返った。指に挟んだ煙草はまだ半分も燃えていない。全てを放出しきった祖父は、もう二度と動くことは無い。

 医師は男の指にちらりと咎めるような目を向けはしたが、それ以上は何も言わなかった。

「お世話になりました」

 男は携帯灰皿に煙草を押し付け立ち上がり、大きく窓を開けた。

「お茶もお出しせず、すいません。ちょっと待っててもらえますか」

「お構いなく」

「いや、先生にお茶の一つも出さないなんて、俺が爺さんに叱られます」

 何か言いたげな医師を置いて、男は台所へ向かった。


 さっきまで存在しなかった記憶を手繰り、急須に茶葉を放り込む。幸い、未開封だった茶葉の消費期限の日付はまだ先だ。急須や湯呑が棚の何処に仕舞ってあるかも、茶葉の適量も男は知らなかったが、全て祖父の記憶が教えてくれる。

 切れ切れに増えた記憶は、あたかも自分の経験だったかのように男に馴染んでいる。「全部お前に遣る」と、祖父は確かにそう言っていた。まさか、こんなものまで寄越すとは思ってもみなかったが。

 いつ、どうして、それを出来ることに気付いたのかは、記憶には無かった。のは、想いを込めて煙草を喫んで、煙と共に吐き出す方法だけだ。

 煙に紛れた記憶は吸い込んだ人間のものになる。煙を散らせば記憶も散る。

 祖父が禁煙したのは、祖母と出会ってからの自分を一つも消したくなかったからだろうか。あるいは、もしも意図せず記憶が漏れてしまったらと危惧してか。

 目に焼き付く程見つめ続けた祖母の寝顔に、息子の笑顔に、孫――幼い自分の柔らかな頬に、男の胸が甘やかな痛みを覚える。


 ごくり。


 飲み込んだ唾液で、いがらっぽい喉が痛んだ。

(さて……)

 流しの下を漁り、お盆に湯呑を載せ、左手に持つ。覚束ない手つきなのは仕方がない。なにせ、実際にするのは初めてなのだ。

 寝間に戻ると、既に祖父の腕からは点滴が取り払われ、顔には真っ白なガーゼが掛けられていた。

「お待たせしました」

 男の声に、部屋の隅の小さなちゃぶ台の上で書きものをしていた医師が、背中越しに顔を向ける。男は書類を注意深く避け、湯呑をちゃぶ台に置いた。見慣れないそれは、恐らく祖父のカルテと死亡診断書というやつだろう。

「こんな場所で申し訳ありませんが、どうか、爺さんの最後のもてなしと思って下さい」

「……分かりました。頂きます」

 医師が湯呑に手を伸ばす。

 その背後で、男の手が、畳に置いたお盆にそろりと伸びた。



 慌ただしく葬儀の準備が進む中、棺に納められた祖父と対峙する。既に夜中という事もあり、家には男の他に誰の姿もない。呼ぶべき縁者も居ない寂しい通夜だ。

「あの時は危なかったんだぜ」

 祖父に語りかけ、棺の蓋に手をかける。

 我ながらよくこらえたものだ……あの時、お盆の下に忍ばせた包丁を使わずに済んだという安堵に、僅かな心残りが入り混じる。

 医師の背中に、そして、さっきまで忙しく立ち働いていた葬儀社のスタッフ達に覚えた、目が眩むような強い欲望が、再び男を襲う。


 今なら分かる。祖父の自分達を見つめる目の意味も、人気ひとけの無い場所での暮らしを選んだ理由も。


 ――ああ、腹が減った。


 古い、古い祖父の欠片。

 目の前に広がる焼け野原。瓦礫の中のあちこちに転がる、かつては人間だった筈の塊。その中を彷徨う背の低い目線。落とした視線に映る、ぼろぼろの服と血を流す汚れきった小さな素足。

 もう痛みも感じない。流れる涙すらない。食べるものも飲み物もどこにも見当たらない。

 やがて、視界が傾いだ。身体は、目の前に転がる死体の仲間入りをしようとしている。

 疲れた。

 ひもじい。

 死にたくない。

 飢えて、飢えて飢えて、耐えかねて口にしたのは、名も知らぬ誰かの身体だったもの。

 貪り飲み込んだその味は、どの記憶よりも――祖母への想いすら色褪せる鮮烈さで、男を揺さぶる。

 罪悪感、嫌悪、おそれ、悔恨……そして、強烈な生への渇望と、満たされたことへの安堵。口いっぱいに広がる、まだ生きているという実感。


 あの、命を満たす味をもう一度味わえたら…………それこそ、死んでもいいのに。


 この記憶を手放すなど考えられなかった。祖父のものか男のものか、そんな区別に意味はない。これは今、他の誰でもない、男の感じているものだ。

 懺悔だったのか、それとも、人生の走馬灯に偶々紛れてしまっただけなのか。だがそれは、間違いなく祖父が男に残した遺言となった。


 がたん。


 棺から漏れた冷気に、男は軽く身震いし、納められた祖父の身体に喉を鳴らした。

 男の手が、脇に置いていた包丁に伸びる。

「俺の最期の一服は、誰に頼もうかな」

 そうだ、帰ったら、あいつにプロポーズしよう。今の会社を辞め、こっちで生活を始めたいと言ったら、付いて来てくれるだろうか……頭の片隅で考えながら、男は包丁を振り下ろした。

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煙の遺言 遠部右喬 @SnowChildA

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