第14話 運命の赤い糸《後編》


 死神に心臓を掴まれたような心地だった。


 振り向かせるよう力が働き、なづなは咄嗟に抵抗を試みる。唇だ。手で相手の口を覆ってしまえば口づけはされないし、操られもしない――本当に?


「っああ、めんどくせぇなぁっ……!」


 割り込ませた手をすぐさま上へ、芹愛の目を覆うように当てさせる。もし口づけを交わすのではなく、手でも頬でも、どこか体に唇が触れただけでも操られてしまう可能性があるとするなら、安易に触れる事は出来なかった。


 指の隙間から覗く焦げ茶色の無垢な瞳。匂い立つ香水すらも人を狂わす劇薬のように思え、焦燥感をいっそう煽られる。


 早く誰かに、近くにいるシオンに助けを求めなくてはならない。声を上げようとしたその刹那、降り注ぐ羽音に意識が向いた。


『――ッハハハァッ! 帰ってきたぜェオレちゃァんッ!』


 体を旋回させながら魔法の弾丸を数発、さらに飛び退いた芹愛へしつこくまとわりついてなづなが離れる隙を作る。夜空に似た漆黒の体躯の持ち主は、見紛みまがう筈もなかった。


「あっぶねぇ! 助かった、タオジェン!」

『気にすンな! ケガのコーミョーってヤツだぜ!』黒い羽根を散らしながら威嚇いかくしたまま、『外にブッ飛ばされたおかげで、この姉チャンがペントハウスの屋根に隠れてたのが分かったッ! なづなちゃんとキスする隙を伺ってやがったんだ!』

「っもう、しつこいなぁ……! カラスって嫌い! 臭い、汚い! あっち行って! ゴミはゴミ箱っ!」

『なんッ、的確に“ヒト”傷つけるのやめてくれるゥ!? フロ入ってんだけどなァ!』

「いや、それ以前に人じゃないっしょ!?」


 ペントハウス――屋上に繋がる階段と扉を設けられた小屋の事を指すが、芹愛はその屋根に隠れて虎視眈々と、かついくつかの策を仕掛けた上でなづなの隙を伺っていた。


 踊り場にぽつんといた女は足止め兼囮役であり、彼女の糸が屋上まで伸びている事を確認すれば、なづなはまず間違いなくドアを開ける事だろう。


 芹愛が身を隠す時間は十分にあった。

 その上で赤い糸を空気に溶かし、運日たち八人に魔法で迎撃するようにと指示する時間も。


 結果的にシオンの介入によって魔法は防がれてしまったが、その点に関してはさしたる問題ではなかった。


 運日たちに注意が向いていれば、あとはこっそりペントハウスの屋根から降りて口づけを交わすだけ――芹愛にとって重要な目的は本来、この時点で果たされているはずだった。


 タオジェンという、誤算が無ければ。


「触られるまでマジで気配なかったぞコイツ……!」


 前世は暗殺者か、それともマフィア映画に登場するような腕利きのヒットマンか。生まれた余裕にひと心地ついている暇はない。


「……なづなちゃん。後ろを見てみて」

「るっせえ! “立方体キューブ”、衛星サテライト!」聞く耳も持たずに複数の立方体を周囲に浮遊させ、「ぶっ叩い――」

「“なづなさん、左へ避けてください”」

「てやっ――!?」


 攻撃態勢から回避運動へ、無理やり捻じ曲げられた体勢に節々が悲鳴を上げる。


 シオンの命令通りになづなは左へ前転。意味も理由もわからない行動ではあったが、顔を上げて自分がいた位置を確認した時、すぐにその判断の正しさを理解した。


水流アクアクッション――っ!」

「……今日は邪魔ばっかり入るなぁ」


 なづなの背後から迫ってきていたのは、だった。形成した水のクッションを背に、シオンは弾丸のような速度を伴っていた彼らを抱きとめる。


 原理は運日に口づけする際に見たものと変わらない。メジャーを巻き取るように赤い糸を手繰り寄せ、対象を引き寄せる。しかし距離が開いていた分、加速による勢いがついていたため、壁に激突した場合は生々しい惨事につながりかねなかった。


 幸いにも大事には至っていない。

 しかし、だからといって芹愛の非道が帳消しになる訳では無論、ない。


「シオン!」


 ペントハウスのドアを開けてミゼリアが駆け寄る。傍らにはライモンの姿もあった。


「大丈夫……!? その子と老人は……!」

「私を含め、全員無事です。手を下すのははばかられますが」

「なら、これを使うといい」ライモンは手にしていた杖を差し出し、「こいつと壁の間にその二人を挟んで、水と土の魔法で固定する……窮屈だが、そうすれば安全バーの代わりにはなるだろう」

『いや、そりゃあありがてぇがよ……!』


 タオジェンが言わんとしている事は明白だった。


 己の得物を失えば、ライモンは徒手空拳での戦いを余儀なくされる。狙う斬撃も、得意の剣術も使えなくなった彼が果たしてどこまでの実力を発揮できるのかは、およそ未知数といって差し支えない。


 だがライモンの提案に乗れば子供と老人、デリケートに扱わなくてはならない対象の安全が確保される。


 多勢に無勢の戦いを気迫と、千変万化のスキルの応用でなづなが拮抗にまで持ち込んでいる。十字に連ねた立方体は槌となり、切って開けば数多の面が魔法を阻む、障壁と化す。


「……使いましょう」杖を受け取り、シオンは言われた通り魔法でそれを固定した。「おりをお願いできますか、タオジェンさん。……この騒ぎです。じきに騎士団の方々が駆けつけてくれる筈なので、それまでは」

『あいよォ! けどまたいつ引っ張られるかは分からねェ――早めにとっちめてやんなァ!』


 背中は預けた。

 シオンの判断に異を唱える者もいない。孤軍奮闘の戦いを終わらせるべく、三つの影が激戦の渦中に飛び込んだ。


「あれ――あの子供とおじさまはぁ、もういいんですかぁー!?」

「やかましいぞ芹愛ぁっ!」「テメエの声が一番うぜぇっ!」


 張り上げた声の三重奏ほど騒々しいものはない。赤い糸が複雑に絡み合い、二重、三重の連携がなづな達に襲い掛かる。

 個々の魔法の威力は先ほどの光の竜巻にこそ及ばないが、間断ない波状攻撃はそれを補って余りある。


 策の弄し方、スキルを最大限活用した人海戦術。芹愛の力は決して凡庸なものではなく、しかし、その非凡性は同じくなづなにも当てはまっていた。


「“×バツ”、水流飛刃アクアブーメラン!」

「うっとうしいんだよ!」雷光を纏わせた脚撃が飛び交う刃を蹴り払い、「芹愛、もっと奥に下がっ――ごっ……!?」


 がら空きの腹部を浮遊していた立方体が重く突く。あえてなづなは、飛刃のいくつかを芹愛に向けて飛ばしていた。

 手数重視の取るに足らない攻撃でも、気を散らせるならば意味は十二分にあるだろう。


「イイの入ったろ……! ライモンッ!」

「ああ! あとはオレが請け負おう!」

「っひひ、さんきゅ!」


 母親のもとへと駆ける背中を見てライモンはほくそ笑む。そうだ、それでいい。言葉に込めたニュアンスをなづなはすぐに拾い上げてくれる。


 相対するは獣の如く、獣性に満ちた瞳を燃やす彼女の父親。ライモンは真っ向、烈火の両手と疾風の両足を怯むことなく迎え撃った。


「砕けろ――ッ!?」


 丸腰ならばと侮るなかれ。


 低めの姿勢から打ち上げられた拳を見極め、紙一重のところでかわし切る。さらにすれ違いざま、軸足に足を引っかけて相手の体勢をよろめかせる。


「どうぞ。遠慮せずに」

「……スカしてんじゃねえぞ、んの野郎ぉっ!」


 周囲に気を配りながら、間合いは常に己の手が届く距離を保ったまま。でなければ芹愛が不意に運日を引き寄せた時、すぐに対応する事が出来ない。


 矢継ぎ早に打ち出される拳打を腕やひじを使って巧みにさえぎり、相手をもてあそぶように小技を仕掛けていく。


 ――こいつは俺で遊んでいるのか。


 振るわれる拳に宿る焦がれた感情を、その瞳は見逃さなかった。


「いいのかい、それで――!」


 顔面狙いの馬鹿正直な右ストレートは格好の的だった。即座に利き腕側に回り込み、腕をとって肩の後ろを押さえつける。芹愛の方を一瞥いちべつしてライモンは確信を得た。


「……あっ」

「よそ見してんじゃねぇカス女ぁっ!」


 複数の人間を細かに操り、いくつも浮遊する立方体の多角的な攻撃をさばかなければいけない労力はいかほどのものだろう。いくら情報処理能力に優れていようと、物事が乱立すればそのいずれかはおろそかになる。


 隙を生んだのは、ほんのわずかな綻びだった。


「最高だ、なづな――!」


 両の足を素早く刈り、宙に浮いた体を押さえつけて背中から地面に叩き落とす。

 運日の小指から、赤い糸が消える。

 重々しく吐き出される咳が運日の全身にほとばしる痛みを、如実に物語っていた。


 さらに一本、また一本と消えていく糸の先を辿れば、視線は自ずと彼女たちの元へとたどり着く。


疾風脚撃フローシュート……! シオン!」

「――“おやすみなさい”」


 脚撃を叩きこみ、体力を削ったところで声の魔力を用いて無力化する。断じて人を支配し、意のままに操るための力ではないが、その糸を断ち切るのにシオンの力はうってつけだった。


 残る手駒はあと二人――燃ゆる刃とみなぎる水刃、主を同じくした男と女が、互い違いに剣閃を描く。


 時折、芹愛から放たれる魔法がまたいやらしく、それでいてつかず離れずの距離を保っているのはこの上なく的確な判断といえた。


 間合いをとるも詰めるも己次第。自分のペースで戦いの主導権を握り続けてきた芹愛らしい、全体の動きを掌握するような立ち回り。しかし――


「飽きてんだよ、おままごとはッ!」


 それがどうした。


 左右から挟み込むように薙がれた刃を、立方体の面で受け止める。賢しいだけの立ち回りでは、狂犬の手綱は握れない。


「……手錠じゃめんどいな」男女の間を駆け抜けながらそれぞれに手をかざし、「じゃあ檻ならどうだ! “三角錐”――!」


 足元から頭上へ、三角形の底辺を始点に形成された角錐の図形が、彼らを閉じ込める檻と化す。


 操られていようが構わない。身動きさえとれなくすればそれでいい。たとえ引き寄せられようと、その時は質量の塊が容赦なく芹愛を押しつぶすだろう。


「ライモン達が外堀埋めてくれて助かった。なづなの腕、二本しかねぇし」

「……まいったなぁ。そんな事まで出来ちゃうんだ」


 距離が近付き、赤い糸が儚く消える。

 ついぞ消えたその糸は、親子を結ぶ架け橋たり得なかった。


 止める者は誰もいない。

 月明かりの下、鈍く、乾いた音が響き渡った。

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