果南の告白
部屋に漂うのは、油絵の具の匂い。
鉛筆の下書きを終えたキャンバスに彩られるのは、油絵の具の色だ。
その筆の持ち主である武藤さんの背中を見つめている私は、どんな顔で彼を見つめているのだろう?
鏡がないから、自分がどんな顔をしているかなんてわかる訳がない。
もしかしたら武藤さんのことを真剣に見つめているのかも知れない。
それとも、悲しい顔で武藤さんのことを見つめているのかも知れない。
あの日――私が武藤さんの生い立ちを知った日以来、武藤さんは私を避けることをやめた。
だけどそれは表面的なところだけで、裏面――つまり、私との心の距離はまだ離れたままだ。
武藤さんとの心の距離は、どうすればいいのですか?
どうすれば、この心の距離は縮まるのですか?
2年も人との交流を避けてきたから、人との距離の縮め方がわからない。
本当は、人と近づくことすらも忘れてしまったのかも知れない。
思うことは簡単なのに、それを行動に移すことができない私は弱虫だ。
肌を照りつける太陽の温度に、後少しで夏がくるんだなと私は思った。
今日は武藤さんに何を作ってあげようかなと考えながら、私はスーパーマーケットへ足を向かわせていた。
スーパーマーケットにつくと、
「あら」
彼女と会ってしまった私は、
「――あっ…」
思わず声を出した。
「こんにちは」
クロエさんがあいさつをしてきたので、
「こんにちは…」
私もあいさつを返した。
「私に会うのが怖かったのかしら?」
そう言ったクロエさんに、
「ち、違います…。
クロエさんにお借りしているハンカチを持ってなかったなって…」
私は言った。
ハンカチのことは建前だ。
本当はクロエさんの言う通り、会うのが怖かった。
クロエさんは武藤さんのことをよく知っているからと言うのも、会うのが怖かった理由の1つでもある。
1番の理由は…クロエさんは私の気持ちを見透かしているのではないかと言う、不安からだった。
だって、私が武藤さんに恋をしていることをクロエさんは気づいたのだ。
だから今私が思っているこの気持ちも、クロエさんに気づかれるのではないかと思うと、彼女に会うのが怖かった。
クロエさんは笑うと、
「返さなくてもいいって言ったでしょう?」
と、言った。
「でも…」
そう言った私に、
「ハンカチはたくさん持っているんだから、1枚くらい誰かにプレゼントしたって平気よ」
と、クロエさんは返した。
「そうですか…」
呟くように返事した私だったが、ふと気づいた。
「えっと…クロエさんも、お買い物ですか?」
質問した私に、
「ええ、そうよ。
この辺りの民宿でお世話になっているんだけど、散歩がてらお買い物にきたの」
クロエさんが答えた。
「民宿、ですか?」
てっきりホテルで暮らしているのかと思っていたから、クロエさんが民宿にいることが意外だった。
そんな私の頭の中を読んだと言うように、
「ここはホテルらしきところなんてないじゃない。
私がよく見ていないだけなのかも知れないけど」
と、クロエさんが言った。
「えっ、そうなんですか?」
この町って、ホテルがないんだ…。
聞き返した私に、
「知らなかったのは仕方がないわ。
この町に住み始めてから、まだ日が浅い方なんでしょう?」
クロエさんが言った。
「えっと、そうですね…」
私は首を縦に振ってうなずいた。
この町にきて武藤さんのところで住み始めてから何日が経ったかは自分でもよくわからないけど、この町にはまだまだ私の知らないことがたくさんあるみたいだ。
「そう言っている私も、まだ日が浅いんだけどね」
クロエさんはフフッと笑いながら言った。
私たちは入口に置いてあるカゴを手に持つと、店内を歩き始めた。
「クロエさんは、どうしてこの町にいるんですか?」
私はクロエさんに聞いた。
「あら、それはどう言う意味かしら?」
聞き返してきたクロエさんに、
「その…クロエさんは武藤さんのことを心配しているのかな、って」
と、私は質問の意味を言った。
「そうね、あなたの言う通り、私はムトウのことを心配しているわ」
そう言ったクロエさんに、私は改めて彼女が武藤さんのマネージャーをしていたんだと知らされた。
「ムトウは、元気にしてるかしら?」
そう聞いてきたクロエさんに、
「元気です。
病気だとは思えないくらいに、再発を押さえるために薬を飲んでいるとは思えないくらいに、武藤さんは元気です」
と、私は答えた。
クロエさんはホッとした顔をすると、
「そう、よかったわ」
呟くように言った。
「私、武藤さんとクロエさんの話を聞くまで何も知らなかったんです。
武藤さんの前の職業がミュージシャンだったことももちろんのことですけど、病気を患っていたことも、再発を押さえるために薬を飲んでいたことも、私は何にも知らなかったんです」
私は言った。
「武藤さんのそんな姿を見たことがなかったと言うのも、私が何も知らなかった理由の1つでもあるんですけど…」
「ムトウは、あなたの前ではそんな格好が悪いところを見せたくなかったかも知れないわ」
そう言ったクロエさんに、
「そんな、格好が悪いなんて…」
「それがプライドって言うものよ」
私の言葉をさえぎるように、クロエさんが言った。
人間には、誰だってプライドがあるのかも知れないと思った。
私もそうだった。
ストーカーされていることを家族や友人に相談することができなくて、自分から連絡を絶つのは彼らを守るためだと何度も自分で言い聞かせて、悪魔から逃げ回っていた。
だけど本当は、彼らにストーカーされていることを知られたくなかった。
お前が悪いんじゃないか、お前の勘違いじゃないかと、彼らから言われることが怖かった。
私の言うことを彼らは信じてくれないんじゃないかと思っていた。
友人のエピソードを理由に警察へ相談できなかったのも、私の中のプライドが邪魔をしたからだ。
だけどそんなプライドは、武藤さんが壊してくれた。
――俺が警察に行って、果南ちゃんが理不尽なストーカー被害に遭っていることを伝えに行く
――行かなきゃ、果南ちゃんはまた自殺しようとするじゃないか!
武藤さんが壊してくれたから、私は生きていることができるのだから。
「きっとムトウは、あなたがいない間に薬を飲んでいたのよ」
そう言ったクロエさんに、
「えっ?」
私は聞き返した。
私がいない間に薬を飲んでいたって…?
「例えば、今こうしてお買い物をしている時とか」
私の頭の中を読んだと言うように、クロエさんが言った。
そうだ。
私が買い物に出ている今、家にいるのは武藤さん1人だけだ。
ううん、買い物に出ている時間だけじゃない。
私がお風呂に入っている時間も、武藤さんからして見れば1人の時間になる。
「その間に武藤さんは、薬を飲んでいたって言うことなんですか?」
そう言った私に、
「あなたに見られたくないから自分が1人になっていた時に隠れて飲んでいた、そう言うことよ」
クロエさんが言った。
「――ッ…」
目の奥が熱くなったような気がして、私はクロエさんから目をそらすようにうつむいた。
「あなたは悪くないわ」
クロエさんが言った。
「ムトウのプライドがそうさせたんだから、あなたは悪くない」
彼女は私を慰めるように言ったつもりなのかも知れないけど、私には傷つけられたような気がした。
「プライドって、何なのですか?」
そう聞き返した私に、
「外でお話をしましょう?」
クロエさんが言った。
私は、自分たちが今スーパーマーケットの店内にいることを思い出した。
スーパーマーケットでの買い物を終えると、クロエさんと肩を並べて歩いた。
「さっきの話なんだけどね」
話を切り出してきたクロエさんに、私は先ほどまでのスーパーマーケットでの会話を思い出した。
「ムトウはあなたに心配をかけたくない、あなたに迷惑をかけたくないって思っているのかも知れないの」
そう言ったクロエさんに、
「それが、武藤さんのプライドなんですか?」
と、私は言った。
クロエさんが口を閉じたところを見ると、それは肯定と言うことなのだろう。
「じゃあ…」
私は口を開いた。
「どうして武藤さんは、私を自分のそばに置いたんですか?」
クロエさんは立ち止まると、私を見つめた。
私も立ち止まって、クロエさんを見つめた。
「自分のせいで心配をかけたくないなら、迷惑をかけたくないなら、私を自分のそばに置く必要なんてなかったと思います。
そんなプライドがあるんだったら、私のことなんて放って置けばよかったと思います」
「どうして、そんなことを言うの?」
クロエさんが訳がわからないと言うように聞き返した。
「あなたはムトウに命を助けられたって、この前言っていたじゃない。
ムトウが自分を止めてくれたから自分は今を生きているんだって、あなたはそう言っていたじゃない。
なのに、今どうしてそんなことを言うの?
ムトウに止めて欲しくなかった、放って置いて欲しかったなんて、どうしてそんなひどいことを言うの?
この前と言っていることが逆じゃないの」
クロエさんの言葉が胸に刺さって痛い。
「確かに、言いました…」
私は呟くような声でクロエさんに言った。
「私が生きているのは武藤さんのおかげだって、武藤さんが止めてくれたから命を手放さないで済んだって…そう、言いました。
だけど…私は、どうすればいいのかわからないんです…」
言い終えた瞬間、クロエさんの顔がぼやけて見えた。
「ずっと人と関わることを避けてて、人から逃げ回っていたから、どうすればいいのかわからないんです…。
どうすれば私は武藤さんのことを知ることができるのか、そのためには私を何をすればいいのか、わからないんです…。
武藤さんが私のことを避けているんだったら、私に心配をかけて欲しくないんだったら、私のことなんか放って置けばよかったって…」
声が震えていて、自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
それまでぼやけて見えていたクロエさんは、
「バカな人ね」
と、小さな子供をあやすような声で言った。
「今度は、あなたがムトウを助ければいいじゃない。
ムトウがあなたに手を差し出したように、今度はあなたがムトウに手を差し出せばいい。
ムトウがあなたの命を助けたように、今度はあなたがムトウの命を助ければいい。
簡単なことじゃない」
優しく言ったクロエさんに、傷ついた私の心が癒えて行くような気がした。
そうだ…。
そうだよ…。
どうして私は、こんな簡単なことに気づくことができなかったのだろう?
武藤さんが私を助けたように、今度は私が武藤さんを助ければいい。
武藤さんが私のプライドを壊したように、今度は私が武藤さんのプライドを壊せばいい。
気づくことは簡単なことだったはずなのに、どうして私は気づくことができなかったんだろう?
空いてしまったこの距離を埋めるためには、私から武藤さんに歩み寄ればいい。
こんなにも簡単で小さなことに、どうして私は気づくことができなかったんだろう?
「あなたは、ムトウのことが好きなんでしょう?
ムトウのことが好きなら、自分からムトウに手を差し出して、自分からムトウに歩み寄りなさい。
あなたがムトウを助けたのは、ムトウも誰かに助けてもらいたかったのかも知れないわ」
「――ッ…」
私はクロエさんの言葉に、首を縦に振ってうなずいた。
「じゃあ、私はここで帰るわ」
家まで後数メートルと言うところで、クロエさんはそう言って立ち止まった。
「えっ、武藤さんに会いに行かないんですか?」
そう言った私に、
「私がいたら、あなたとムトウの邪魔になってしまうでしょう?
ムトウを助けることができるのは、あなたしかいないのだから」
クロエさんが微笑みながら言った。
「はい…」
首を縦に振ってうなずいた私に、
「じゃあ、また会えたら」
クロエさんが背中を見せた。
「…さようなら」
彼女の背中に向かって、私は声をかけた。
クロエさんの姿が見えなくなると、私は深呼吸をした。
大丈夫、私は武藤さんを助けることができる。
自分自身に言い聞かせた後、私は家の前へ向かった。
ドアを開けたとたん、フワリと油絵の具の匂いが漂った。
「ただいま帰りました」
そう言ってドアを閉めた後、私はリビングへ足を向かわせた。
「おかえり」
武藤さんは私に声をかけてきた。
「あっ…」
キャンバスに視線を向けたとたん、私は気がついた。
「もう完成したんですね…」
そう言った私に、
「これでも時間はかかったんだけどね」
武藤さんは笑いながら言った。
キャンバスに描かれていたのは、青い海だった。
波打ち際にあるのは髑髏、少し離れたところにあるのは真っ赤なりんご、そして灰色の砂が入った砂時計だった。
確かこの絵の構想は、私たちが警察へ行った帰り道に海で武藤さんが話していた構想だ。
果実と砂時計と、髑髏――その絵を楽しみにしていたはずだったのに、私はいつの間にか忘れてしまっていた。
「果南ちゃん、気に入った?」
そう聞いてきた武藤さんに向かって私は両手を広げて、
「――えっ、果南ちゃん…?」
彼を抱きしめた。
「果南ちゃん、どうしたの?」
私に抱きしめられた武藤さんは突然のことに戸惑っている。
もう迷わない。
もう逃げない。
そう思いながら、私は口を開いた。
「――武藤さんのことが好きです」
私は言った。
「――えっ…?」
私に突然抱きしめられたうえに、私に突然告白されたことに、武藤さんは戸惑っている。
「初めてあなたに出会った時から、あなたに恋をしていました」
包み隠さず、自分の気持ちを武藤さんに打ち明けた。
ドキドキ…と、私の心臓が鳴っている。
人を好きになったのはもちろんのことだけど、好きな人に告白をするのも初めてだったからだ。
前まではこの心臓の音が伝わったらどうしようと、不安だった。
でも今は、武藤さんにこの心臓の音が伝わって欲しいと思っている。
伝わったら、私が武藤さんに抱いているこの思いが彼に理解してもらえるんじゃないかって、そう思っている。
「武藤さんのことが好きだから、武藤さんと一緒に生きたいんです。
武藤さんと最後まで、一緒に過ごしたいんです。
病気のことも、再発のことも、みんなみんな受け止めて、武藤さんと一緒にいたいんです…」
武藤さんが私を助けてくれたように、今度は私が武藤さんを助けたい。
武藤さんを助けて、武藤さんを支えて行きたい。
「――少しの間だけでいいから、腕を離してくれる?」
武藤さんにそう言われ、私は彼を抱きしめていた腕を離した。
私の腕から離れた武藤さんは両手を広げると、私を抱きしめた。
「――えっ…?」
これは、どう言うことなのですか?
さっきまでは私が武藤さんを抱きしめていたのに、今は武藤さんが私を抱きしめている。
この違いは何なのですか?
武藤さんの腕の中で戸惑っていたら、
「果南ちゃん」
武藤さんが私の名前を呼んだ。
「はい…」
「俺が果南ちゃんに初めて会った時、俺が何を言ったか覚えてる?」
「えっ…?」
武藤さんに初めて会った時に言った武藤さんのセリフ?
何で今それを聞いてきたのだろうと思いながら、私は彼のセリフを思い出していた。
「えっと…“どうせ終わりにする命なら、その命を俺にくれないか?”、ですか?」
あの時は何を言っているのか、よくわからなかった。
そもそも、武藤さんは一体何を言いたかったのだろうか?
「あの時、俺は果南ちゃんに“自分の道連れになって欲しい”って言う意味で、そのセリフを言ったんだ」
「み、道連れですか…!?」
確かその言葉の意味は悪い方だったと思う。
「あの時、果南ちゃんは死にたがっていたでしょう?
俺も死の間際のようなところにいるから、そんなことを言ったんだ。
俺が死んだら果南ちゃんも死んで、果南ちゃんが死んだら俺も死ぬ…そう言う意味だったんだ」
「そ、そうだったんですか…」
あの訳がわからない言葉の意味は、そう言う意味だったんだ…。
「そもそも俺がヴァニタスって言う絵のジャンルを描いているのも、自分への皮肉だったんだ。
死の間際にいる俺が死を象徴している絵を描いている――そんな自分への皮肉を込めて、いつも絵を描いてた」
そう言えば、どうしてこの絵のジャンルを描いているんだと聞いたことがあった。
その時の武藤さんの質問の答えは、こうだった。
――自分と重なる部分があった、からだと思う
死の間際にいる武藤さんと死を象徴しているヴァニタス――この2つが似ているかどうかなんて私にはよくわからないけど、そう言う意味で武藤さんは答えたんだ。
「だけど…果南ちゃんと一緒に暮らして行くうちに、道連れにしようって言う考えはいつの間にかなくなっていた。
そんなものは、果南ちゃんが理不尽なストーカーに悩まされている時点でもうなくなってしまっていたんだ。
その考えがなくなった代わりに出てきたのは“果南ちゃんと一緒に生きたい”、その願いだった」
――果南ちゃんと一緒に生きたい
武藤さん、それはどう言う意味なんですか?
「だけど、俺が病気だと言うことを知った時の果南ちゃんのことを考えると怖かった。
先がない俺とは反対に、果南ちゃんにはまだ先がある。
俺のせいで果南ちゃんの人生を壊す訳にはいかないと思うと、どうすることもできなかった。
本当は果南ちゃんから離れたくない、果南ちゃんと一緒に生きたいと思っていても…」
「――武藤、さん…?」
私を抱きしめている武藤さんの手が震えている。
「もちろん、果南ちゃんが病気のことに関して何も言わないのはわかっていた。
うぬぼれのように聞こえるかも知れないけど、何も言わない代わりに果南ちゃんは俺のそばにいてくれたんでしょう?」
「――ッ…」
武藤さんは、気づいてくれていたんだ…。
私の目から涙がこぼれ落ちた。
「桜が咲いたらじゃなくて、俺が死ぬまでそばにいて欲しいんだ…。
果南ちゃんが好きだから、果南ちゃんと一緒に生きたい…そう思ってる」
武藤さんが私を見つめた。
「――いいん、ですか…?」
私は武藤さんの目を見ながら言った。
「俺がいいって、言ってるでしょ」
武藤さんは私の目を見ながら言った。
「私、武藤さんと一緒に生きていたいです…」
「俺も、果南ちゃんと一緒に生きたい…」
武藤さんの顔が、私に向かって近づいてきた。
私はそっと、目を閉じた。
唇に感じた温かいぬくもりに、私は武藤さんの背中に両手を回した。
結ばれたって、思ってもいいんだよね?
武藤さんと結ばれたって、そう信じてもいいんだよね?
2度目に交わした武藤さんとのキスは、嬉しさでいっぱいだった。
長かったような、短かったような…どれだけの時間が経っていたのかはわからないけど、武藤さんの唇が私の唇から離れた。
「今まで生きてきた人生の中で、今がとても嬉しいかも知れない」
武藤さんが言った。
「ミュージシャンの夢がかなった時も、世界を飛び回る夢がかなった時も、画家として成功した時も、もちろん嬉しかった。
だけど、果南ちゃんと結ばれた今がとても嬉しいと思う」
「私も武藤さんと結ばれて、とても嬉しいです」
好きな人と結ばれたことがこんなにも嬉しいことだと言うことも、生きているからこそ知ることができた事実だった。
「もう少しだけ、わがままを言うなら…」
武藤さんが言った。
「果南ちゃんを抱きたい」
その言葉に、私の心臓がドキッと鳴った。
それの意味って、確か…?
私の間違いじゃなかったら、そんな意味だったはずだ。
「果南ちゃんとの間に子供が欲しい」
「――ッ…」
私の顔が赤くなったのがわかった。
私を抱きたいって言うのは、やっぱりそう言う意味なんだよね?
「ごめん、言い過ぎた」
武藤さんは笑った。
「結ばれて早々、俺は何を言っているんだろうね。
果南ちゃんもビックリしちゃったでしょ?」
武藤さんは笑いながら、私から躰を離した。
「――えっ、あの…!」
私は武藤さんの腕に向かって手を伸ばすと、彼を引き止めた。
「――私、武藤さんに抱かれたいです…」
自分でも恥ずかしいことを言っていることがわかった。
だけど…好きな人に抱かれたいと思うのは、誰だって願うことでしょう?
「果南ちゃん、無理しなくても…」
「無理なんかじゃありません」
私は首を横に振った。
「私は本当に、武藤さんに抱かれたいと思っています…。
あなたとの間に子供が欲しいって思っています…」
好きな人に抱かれて、好きな人の子供が欲しい――私のわがままかも知れないけど、私はそう願っている。
武藤さんが生きた証をこの世に残したい。
私と武藤さんが愛しあった形をこの世に残したい。
生きた証は武藤さんが描いた絵だけじゃなくて、武藤さんが生きた形として私は彼との子供が欲しかった。
そう思う私は、欲張りなのかも知れない。
武藤さんが私の方に向かって手を伸ばしてきた。
伸ばした手は私の頬に触れると、
「――ッ…」
唇が重なった。
唇が離れると、
「果南ちゃんのことが好きだから抱くんだよ?」
武藤さんが言った。
「はい、わかっています…」
私だって武藤さんのことが好きだから、あなたに抱かれる覚悟があるんです。
「今なら“やめて”って言うことができるよ?
そしたら、お互いのためにも引き返すことができるから」
私は首を横に振ると、
「引き返しません」
と、言った。
「武藤さんに抱かれる覚悟はできています。
私はあなたのことが好きだから、あなたに抱かれるんです」
言い終わった私の躰を武藤さんは抱きしめた。
私は彼の背中に両手を回した。
「もう、果南ちゃんの言うことを聞かないからね?」
「はい」
「果南ちゃんが“やめて”って言っても、俺はやめないからね?」
「はい」
「果南ちゃん」
武藤さんが私の名前を呼んで、私の顔を覗き込んできた。
「――好きだよ」
「――私もです…」
武藤さんの唇が私の唇をふさいだ瞬間、彼のぬくもりを刻むように私は目を閉じた。
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