第12話 呪いの証明



 逃げろ。


 幾重にも重ねられたうわごとを吹き飛ばし、その叫びに宿る感情は余りあるほど切実なものだった。だが逃げる?


 何から、どこへ――?


「がっ……!?」


 諸々の思考をさえぎって、なづなの首に予想外の力が加えられた。


 首を絞められている――いや違う、


 狭くなった視界の端に捉えたのはライモンが手にしている、杖の柄。L字型の取っ手が首の後ろに回り込み、パーカーのえりへ引っ掛ける事でなづなの体を強引に引き寄せていた。


 多少き込む程度で外傷はない。咄嗟の判断が功を奏したが、訪れた安堵は一過性のものに過ぎなかった。


「……え? 皆さん、どうしたんですか?」


 窓から吹きこんでくる風がブラウンの髪をそよがせる。光の反射がほのかに含まれた桃色の色素を暴き出し、混乱をはらんだ空気の中、間の抜けた声はひどく場違いなものに感じられた。


 困惑の視線を一身に浴びてなお、紅白芹愛べにしろせりあは気弱で奥ゆかしい雰囲気を崩さない。


 なづなの背後に立っていたのは、「逃げろ」という言葉の奥に潜んでいたのは、束の間の離席から戻ってきたばかりの彼女だった。


「何考えてんだお前ぇっ……!」


 声色に怯えを隠せない。それでも運日は厳しく目元を整え、にらみつける。


「どうしたの運日くん? そんなに慌てて……」

「しらばっくれんな! ……お前、俺に何をした? 今っ、なんでそっとドア開けた? なづなに何しようとしたんだよ、ワケわかんねえんだよ全部ッ!」


 言動から行動に至るまで、唐突に挙動不審に陥ってしまった運日ではあったが、なづなへの警告を境にいくらか冷静さを取り戻したように見える。

 芹愛へ問い詰める今もそうだ。語気の乱れこそぬぐえないが、一笑にす事の出来ない真実味が言葉には宿っていた。


 このままではらちが明かない。

 無造作に頭を掻くと運日ははっとした面持ちでなづなへ向き直り、


「怖がらせてごめんな……! でも聞いてくれ! 俺はあの時、どうしてもお前に会わなきゃいけなかったんだ」

「は……あ……?」


 ――こいつはいったい誰なんだ。


 人格が変わったのか、あるいはもっと根本的な部分から何かが覆ってしまったのか。こんな運日の姿を見るのはなづなにとっても初めてだった。

 見慣れぬ他人をどうにか父親と結び付け、なづなはたどたどしく唇を動かした。


「あの時って……昨日?」

「そうだ、昨日の――あぐっ!?」


 がくん、と運日の左腕が突き出される。そのまま体ごと芹愛のもとへ引き寄せられ、ベッドの上で足が引きずられると今度は不可抗力で椅子が蹴飛ばされる。


「逃げ――っ」


 二度目の警告を聞くことは叶わなかった。


 背伸びした爪先、首へ回されたか細い腕。壁に押し付けた体を抱きとめて――芹愛はその口を、自らの唇で塞いでしまう。


 絡み合う舌がなまめかしい音を立て、漏れ出る吐息と混ざり合う。淫靡いんびに、暴力的に。色気のないリアルが、非現実的な光景に凌辱りょうじょくされていく。


 やがて唇を離した時、未練がましく伸びる唾液の糸が二人を繋いでいた。つややかな舌がそれを舐め切り、瑞々しい桃色のリップで彩られた唇が言葉を紡ぐ。


「そっか。やっぱり離れすぎるとああなっちゃうんだ」

「あ……ぁ……」

「でもこれで、私の好きな運日君に元通りだね」

「……今、何をしたんですか」


 開いた口が塞がらないタオジェンの横でミゼリアが問いかける。


「……? キス。っていうか、見たらわかりますよね?」


 それ、わざわざ聞くような事なんですか。笑みを含みながらの物言いに返ってくる言葉はなく。同時に芹愛と運日の小指を結ぶ、淡く輝く“赤い糸”が浮かび上がる。


「おっきい声出してたし、みんな運日くんの方を向いてたから。ああ、今ならいけるかなぁって思ったんです。だからそーっとドアを開けて……惜しかったなぁ。運日くん、振り向いちゃった」

「……記憶の混濁、人格の豹変。あなたは混乱に乗じて、なづなさんと口づけを交わそうとしていた」


 聡明そうめいまなこが表情のうかがえない背中を見据え、


「そうして意のままに操ろうと企んでいたのですか? たった今、運日様にそうしたように」

「――操る? おい、何言ってんだこいつ」


 ぞわり、筆舌に尽くしがたい悪寒がなづなの背筋を駆け抜けた。


 運日の頬を愛おしそうに撫でる手が自分に添えられ、無理やり唇を奪われる。情事に等しい行為を見せられた後では、その顛末てんまつがあまりにも鮮明に思い描けてしまった。


 口づけを交わした相手を意のままに、それも人格や記憶を歪ませるほど強烈に操れる能力――シオンの言葉に耳を疑う者はいなかった。


 一見まともに思えた運日の態度が、このわずかな間に再度、豹変してしまう。お前はこうなる前に、逃げろ。記憶と現実で重なった父親の佇まいが、なづなに最後の警鐘を鳴らしていた。


「おい、マジか……!」


 おぞましい畏怖いふの感情があった。明らかになった事柄は、また別の疑問を浮き彫りにさせる。


「……さっきまでの彼は、比較的まともな性格をしていたように見える。オレの目にはキミを恐れているようにも見えたけど」

「ああ、そうですね。この力を使ったら急に怯えられるようになっちゃって……でもあのままだと、力関係が逆転しちゃうじゃないですか」

「何……?」


 芹愛は硬直した空気を感じ取り、


「見ましたよね? 運日くんは私の事をぞんざいに扱って、感情とか、いろんな事のけ口に使うような人なんです。あれが私の好きな運日くん」

「おっと……人の趣味にとやかく言うつもりはないが、キミは誰かからいじめられて、悦に入ってしまうような人間だったのかい?」

「いいえ?」


 いっそうにこやかな笑みがあどけない顔立ちを飾る。


「わかりやすく言うと私、んです。そうした方が周りの人とか、世間様は優しくしてくれますし。楽に生きられますよね? ……実際皆さん、さっきは気を遣ってくれたじゃないですか。私の事、あんな奴に付き合わされてかわいそうな人だなぁ――なんて思ったりしませんでしたか?」


 白から黒へと返るオセロのように、疑問が納得に変転してゆく。好転よりも、悪化を望んだ芹愛の行動に筋が通りかける。

 しかしその生贄となったのは、仮にも一生を誓い合ったはずの相手であった。


 常識的に考えれば到底受け入れられるものではない――そう、常識的に生きてきた人間ならば。


「なづなちゃんなら分かるんじゃないかな」


 吸い込まれそうなほど暗く、妖艶ようえんなまなざしが獲物を捉える。


「知らないおじさまと手を繋いだり、ご飯を食べて一緒に夜を過ごしたり……誰かに拾われたり。どうかな」

「ッ――!」


 はたして沈黙を貫くことは出来なかった。


 誰かが制止する間もなく、腹部を蹴飛ばすように足が突き出される。しかし芹愛は動じない。彼女にけしかけられた運日の手が、小さな足を掴んでいたからだ。


「誰のせいでこうなったと思ってんだコラ……! オイ! ざけんなクソ野郎ッ!」

「あはっ、やっぱり……! なづなちゃんぐらいの年齢だと、そうやってお金稼ぐしかなさそうだもんね」

「テメエに何が分かんだよマゾ女!」

「分かるよ。私もおんなじだったから」


 聞く耳を持ってしまったのがいけなかった。


「ああ……? っぐ!?」


 生じた隙を狙って蹴り足が無造作に払いのけられる。バランスを崩したなづなが壁に迫り、激突を覚悟した瞬間、すんでのところで割り込んだライモンが彼女の体を受け止めた。


 ――なんでこいつは、なづなのしてきた事を知ってんだ?


 芽生えた疑問が影を落とす。親が失踪してから過ごしてきた一年間を、こいつらが知っているはずがない。なのに、


「なんで、んな事を……!」

「なづなちゃん」


 芹愛は聞き分けのない子供をさとすように、


「私たち、親子だよ? 親が子供の考えそうな事わかるのは当たり前だもん」


 心の影を塗りつぶしたのは光ではなく、より深く強大な闇だった。親が子供を理解するのに理屈はいらない。


 だって、私たちは“親子”なんだから。


 幼い頃から目にしてきた笑顔が雄弁に物語る。呪いのような血の証明が、絶対にして唯一無二の説得力を与えている。一年ものあいだ欠落した意識のせいで、単純な事にすら気付けなかった。


「親子……」


 そして、よもや昨日打ち壊されたはずの常識が今日、再び破壊されるとはミゼリアは思いもしなかった。こんな親が、関係性が、世界にあるものなのか。


 目の前にいる人間が人の皮を被った化け物に見える。それでも踏み出した一歩は、芹愛の視線を欲しいままにした。


「……親子の絆は、人を縛る鎖じゃない」


 なづなを支える。昨日誓った約束が、彼女の足をさらに前へ進ませる。


「わたしはこの子と会ったばかりだけれど、あなたの知らないなづなを知っている。……たった一つの繋がりだけで、人の心を計れると思わないで」

「同感だ。……立てるかい? なづな」手を取りながらライモンが立ち上がり、「特別な力なんかなくたって、オレはなづなと仲良くなれた。キミがこの子の親だというのなら、そんな力は使わずに向き合ってみたらどうだい? なあ、シオン」


 棚に飾られた造花をレースの指先がするりと撫でる。


「――あらかじめお伝えした通り、私はあなた方が家族であるかどうか……加えて今後についてのサポートもしていきたいと考えていました。ですが狼藉ろうぜきを働かれる場合、事の優先順位が入れ替わります」


 逡巡しゅんじゅんを挟んだ後に芹愛はぱっと笑みを浮かべ、


「もう遅いって、遠慮せず申し上げても大丈夫ですよ。真面目で愛想も良くて、そのうえ本当に綺麗な方で……勝手に動いてすみません」

「どうぞお構いなく。では申し開きは、“実力行使”の後にという事で」


 至極丁寧なやり取りとは裏腹に、彼女らを取り巻く空気は冷たく、穏やかなものとは言い難い。ひりつくような緊張感が場を満たし、ふと紙を裂く音が木霊こだまする。


「なんか今、思い出した」なづなは棒付き飴を咥え、「お前らと喧嘩、まだした事なかったわ」

「だる……するまでもねぇだろ、勝てねぇんだから」


 勝つか負けるかなんてどうでもいい。

 ただひとつ、芹愛に対しくすぶっていたかすかな希望がつゆと消える。


 なづなの前から逃げこそすれ、運日と違い面倒は見てくれた。もしかしたら、芹愛とならやり直せるのではないか。しかし今はその未来も見えず、あまつさえ目の前の関係性はよりいびつなものに変容していた。


 裏切られたなどと思ってはいない。やり場のない感情の矛先はねじれ、容易に苛立いらだちの渦を巻く。


「……お前らばっか好き勝手しやがって」


 一生のさよならを叩きつけてやるつもりだった。でもそれは後回しだ。


 今、自分がしたいのは――怒りと欲望の坩堝るつぼに手を伸ばし、ひと際ぎらついていた感情をなづなは迷わず掴み取る。


「じゃあなづながガマンする必要もねえよなぁっ!」


 こいつら一発、ぶん殴る――!

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