第15話 万事塞翁が馬


 手が痛い。

 なぜだか知らないけど、胸まで痛い。


 呼吸を整えながら顔を上げると、横向きに倒れた母親の姿が視界に映る。

 なづなが殴ったんだ。

 遅れてきた実感にまた胸が痛んで、慰めるように冷たい風が頬を撫でる。それでも、心に食い込んだとげまでは抜いてくれなかった。


 スキルで“まる”を形成し、手錠代わりにこいつの腕にはめてやる。屋上に取り付けられたフェンスは身動きがとれないよう縛り付けるのに最適だった。


 同じ要領で父親にも手錠を掛け、金網へと結びつける。これでもう口づけは交わせない。


「――お、おい。なんで俺までこんな……!」

『キレイな兄チャンに逆戻り、か。同情はまァ、してやらなくもねェがよ』


 その言葉には心の中だけで同意を示しておく。記憶から人格までをぐちゃぐちゃにかき乱されて――母親のしたことを考えれば、父親こいつもある意味“被害者”か。


 母親から父親へ、その他複数の宿泊客にも伸びていた赤い糸はすべて消えた。何人かは痛い目に遭わせてしまったものの、じきあの人たちも目を覚ますだろう。


「お待たせしました」宿泊客の様子を見ていたシオンさんが戻り、「身体的外傷はほとんどありませんでしたが、後ほど病院で検査を受けさせます。意識も記憶も混濁している筈ですから」

「……妥当な判断ね。両親との話は?」

「続けます。セッティングも十分のようですし」


 二人に掛けた手錠からなづなへと視線がスライドする。そこまで気を利かせていた訳じゃないけど、両親から話を聞きたいという気持ちはあった。


 脚をたたんだままけろりとした面持ちの母親と、困惑気味に視線を泳がせている父親。水を向けられたのは後者からだった。


「部屋にいた時、『昨日、なづなさんに会いに行く必要があった』とおっしゃっていましたね。それは芹愛様の脅威を伝えるために?」


 父親は深く頷き返す。


「夢でも見てんじゃねえかって感覚だった……記憶も、目に見えるもの全部が曖昧で。頭ん中の霧が晴れたのは昨日、芹愛こいつに飲み物を買いに行かせた時だった」

「……ある程度距離が離れたおかげで、芹愛様の支配が弱まった?」

「そうだ――いや、そうです。店まで少し離れてたから、本当に偶然だった。だんだん何をされたのか記憶が戻ってきて、やっぱりヤバイじゃないですか? だからなづなにって、でも」

「……伝える事はできなかった。また口づけされてしまったから」


 ミゼリアさんが事情を汲み取り、あとはなづな達が知る通りの出来事だった。


 母親が主導してギルドから出たなづな達を尾行、そのままカフェに乗り込んでくる。この時点で父親は操られているから警告できる筈もなく、いったんその場はうやむやになって後日、改めて会う約束が交わされる――すべてはなづなを操る為に、母親が計画的に起こした行動と見て相違ない。


 けれどこの計画には、致命的な“穴”が存在する事に気付いてしまった。


「お前らが来た後……もしなづなが『それでも会いたくない』って拒否ってたらどうすんだよ。そしたら詰みだろ」

「そうかな。私は絶対会いに来てくれるって信じてたよ」

「親子だから――そういうのも分かるとか?」


 売り言葉に買い言葉で、称賛を含んだ笑みがライモンに返される。


「物分かりのいい人って素敵ですね。あ、もしかして結構モテます?」

「視線はよく向けられる。『松竹梅』Tシャツこいつのおかげでね」

「ああ、納得です。けど」そよ風が桃色を含んだブラウンの髪をもてあそび、「なづなちゃんはきっと私たちの事を恨んでるだろうから。強いていうなら、それがちゃんとした根拠になるのかな」

「……よく分かってんじゃねえかよマゾカス女」


 吐き気をもよおす安心感だった。恨まれている自覚があり、なおかつなづなの思考を分かられていた事に対しても腹が立つ。


 わざわざ計画を練って、父親さえ駒のように使い、無関係の人達まで巻き込んでみせた。こいつがなづなの為にそこまでする理由は、いったいなんなんだ。

 脳裏をかすめた疑問がミゼリアさんの口からこぼれ出る。


「どうして、そこまでしてなづなを……」

「……? え、っと……すみません」


 心底困ったように首を傾げながら、


「家族が一緒でいる事に、何か特別な理由って必要なんですか?」


 純粋で非の打ちどころのない、まったくもって正しい邪悪な言葉だった。親子同士で愛し、愛されている人間にとって、その言葉は絶対不変の真理なのだろう。


 家族が一緒でいる事に理由なんて必要ない。だって家族なんだから――吐き出されたドメスティックな言葉は、けれどなづなにとっては暴力だ。


 その家族を放り出して、異世界に飛んだのはどこのどいつだよ。


 意図して転移した訳じゃないのはわかってる。それでも自分の力を使って、理想の人間を作る為に人の人格まで捻じ曲げて、こいつがしたかったのはガキの遊び以下のおままごと。さすがにここまで頭のネジが飛んでいるとは思わなかった。


 たとえ正論なのだとしても、こいつの言葉だけは絶対に認めちゃいけない。

 理性ではなく本能が、心に強く訴えかけていた。


「……あなたも寂しい人間なのね」


 伏し目がちな桜色の瞳に今一度、小首が傾げられる。


「……正しいんじゃねえの。お前が言ってる事は」

「嘘。本当は逆の事を思ってるでしょ」

「分かってんならもういいだろ。無駄だって、お前との会話全部」


 なづなの事を何もかも分かっているのなら、これ以上必要なのは言葉なんかじゃない。


 全部をわかってる必要なんてない。

 分かろうとしてくれるだけでいい。


 あいつは――瑠稀はそうしてくれたから、なづなはそれだけで十分だった。


 ライモン達だって同じだ。両親と一緒に暮らし始める未来はもう、なづなには想像できない。振り回されるのもごめんだ。ガマンだって今日で卒業。


 なづなはそれを伝えるために、ここに来た。


「……お前らはなづなの親だよ。認める。でももう一緒には生きていかない。だから――今日でさよならだ」


 ボディバッグのジッパーを開ける。指先に触れる小さくて冷たい、記憶の感触。手にするとなおさらチープに感じられるそれを握りしめて、あぐらを掻いている父親に放り投げた。


「……こいつは」

「住んでたアパートの鍵。もうゴミだからいらない」

「っ――! なづな、聞いてくれ!」


 下を向いていた顔が勢いよく上げられる。


「元の世界にいた頃、お前との距離感がよくわからなくてっ……風当たりが強かったところはあるかもしれない。小さい頃から芹愛によく懐いて、可愛がられていたから、俺は離れたトコから眺めてるだけだった! 情けねえ話だけど、ガキのお前が羨ましかった。不器用でビビリなんだよ、俺は……でもお前の父親だって自覚は、今でも持ち続けてるつもりだッ!」

「……騙されねぇぞ」

「……はぁっ……?」


 命乞いが止まる。金網と擦れてがちゃがちゃと音を立てていた手錠も静まった。


「信じられないって言ってんだよ。……いくら言い訳並べられたって、冷たくされた過去は変わんない。胸ん中にしまってるだけの優しさなんて、無いのと一緒だろ」

「……少しの間でもいいんだ、なづな。こいつにももう力は使わせない。だから俺たちとまた」

「シオンさん」合わせていた視線を逸らし、「お願いします。こいつに、聞いてください」

「“――本当に考えている事を教えてくださいますか。運日様”」


 余計な相槌もなくスマートに応えてくれる。むなしさの答え合わせはすぐだった。


「芹愛から――逃げ、たかった。ここでなら、なづなと親子の関係をやり直せると思ってた。なのにこんな目に遭うなんて……ないだろ、そりゃあ」


 情けない心根と偽りのない本心がさらされる。


 逃げたかった、やり直せると思った。もしかしたら父親もこの世界に来て、何かを変えるきっかけを掴んでいた一人だったのかもしれない。かすかに湧き起こった同情の念は、それでもやるせない感情には勝てなかった。


 その願望はこの世界に来なくても叶っただろ。

 どうして元の世界にいた時から、やり直せると思ってくれなかったんだよ。


 幼い頃のなづながうるさいくらいに叫んでいる。でもその悲鳴を口にすることは絶対に、出来ない。感情の歯止めが効かなくなりそうな予感があったからだ。


「互いが親子であるかの確認は、もう済んだように思います。今後、互いがどのように過ごしていくかの話し合いも」


 シオンさんが話の流れを引き取り、


「おそらく今出された結論が変わる事はありませんが……今回の件については然るべき人員、資料を揃えた上で改めて吟味ぎんみします。それから方々ほうぼうに危害を加えた以上、お二人には懲役が課されますのであらかじめご承知おきください」

「ち、懲役って……ふざけんなッ! 俺ぁ被害者だぞ!?」

「理解しています。ですが私に怒鳴ったり、抵抗する事で成立する罪がある事をお忘れなく。それと――」耳だけを傾けていた母親に視線が向けられ、「芹愛様には、重い刑が下されるかと思います」


 ――こいつらと会う事は、もうないのかもしれない。


 どうしてだろう。シオンさんの言葉を聞いた時、脈絡もなくそんな事を考えた。


 ほどなくしてペントハウスのドアが開けられ、白を基調とした仰々しい装いに身を包んだ人たちが現れる。この街の騎士団だ。

 シオンさんが事の経緯を話す途中、なづなを呼ぶ声が聞こえてきた。


「冷蔵庫のチャーハン、食べてくれた?」

「……あの味薄いやつ? お前が作った」

「ああ、違う違う」


 母親は笑みを含みながら、


「あれ、作ったの運日くん。私は味見して、書き置きを残しただけ。私が作ったなんてどこにも書いてなかったでしょ?」


 記憶を過去にさかのぼる。たしかにあの書き置きには、誰が作ったかなんて文言は書かれていなかった気がする。


「……それが? だから何なの?」

「急にね。必要な子育て以外、私はなんにもしてあげられなかったなぁ、って思って。……なづなちゃんの歩く人生と私の人生は、もしかしたら今後一切、交わる事はないかもしれない。心配なんだ。これから先、なづなちゃんが頑張れるのか」


 思い出を作れなかった事を純粋に悔いているのか、それとも話し相手が欲しくて声を掛けただけなのか。どちらにしろ大きなお世話だ。親になった事も無いなづなには、こいつの意図するところがわからない。


 けれど――親がいなくても、思い出は作っていけるから。


「……お前らがいない運命くらい、なづなは背負って生きてやる……!」


 冷たい雫が頬を濡らす。

 割れた夜空から、灰色の雲が覗いていた。

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