第13話 運命の赤い糸《前編》


 繰り出した拳がくうを切る。むき出しの殺気は攻撃の予兆を察するのに十分で、運日は芹愛の体を守りながら半開きのドアを蹴破った。


「逃げんなッ!」


 そこそこに広い程度の室内ではあっという間に追い詰められてしまう。ゆえにその魂胆こんたんが逃走だろうと、場所を替えるのは理にかなっている。閉所での鬼ごっこに興じられる人間は、ごくひと握りなものだろう。


 我先にとなづなが飛び出して続々と芹愛たちの姿を捉えた瞬間、ミゼリアとタオジェンはわかりやすく言葉を失った。


『チッ……最悪の渋滞だぜ、こいつァ!』

「……そこまでするのね、あなたは……!」


 男性、女性――あろう事か子供から老人まで。

 視界内に存在する人間すべてが、芹愛と赤い糸で結ばれていた。


 誰一人の例外もなく目はうつろ。しかし一見しただけで分かる些細な特徴よりも、芹愛が彼らと接吻せっぷんを交わし、己の手駒として操っている事実の方がよほど生々しい爪痕を残していく。


 彼女はなんの関係もない宿泊客を利用したのだ。おそらくはちょうど、離席したタイミングを使って。


「……手心を加える必要がありそうだな」


 杖を握る手に力が込められ、


「まあ……余罪がまたひとつ」


 玲瓏れいろうな声が罪を数える。

 水面下で事を押し進めていた手腕も狡猾こうかつだが、あえて子供や老人を手駒に選んでいるというのなら悪辣あくらつ極まりない話だ。


 赤い糸で繋がれている人間は運日を含めて一人、二人――合計、九人。


 正面には男女四人で形成された肉の壁が立ちふさがり、芹愛は残る四人と運日を帯同させながら廊下を駆けている。風や水の魔法による加速力を得れば、身体能力に差がある子供と老人も問題なく併走できる。


 遠近両方に伸びる赤い糸はテリトリーを主張する蜘蛛の巣のようでもあり、だからといって二の足を踏んでいられる余裕は無かった。


「“球体スフィア”、火炎弾丸フレイムバレット!」


 なづなは爆弾に見立てた真っ黒な球体を形成。さらにそれを敵方へ蹴り飛ばして炎の弾丸で着火し、


『なづなチャン!? 手心、手心!』

「わーってるよ、規模は絞ってる!」


 迷っている時間が惜しかった。最短距離を行かなくてはあの背中に追いつけない。ほんの少し、巻き込んでしまう人間にも申し訳ないと思っている。


 膨張しきったサッカーボール大の球体が爆発する。これで、活路が切り拓ける。頭の中に思い描いていたビジョンは、かすみの如く消え失せた。


「っ……! 壁際に寄るんだッ!」


 声が響いたのと爆風が霧散むさんしたのは同時だった。


 床と天井をえぐり進む、禍々しい碧色へきしょくのつむじ風。逆巻く風は疾風はやてのように駆け抜けて、気流を狂わせ窓を割る。乱気流が及ぼす影響は、それだけにとどまらない。


『オイオイオイオイマジかよォォォォ――!?』

「いけない……! タオジェン!」


 広げた翼は風の影響をじかに受ける。咄嗟に伸ばした手が漆黒を掴むことはなく、やかましい声が夜空の彼方に遠のいた。


 外へ吹き飛ばされたタオジェンと芹愛たち、視線を惑わせるミゼリアの横で、小説を風除けに使いながらシオンは状況を把握した。


「……巧みですね。無駄がない」


 怜悧れいり双眸そうぼうが見据えていたのは魔法で練り上げた水の壁。しかし、ただの水の壁ではなかった。


 なづな達の前に立ちはだかる男女四人を操って、芹愛は水の壁を四重にして形成。爆発から身を守らせる一方で運日たち五人は力を合わせ、即座につむじ風を放ち反撃に転じていたのだ。


 頭数が揃い、操れればこそ、守りも攻めも並行して行える。

 だが真に恐ろしきはそれらを平然とやってのける、芹愛の明晰な頭脳と情報処理能力であろう。


 弾む足取りが遠ざかる。

 抜くべきか、抜かざるべきか――いいや、足止めできればそれで事足りる。


 廊下の壁を斜めに駆け上がると、ライモンは視界内に標的を捕捉し、


「一人一人をよくもまあ、たがえもせずに……! 普通頭がパンクしそうなものだがッ――!?」


 跳躍ざま得意の抜刀術、“狙う斬撃”が刻まれる。しかし芹愛と運日の足元を狙った一撃は、惜しくも命中には至らなかった。


 ライモンともっとも近い距離にいる人間に魔法を撃たせ、横やりを入れる。殺気は感じ取れずとも、そのアクロバティックな動きは捉えるに容易い。即座に下した判断は、すぐに芹愛の身を助けた。


「わっ!」床にほとばしるひと筋の斬撃こんから飛び退き、「……でも意外と平気ですよ。子育ての方が私には難しかったなぁ」

「さっきもそうだが突っ込みづらい返事ばかりが返ってくるな……! こりゃあ技のキレも落ちるワケだッ!」

「っふふ……! ユニークな人。気まで落としませんように――」


 赤い糸が二本、妖しい輝きを滲ませる。

 炎熱の弾丸が斬り伏せられ、細身の刀身と稲妻の刃が鍔迫り合う。


 ショートブーツの靴底が上階へつながる階段を踏みしめると、芹愛は振り返り、微笑みながら手を振った。こっちへおいで、なづなちゃん。赤い糸を繋がれた人間たちが抵抗をやめ、ぞろぞろと階段へ向かい駆け上がる。


「誘ってんじゃねえぞコラァッ!」

「っ……なづな、一緒に!」


 挑発である事を指摘して止まるなづなではない。一瞬の逡巡しゅんじゅんで結論を出し、ミゼリアは突き動かされるように足を動かす。今はリスクを承知で進まなければいけない時だった。


「邪魔ぁっ!」


 踊り場に残されていた女は足止めが目的であろう。水の刃をかわして立方体の弾丸を数発、叩きこむ。その隙に壁を蹴って跳躍したミゼリアが両脚で頭を挟み込み、床へ投げ飛ばして無力化する。


 屋上の扉越しへと伸びる、奴隷と飼い主を繋ぐ糸が消えた。


「なづな、この人は私が……!」

「お願いしゃっす!」


 気を失わせればあいつの支配から救い出すことができる。しかしなづなにとって重要なのは、扉の先にいる両親あいつらを殴る事――!


雷光ライト竜巻トルネードォッ!」


 ――あのクソ親父。


 四人がかりで水の四重防壁を作り上げ、五人がかりで巨大な渦風を形成する。では、八人がかりで出来上がるものは――?


「……数と質の暴力かよ、クソが……!」


 雷轟らいごうの螺旋はうず高く、光の奔流は夜空にきらめく星よりまばゆい。見上げんばかりに長大なそれは、先日戦った大型の魔物と張り合って、なおあり余る程の大きさを誇示している。


 口では悪態をつきながらも、なづなはまだ戦意の炎を絶やしてはいなかった。


 轟々と、まるでにじり寄るかのように嵐が近付いてくる。上等だ。攻撃の規模は明らかに度を越しているが、ならばこちらもあるだけの力をもって迎え撃つまでだ。


 反骨心がたけるまま腕を上げようとしたその時、肩に誰かが手を置いた。


「耳を塞いでいてください。少し、響きます」


 栗色の髪から運ばれる甘い香り、黒を基調とした随所にレースの映える着物姿。彼女は一歩踏み出して、深く息を吸い込んだ。


「――――――!」


 どこまでも清く、豊満に、まろやかに。

 聞き心地のいい高音が“ラ”の音を奏で続ける。


 発されるのはただ一音、しかしその一音が、まるで歌でも聞いているかのような錯覚を聞く者に抱かせる。手のひら一枚を隔てた向こうには、どんなに美しい音色が木霊こだましている事だろう。耳を塞ぐ手を離しそうになるが、なづなは意思を固く持つ。


 迫りくる光の螺旋は、空気の振動により生まれた音の壁に阻まれていた。


 シオンの声に魔力が宿っている事は知っている。しかしまさか、ここまで常識外れの力を生み出せるとは思いもしなかった。


「――っがああぁぁぁ、うざってぇ! さっさと黙れよテメェはぁっ!」

「――――――」


 力の天秤が揺れ動く。

 片側へと、徐々にその傾きを大きくして。


 いくら吠えたところで響き渡る音を消すことは出来ない。

 口汚い罵声すらも包み込み、なおも抗い続けた意地の果て――火花のように飛散する稲妻を、そよ風が力なく押し流す。


 螺旋はとうとう、その威容をしぼませた。


「っがぁっ……はぁ、はぁっ……!」


 息を切らしていたのは運日だけではない。彼と合力し、同じく魔法を行使していた者達も例外ではなかった。威力や規模を大きくすれば、魔力の消費も雪だるま式に跳ね上がる。


 晴れ渡った視界に膝をつく運日の姿を見つけると、なづなは慌てて視線をさまよわせた。


「……あいつ、どこ行っ――」


 芹愛の姿が、ない。

 気付いた瞬間、なづなの頬に手が添えられた。


 赤い糸をいくつも繋いだ、芹愛の手が。

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