(完)エピローグ やがて世界の広さを知る者よ


 ひとつ壁を乗り越えたくらいじゃ、簡単には泥は落ちなかった。


 悪い奴らをやっつけたから世界が平和になりました、なんて単純なオチにはならないし、そもそもこの世界は元から平和だ。


 あの日以来、大きな事件に出くわす事はない。


 毎日の忙しさが許容範囲を越える事も――けれどそれまでと変わらない日々の中で、変化は少しずつ起きていた。


「……だりぃ。マジ眠ぃな……」


 机の上に広げたノート、問題集。手にしたペンの感触もなつかしい。元の世界にいた頃はふらりと立ち寄ったカフェで勉強道具を広げる事もなかった。


 ミルクティーを口に含んだ拍子に、窓に映る自分の瞳と視線が重なる。


 ガラス一枚を隔てた向こうには相も変わらず、自己主張の激しいイルミネーションが街を装飾している。


 親しげにちょっかいをかけながら歩いている男女のグループはなづなと年が同じくらいで、見た感じの印象はチャラくて、ギャルい。この街で見かける年の近そうな人間はだいたいがあんな感じだ。


「……っしゃ、集中っ」


 現実逃避はもうおしまい。問題集は今日でぜんぶ、片付ける。ミルクキャンディーの飴玉を舌の上に転がすとやる気が熱を取り戻す。

 達成感がそう思わせるのか、ほどなくして背表紙を見せて突っ伏した問題集は「参りました」と言わんばかりの、情けない格好に見えた。


 少しの寄り道をしながら家路につく。なづなが暮らすカフェの入り口をくぐると、


「おかえりなさい」『おかえりィ!」

「っひひ、ただいま」対照的な語気に返事をして、「あ、シオンさんもごゆっくり」

「ええ。お言葉に甘えています」


 両親と決別する道を選んでから数ヶ月。

 ミゼリアさんとタオジェンは、少し前からうちで従業員として働いている。


 この街とは別の、違う場所に住んでいる二人がどうしてうちで働くことを決めたのかは、申し出てくれた当初から疑問だった。なんでミゼリアさんは、ここで働きたいと思ったんですか。まるで面接のような質問をぶつけたある日、返ってきた返事は、


「――罪を償って、弟とまた会うことができたから。それになづなを支えると言った手前、中途半端なところで投げ出すのもどうかと思って……わたしが弟の傍にいると、いろいろと気を遣わせてしまいそうだし」

「気を……そういうもんなの?」

『らしいぜ? オレチャン一人っ子だからワカンネ』


 兄弟姉妹がいた事のないなづなには、タオジェンと同じくそのあたりの感覚がよくわからない。


 ただその後、「もう遠くから見守っているだけで大丈夫そうだから」と呟いた時の表情は寂しそうでもあり、それ以上に誇らしさがにじんでも見えた。


 人員が二人分プラスされれば、混雑時に首が回らなくなる機会もぐっと減る。

 打算的な喜びかもしれないけどそれは事実で、捻出できた時間を利用してはシオンさんからすすめられた問題集を解いている。


 なづなに生まれた、ある“目標”の為に。


「シオンさん、これ」トートバッグから問題集を取り出し、「さっき全部終わらせてきました。他、何かやっといた方がいい事とかあります?」


 ねぎらいの言葉を掛けてから紅茶をすすり、シオンさんは逡巡しゅんじゅんを挟む。


「……基礎はおそらくもう盤石ばんじゃく。言葉遣いやその他諸々のマナーも教えましたし……そうですね。特にこれといったものはありません」

「って事は、つまり?」

「ええ。あとは規範や校則を遵守じゅんしゅすれば、学校生活は問題ないでしょう」


 返された微笑みに浮足立つ気持ちが抑えきれない。目上の人からお墨付きをもらえれば、自信を抱くには十分だった。


「……やばいな、シオンさんに言われると安心感が半端ないわ」


 ――学校に通いたい。


 それが両親と決別したあの日からしばらくして、ぼんやりと、頭の中に浮かんだ願望だった。


 元の世界では小中学校、ともに不登校だった割合の方が明らかに大きい。原因はいじめであったり、なづなの家庭環境も少なからず影響している。

 あの頃の自分は気弱で引っ込み思案な性格をしていたから、気の強い連中からすればたぶん、標的マトにしやすかったのだと思う。


 正直に打ち明けるなら、不安の方が今でも強い。

 シオンさんに教えてもらった勉強はともかく、人間関係がどうなるかまではさすがに予想がつかない。


 誰しもが抱く不安だと言われればそうなのかもしれないけど、正論を振りかざされたところで素直に受け入れられるものでもなかった。怖いものは、怖いんだ。


『そいやァ、入学式っていつなんだっけ?』


 ない交ぜになった不安と喜びを咀嚼そしゃくしていると、タオジェンがふと疑問をこぼした。


「たしか、一週間後の今日。……それにしても、この街にも学校があるのね。全然そんな雰囲気しないから」

「この前なづなと見学しに行った時は驚いたよ。始業がお昼からで、夜までやってる。ちょっと特殊なところが実にこの街らしい」

「でも早起きニガテだし助かるわ。なづな的には、むしろ」


 会話に加わると頭の中に情報が呼び起こされる。

 全校生徒は六、七十人。うち転移者の割合は三割ほど。在学年数は二年で、時間割や学ぶ科目、学校行事――


 全校生徒の少なさもさることながら、ミゼリアさんの言う通り、そもそもこのヘンテコな街に学校があったのかという驚きもあった。元の世界で通っていた学校と比べても特殊である事には違いない。


 何気なくこぼしたものの、早起きが苦手だからという理由は個人的に大きかった。でも――より大きな二つ目の理由が、自然と口からこぼれでる。


「……イチからちゃんと決められた。今度は最後まで通いきってやっかんな……!」


 両親も、身を置くことを余儀なくされた夜の世界も。今のなづなを縛り付けるものは何もない。だからこそ今までの人生を振り返った時、漠然と気が付いてしまった。


 なづなにはひとつの事をやり遂げた経験が無い。

 前向きに何かをしたいと決めたことも。


 何よりも単純に、普通で当たり前の生活を送ってみたいと思ったんだ。


 生きていくために必要じゃない事をしてみたい。友達とのバカ話、くだらない事を楽しみに眠る夜。後で振り返った時、つい笑ってしまうようなありふれた思い出――今まで見落としてきてしまったものの数々を、拾えるならぜんぶ拾いたい。


 自分で決めて、進みたいと思った道に進んでゆく。望む未来を掴み取るための推進力が、なづなは欲しい。


 それはきっと、未来を選び続けた先でしか手に入らないものだから。


「……すばらしい」

「は?」


 ライモンのティーポットを握る手がかたかたと震え、


「一緒に暮らしてから結構経つけど、なづなのそんな前向きな表情は見たことがない! ああすまない、決して馬鹿にしてるとかそういうのじゃないんだ。むしろ逆で、まるで巣から飛び立つ雛鳥のような雄々しさを感じるというかッ!」

「あーっと……じゃあはい! 一言で言うと?」


 無理やりに結論を促すと、


「フッ――すごく、喜ばしい気分だよ」


 まくし立てるように熱のこもった早口の後、喜びに震える一言がじわりと胸を熱くさせる。けれど急な温度差が生むギャップの前では、笑いの方が勝っていた。


「っへへ……!」


 こぼれた笑みが伝播でんぱする。弛緩しかんした空気が笑いで満たされ、心地よい時間が訪れる。しばらく見ていないせいで忘れていた。ライモンはたまに、感情が爆発する奴なんだ。


 おさまる頃には、シオンさんが読んでいた小説をテーブルの上に置いていた。


「初対面の時から、まるで見違えるようですね」

「え? あー……あの時はなんかこう、イライラしてたっていうか」

「分かっています。何かお困りごとがあれば――いいえ、たとえなくても構いません。あなたの話し相手にも、手を差し伸べる良き隣人にも私達はなれます。……そしてどうか、忘れないで」


 紅茶を飲み干すと、慈愛に満ちたまなざしが向けられる。


「あなたを繋ぐえんという糸は、思うほど弱くはないのだという事を」


 ――どんな選択をしたところで、どんな未来が待ち受けているかなんて誰にもわからない。

 あれからたったの数ヶ月、それでも自分なりに足掻いてみて分かった事がひとつある。


 たとえどんな選択をしたとしても、大事なのは、その後なんだ。


 見えない糸を握りしめ、なづなは強く頷き返す。自分で選んだこの道を絶対に諦めたりはしない。


 窓辺に飾られた古時計は絶えず、時を刻み続けていた。

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ティアドロップ;オンステージ~Episode of AMEDAMA~ だいこん @dadadaikon

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