第11話 逃げろ


 大通りを道沿いに歩いていけば、ある区画を境に建物に統一感が出始める。


 この街の宿屋ホテル街だ。


 密集した宿の大半は三階建てか四階建て。この街特有のポップなイルミネーションで飾り付けられ、つぼみのように丸い形をした街灯が道行く人の足元を照らしていた。なづなの知るホテル街と違っていかがわしい感じはしないし、雰囲気も明るく見える。


 けれど――男と腕を組んで自分の体を押し当てる、男女の二人組が通り過ぎる。


 探せばたぶん、で利用される宿もあるのだろう。どうでもいい。引っ張られた視線を正面に戻し、遅れていた足並みを早足で詰めた。


「着きました。この宿の三階です」


 シオンさんが足を止めたのはこの街にしては珍しい、ごてごてした電飾やまばゆい看板を掲げていない上品そうな宿だった。受付での短い会話の後、なづな達は再びその後をついていく。


 一階から二階へ、二階から三階へ。

 階数を上げるごとに心臓がかすかにさざ波立つ。


 照明を反射してつややかに揺れていた栗色の長髪が、重力に従ってするりと垂れる。シオンさんの目配せにそれぞれが視線を返し、ほどなくしてノックされたドアが開けられた。


「あっ……どうも。おはよう、ございます……」

「おはようございます、芹愛せりあ様」柔和な微笑みを添えて恭しく会釈えしゃくし、「先日の件でお話を伺いに参りました。運日はこび様もご一緒でしょうか?」

「いるから、さっさと入れよ。なづなも連れてきてんだろうな?」


 気だるげな声にため息が漏れる。


「……いるっつの」

「客の対応は母親任せ……なるほど」


 ほらな、言った通りだろ。小さく独りごちたライモンと視線を交わして通じ合う。元の世界じゃ見慣れた光景だったけど、懐かしいなんて感情は微塵も湧かない。


 中へ入ると、スマホを掴んだ父親の人差し指が苛立いらだたしげにその背面を叩いていた。


 落ち着け、落ち着け、落ち着け。喧嘩をしに来たわけじゃない――言い聞かせて椅子なり壁なり、なづな達は適当な場所へ腰を落ち着ける。


「なあ、なんなんだよコイツら」


 各々に視線を巡らせた父親がシオンさんを見て、


「俺らとなづなそいつだけじゃ駄目なの? 落ち着かねぇんだけど」

「申し訳ございません。規則がありますので」

「は? なんの?」

『あらら! おたくら昨日した事を覚えてらっしゃらない? んじゃ、ちょっくら胸に手ェ当てて考えてみようぜ。そうすりゃスグ分かるからよォ、ハハッ! ――あ、オレちゃん翼しかないわ』

「……舐めてんのかコラ」


 言葉尻に底冷えするような怒気がにじむ。


「……運日く」

「るっせぇんだよお前は黙ってろ――!」


 怒りのボルテージが瞬間的に跳ね上がった。


 針で刺された風船のように感情が爆発し、立ち上がった父親が平手で母親の頬を打つ。脳裏をよぎった光景が現実になるまで時間はかからなかった、はずだった。


「……カッとなりやすいところがあるのは、前までのなづなとそっくりだな」

「その手を下ろして座ってください。……タオジェンも、今は口を慎んで」

「っ、ああ……!?」

「そういうトコだろ」


 殺気に満ちた瞳がなづなに向けられる。怯んでたまるかよ。


「感情的んなって、すぐそうやって八つ当たりして……お前がそんなんだから、誰も心を開かなかったんだろ」

「っ……テメエに何が分かんだよ……!」


 荒々しく吐き出された息と同じ、乱暴な仕草でライモンの手が振りほどかれる。ため息をつきたいのはこっちの方だ。


 人目をはばからず手を上げようとした父親も――そんな父親に優しい言葉をかけて機嫌をとっている母親も、等しく出来の悪い人間にしか見えなかった。

 もちろん、なづなが人に言えた事じゃないのは分かっている。


 落ち着いたタイミングを見計らって母親はシオンさんと目を合わせる。大丈夫ですから、もう話して頂いても。汲み取りたくもない意思表示が分かってしまい、余計自分にうんざりする。


 話の切り口はまず両親から入れられた。


 なづなと両親の三人は異世界へ転移する前に面識はあったか、全員が偽名ではないかどうか。事務的にされる質問はなづながカフェでされたものと変わらない。


 強いて違いがあるとすれば、シオンさんの声色は少し、淡々としたものに感じられた。それでも語気や感情を荒げる事はないのだから、素直に凄いという感情が湧いてくる。


「――ありがとうございました。質問は以上です」

「やっとかよ……これ終わったら次はなんだよ」

「互いがどう過ごしていくかの話し合いに移ります。今後に関わるお話ですので綿密に、話がまとまったらギルドに移動していくつか書類を」

「あの、いいですか」


 おい、と低く鋭く響いた声が挙手をとがめた。母親は申し訳なさそうな態度で詫びてから、


「すみません。ちょっと具合が悪くて……席を外してもよろしいでしょうか?」

「ええ、構いませんよ。切りもいいですし、少し休憩を挟みましょうか」

「本当にすみません……! ごめんね運日くん、なづなちゃんも」


 弱々しい笑みを向けて母親は部屋を出て行く。父親がわけのわからない理不尽な理由でもつけて困らせるかと思ったけど、舌打ちひとつで離席を許したのは意外と言えば意外だった。


 今、部屋にいるのはなづな達五人と父親だけ。


 静寂に緊張の糸が張り詰めていく。お互い黙ったままでいるのだから当然だ。けれど、その沈黙も長くは続かなかった。


「……不躾ぶしつけな質問になりますが、してもよろしいでしょうか」


 ミゼリアさんの声にぴくりと父親の顔が上がる。


「あ……?」

「どうしてあの人、芹愛さんに辛く当たるんですか? ずっと困っているように見えますけど」

「それアンタに関係あんの? ……別にいいだろ。本人からやめろって言われてねぇし、問題だって起きてねぇ。つか何、説教?」

「そう感じたって事は、少しは悪い事をしてる自覚があるのかな」


 ミゼリアさんからライモンへ、殺気の矛先が切り替わる。


「彼女の気持ちに耳を傾けた事はあるかい? 今の言葉、そのうえで言ってるのだとしたら、オレから言う事は何もないが」

「付き合い始めた頃からずっとこうだよ……知らねえだろ、あいつがたまに笑ってくれんの」


 征服感に満ちた、それでいて下種げすな喜びをたたえた笑みはまるで――男が、女を食い物にする時のような。


 よみがえりかけた記憶に蓋をする。見覚えのある、見慣れたくはなかった顔。言いたい事ならなづなにもあった。


「お前なんで、“あいつ”ってしか言わねえの?」


 なづなの事も、母親の事も。こいつは「おい」とか「なあ」という風にしか呼ばない。父親は嘲笑するように鼻で笑い、


「芹愛の事か? お前だって言ってんじゃねえかよ。おお? ――なづな」

「っ……ああ、忘れてた。そうだよ。お前のがうつったから」

「……ガキが」今日、何度目かの舌打ちをしてスマホをベッドの上に放り投げる。「にしてもあいつ、俺に黙ってどこ行きやがった」


 あまりにも自然、かつごく当たり前のように呟いたから一瞬言葉を拾い損ねた。


 ――


 あいつという言葉が、少なくとも母親を指しているのはやり取りから見て間違いない。ライモン達と顔を見合わせて確かめ合った時、今の言葉が聞き間違いでない事を誰もが悟った。


『オイオイ、何言ってんだ兄チャン? さっき部屋ァ出てくトコ見てたろ? しかもご丁寧に「はこびちゃぁ~ん」なんて言ってもらってたし』


 父親は心底呆れた様子でため息をつき、


「……アホな事言ってんじゃねえぞトリ頭。あいつは最初っからこの部屋にいなかっただろ」

『え……? アレ? もしかしてオレちゃん達が見てたの、ユーレイってコト!?』

「いいえ。たしかに先ほどまで、芹愛様はいた筈です。それになんだか――様子がおかしい」


 突然立ち上がったかと思えば頭を掻きむしって、窓辺まで早足気味に歩いていくと窓を開放して外を見回す。漏れ聞こえてくる独り言は聞き取れない程度に小さく、かえってそれが異常性を際立たせていた。


「――ああ、ちくしょう! クソッ! 違うんだよ全部ッ、なんなんだよ!」


 なんなんだよ。こっちが叫びたい気分だった。


 行動原理がまるで読めない。じわじわと回る毒のように、戸惑いを強く含んだ叫びと得体の知れない薄気味悪さが空気を汚染する。


 それでも比較的落ち着いていられたのは、少なくとも表面上、ライモンやシオンさんが冷静さを保って見えたからだ。必然、注目は父親に集まった。


「……なづな。キミの父親が二重人格であるとは聞いていなかった気がするけど」

「いやいやいや、そんなんなづなも知らんし! つかなんだよコイツ、急に取り乱して……!」


 あぁ、あぁ。まて、まて、まってくれ頼む。思い出せ、思い出せってなあお願いだから。おれは――だから、なあ――!


 悲鳴じみたむなしい叫びが反響する。さっきまでの静けさが嘘みたいだ。目の前の人間と記憶の中にいる父親を重ね合わせて見る事は、どう足掻いても無理だった。


 一歩、二歩と、後ずさりながら距離をとって。

 直後、轟く声に心臓を撃ち抜かれた。


「――逃げろなづなぁっ!!」

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