最終話 しょっぱい飴玉
土砂降りに濡れる窓の向こうに、異世界に転移した日の自分が見えた。
財布の中身はほとんどスられて、床には小銭が散らばっている。間接照明に照らされた部屋に漂うあからさまな色気。たしかホテル三階の部屋にいて、飛び降りればワンチャン逃げられるかもとか考えていたっけか。
あの時は何もかもが終わったんだと思っていた。
金がなくなった、イコール死。もちろん即死するわけじゃないのは分かっているけど、冷静さを失えばそんなことにも気付けない。
窓を叩いていた雨の強さは――今降っている雨よりも弱かった気がする。
「……めっちゃ降ってんな」
「空が割れて急に雨が降り出した時はさすがに驚いたわ。ずっと夜空を映したままだと思っていたから」
「今日みたいに雨の時だけ、街を覆ってる魔法壁が消えるっぽいっす。ライモンが言うには街の水はけがどうとかって――あ、ありがとうございます」
手前に置かれた紅茶からリンゴの香り漂う湯気が立ち上る。うろ覚えの相槌に笑い返して、ミゼリアさんはなづなの隣に座り込んだ。
シオンさんは両親を連れてギルドへ向かい、ライモンとタオジェンは現場にいた人間を代表して情報提供――いわゆる参考人として付き添う事になった。操られていた宿泊客の人達は念のため、病院に案内されたから仕方がない。
両親に関しては特に何も言うことが無い。
別れ際に素っ気ない挨拶をして、それで終わり。父親は終始何か言いたげな様子だったけど、母親ともども、傘に隠された表情をうかがい知ることは出来なかった。
カフェにはたった二人、なづなとミゼリアさんの二人だけ――窓を叩く雨音に、かすかに秒針を刻む古時計の音が混ざり込む。口寂しさに負けてボディバッグを漁っていると、いつもの棒付き飴ではない感触が指先にぶつかった。
「……ミルクキャンディー」
昨日、駄菓子屋のおばあちゃんから貰った飴だった。
「それは?」
「なんか昨日、駄菓子屋やってるおばあちゃんから貰ったヤツで……いります? あともういっこあるんで」
「いいの……? なら、頂こうかしら」ミゼリアさんは摘まみ上げた飴をまじまじと見つめ、「……珍しい包み紙ね。うまく言えないけれど、ちょっとだけ懐かしい気持ちになる」
言われてみればたしかに飴の包み紙はどことなく古めかしい、レトロとか、ノスタルジックといった言葉が似合いそうなパッケージだ。
普段気にも
「……これ」
「なづな?」
「これ、母親から貰ったことがある飴だ。小さい頃」
たしか、小学校に通いたての頃だった気がする。
休みの日に母親から連れ出されて、向かった先が近所の美容院。そうだ。その日は珍しく夕飯を作るからと母親が言い出して、買い物がてら「うちの子をよろしくお願いします」って言われて案内されたんだ。
――ストレートに整えてもらったんだ。似合ってるね、なづなちゃん。
待合の席で漫画を読んでいると、ほどほどに膨らんだレジ袋を手にした母親が迎えに来る。三人暮らしだけど、毎日自炊するわけではないから比較的量は少ない。
最近学校はどう、友達は出来た?
勉強で分からないところはある?
って私に聞かれても、教えられるところはあんまりないかもだけど。
他にもされたいくつかの質問に対して、あまり前向きな返事は返せなかった。友達は作り方が分からない。勉強は得意不得意が激しくて、国語と社会が特に苦手。気まずくなって目を逸らせば、なづなの足はぴたりと止まった。
――わ、こんな所に駄菓子屋さんだ。……時間あるし、ちょっと寄ってみよっか?
気まぐれで遠回りした帰り道、母親に対して素直に頷ける無邪気さが、この頃のなづなには残っていた。
陳列されたスナック菓子、駄菓子、風船ガム、食べ物じゃないけど水鉄砲まで――きらきらしたそれらを差し置いて、なづなの指先は棚の隅っこに向けられる。
「……おかあさん」
「ん? それでいいの?」
「うん。これがほしい」
指さしたのは知育菓子。“おとなもいっしょにたのしめる”、小さく添えられていたその文言と、カラフルなクリームみたいなお菓子が映されたパッケージに目を引かれた。
レジまで持っていくと母親は近くに置かれていた箱から何かを掴んで、知育菓子の横にそれを置く。すみません、これもこの子に――はい、ありがとうございます。
お店を出てすぐにレジ袋の中を覗いてみる。すると中には、ささやかな大きさの飴玉が入れられていた。
「これ、なに?」
「ミルクキャンディー」母親は優しく微笑んで、「なづなちゃん好きそうだなぁって思って、見つけたらつい買っちゃった。嫌い……じゃ、ないよね? 牛乳」
嫌いとも苦手とも言ったことが無いのに、どうして急に自信をなくしたんだろう。
おかしくなってなづなは――なづなは、
「……うん。ありがとう、おかあさん」
あの時なづなは、どんな
分からない。夕日が沈むオレンジ色の空も、安心したように笑いかける母親の顔も覚えている。なのにそれだけが、思い出せない。
およそ一年間、望まない生き方をしてきたせいだろうか。
どうでもいい記憶がゴミのように
「――づな」
だからなづなは、きつく、きつく
目が
「大丈夫……大丈夫だから」
視界が滲む。我慢しても声がこぼれる。
急に染みだした心細さが、頬を冷たく濡らしていた。
「……っなんで……なんで、泣いてんだよ……!」
このまま体を包むぬくもりに沈んでしまいたい。蛇口の壊れた水道のように、奥底から記憶の欠片があふれ出す。
ほんのたまにではあったけれど、父親は作った料理を「余ったから」と言ってなづなに食べさせてくれた。宿題で分からないところを聞いた時、母親は一緒に悩んでくれた。あいつらが恵んでくれた善意や愛情は、虐げられた事に比べればささいな事に過ぎないだろう。
まともに子育てをされたとは口が裂けても言えないし、人に自慢できるような親でもない。それでも、それでも中学を卒業するまでの十五年間。
あいつらはなづなの面倒を見てくれたじゃないか。
百点の親ではなかったかもしれないけれど、決して
――お前らがいない運命くらい、なづなは背負って生きてやる。
どうしてあんな事を言ったのか、心の片隅で後悔している自分がいた。
なづなの進もうとした道は――もしかしたら、選んではいけない道だったのかもしれない。
「自分のした選択が……間違いだったって思う?」
どこまでも優しい声が羽根のように降ってくる。
「もしそう思ってるんだとしたらそれは違う……答えはまだ出ていないのよ。最初から分かってる事なんて何もない。正しいとか、間違っていたとか、それがわかるのは……決まっていつも後からだった」
なづなの選択はどちらに転がるんだろう。不安になって、またミゼリアさんの声にしがみつく。
「辛くていいの。悲しくていいの。わたしがぜんぶ受け止めるから……どうか歩みだけは止めないで。あなたが望む未来は、まだ遠いところにあるのかもしれない。それでも足掻いた先に――必ず待っているはずだから」
「なんか……泥臭いんすね、意外と……」
「……ええ。私もまだ、足掻いてる途中だから」
顔を埋めているからどんな表情を浮かべているかはわからない。けれどその声は、励ますような笑みを含んでいた気がした。
雨に打たれて陽が射せば、いつかは泥が落ちる日も来るのかな。
投げ捨てた鍵によく似たちっぽけな光が、真っ暗闇をかすかに照らす。どんな選択をしたところで、どんな未来が待ち受けているかなんて誰にもわからない。
それでも自分でした決断の重さに負けていたら、今度こそ、闇の中でしか息ができなくなる。
「……負けるもんかよ」
涙を拭いて外を見る。
窓の向こうに、過去の自分はいなかった。
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