外国人の女性
――その人は、初夏の風と共に現れた。
悪魔が警察に捕まって穏やかな日々を送っていた私の前に現れた。
ねえ、武藤さん。
その人は、一体誰なのですか?
ことの始まりは、私がいつものように買い物から帰ってきた時のことだった。
「あら?」
家の前にいたのは、ブロンドの髪がキレイな女の人だった。
日本人でブロンドの髪なんて言う人はいないだろう。
だとしたら、外国人…かな?
だけど、外国人でもブロンドの髪は珍しいそうだし。
そう思いながら見ていたら、彼女が私の存在に気づいた。
あっ、気づかれた。
どうしよう…私、英語がしゃべれないのに…。
英語で話しかけられたら、私何て答えればいいの?
戸惑っている私に、彼女は気づいていない。
彼女は私に歩み寄ると、
「すみません」
と、声をかけた。
えっ…?
「日本語?」
私は耳を疑った。
彼女、今流暢な日本語で言わなかった?
私は彼女の顔を見つめた。
やっぱり、外国人だった。
淡褐色の瞳に、高い鼻――どこからどう見ても、彼女は外国人だった。
外国人の彼女の唇から流暢な日本語が出てきたとは思えない。
さらに戸惑っている私に、
「私、日本語がわかります。
仕事の関係上、いろいろな国に行きますので」
彼女が言った。
「あっ、そうなんですか…」
私の聞き間違いじゃなかった。
仕事の関係上…って言っても彼女がどんな仕事をしているかはわからないけど、彼女が日本語を話せることに、私はホッと胸をなで下ろした。
英語がしゃべれないから聞かれたらどうしようかと思ってたけど、それは心配なかったようだ。
そう思いながら、
「日本語が上手ですね」
私は彼女に言った。
「ありがとうございます」
これまた流暢に、彼女が日本語でお礼を言った。
何だかすごい人だな…。
外国人に関わること自体が初めてな私はそう思った。
「あの…何か、ご用でしょうか?」
私は彼女に質問した。
「ああ、そうでした。
用事があったから声をかけたことを忘れていました」
彼女は思い出したと言うように笑いながら答えた。
「はあ…」
忘れていたってことは、そんなにたいした用事じゃなかったのかな?
そう思っら私に、
「この町に“ムトウ”が住んでいるはずなんですけど、知りませんか?」
彼女が言った。
「えっ?」
私は驚いて聞き返した。
今、彼女の口から“ムトウ”って言う言葉が出てきたような…?
彼女が言っている“ムトウ”って、私が知っている武藤さん?
「“ムトウ”、ですか?」
私は彼女に聞いた。
「はい、“ムトウ”です」
彼女が答えた。
いや、待って…。
武藤って言う名字は、いっぱいあるはずだ。
彼女が言っている“ムトウ”が、武藤さんとは限らない。
「何か知っていますか?」
私が黙っていることを不思議に思ったのか、彼女が聞いてきた。
「い、いえ…」
とっさに、私は首を横に振って答えた。
違う…。
違うよ、きっと…。
彼女が言っている“ムトウ”が、武藤さんな訳ないじゃない。
「何も知らないです…」
私は首を横に振った。
答えた私に彼女は息を吐くと、
「そうですか、ありがとうございました」
そう言って、私の前から立ち去った。
彼女の後ろ姿が見えなくなっても、私はその場から動くことができなかった。
「――違うに、決まってるじゃない…」
私は小さな声で呟いた。
彼女は“ムトウ”を知っているようだった。
だけど彼女が言っている“ムトウ”が、私がよく知っている武藤さんとは限らない。
「果南ちゃん?」
その声に視線を向けると、
「あっ、武藤さん…」
武藤さんがいた。
「そんなところで何してるの?」
そう聞きながら歩み寄った武藤さんに、
「アハハ、何していたんでしょう…?」
私はごまかすように笑って返した。
「えーっ、果南ちゃんもわからないの?」
「アハハ…」
私は、まだ武藤さんのことを知らないと思った。
私は武藤さんと一緒に暮らして、ご飯を作って、身の回りのことをしているだけ。
武藤さんは絵を描くこと。
絵を描くスピードが早いこと。
果物が好きで、グリンピースが嫌いなこと。
料理は本人曰く、あまり得意じゃないこと。
私が知っている武藤さんをあげるとするなら、たったこれだけだ。
「あの、武藤さん…」
名前を呼んだ私に、
「何?」
武藤さんが返事をした。
私は首を横に振ると、
「何でもないです」
と、答えた。
「呼んだだけって?」
笑いながら言った武藤さんに、
「呼んだだけです」
私は答えた。
本当は違うの。
私が武藤さんを呼んだのは、教えて欲しかっただけ。
武藤さんのことをもっと知りたい、って言いたかった。
でもそんなことを言ったら、武藤さんはどんな顔をするのかな?
あなたのことをもっと知りたいと思う私は、わがままですか?
お風呂から出ると、武藤さんは床のうえで毛布にくるまって横になっていた。
私は電気を消すと、ソファーのうえで横になった。
毛布にくるまった後、私は目を閉じようとした。
「果南ちゃん?」
武藤さんが私の名前を呼んだ。
「あっ、はい…って、まだ起きてたんですか?」
もう横になっていたから眠ったんだと思ってたのに。
「今日は少し昼寝をしたから眠れないんだ」
暗闇だからわからないけど、武藤さんは笑いながら言ったんだろうと思う。
「あ、そうなんですか…」
私は返事をした。
この前私も昼寝をしたせいで夜に眠ることができなかったから、その気持ちはよくわかる。
「だから、果南ちゃんが眠くなるまででいいから少し会話につきあってくれないかなって」
そう言った武藤さんに、
「いいですよ、つきあいます」
私は言った。
答えたとたん、すぐに沈黙。
先に破ったのは、
「ハハッ、何から話そうか?」
武藤さんからだった。
「あー、そうですね…」
私は考えた。
普段はどんな小さなことでも会話ができるのに、今から会話をしようとなったとたん、話題が思い浮かばない。
どんな話題がいいかな?
世間話は…テレビやラジオがないから、今世間で起こっている出来事なんてわからないだろう。
じゃあ、何にしようかな…と考えたとたん、私の頭の中にポンと浮かんだ。
「じゃあ、武藤さんのことが知りたいです」
私は言った。
「えっ、俺?」
武藤さんが驚いたと言うように聞き返した。
「はい、武藤さんです」
私は答えた。
やっぱり、驚かれちゃうのは当然か。
わがままだったよね、武藤さんのことを知りたいだなんて。
そう思った私に、
「何から知りたいの?」
武藤さんが聞いてきた。
「えっ…?」
そう聞いてきた武藤さんに私は戸惑った。
「えっ…って、俺のことを知りたいんでしょ?
じゃあ、何から知りたい…って?」
そう言った武藤さんに、私の心臓がドキッ…と鳴った。
武藤さんのことを知ることができるんだ。
絵を描くことと好きなものと嫌いなもの以外を知ることができるんだ。
そう思うと嬉しくて、私の心臓がドキドキと早鐘を打った。
「――えっと、武藤さんの出身地は?」
最初に出てきた質問は、これだった。
武藤さんはどこで生まれて、どこで育ったか――最初に知りたいと思ったことだった。
「出身は福岡県の北九州市。
高校までそこで過ごして、大学進学を期に東京へ行った」
武藤さんが答えた。
「大学は、美大を受験したんですか?」
そう聞いた私に、
「いや、大学は文学部の英文学科」
武藤さんが答えた。
「あっ、そうなんですか…」
意外だと、私は思った。
大学進学のために上京したと言うくらいだから、美大を受験していたのかと思っていた。
「その当時はね、画家になりたいとは思ってなかった。
昔から絵を描くことは好きだったけど、それはあくまでも趣味として。
その当時は確か…世界中を飛び回ることが夢だった」
私の頭の中を呼んだと言うように、武藤さんが言った。
「世界中を飛び回ること、ですか?」
何だろう、その夢は。
「例えばそうだな、ジャーナリストとか」
「じゃ、ジャーナリスト…ですか」
「意外?」
そう聞いてきた武藤さんに、
「…少し」
私は呟くように答えた。
「そもそも、どうしてジャーナリストになりたいって思ったんですか?」
そう聞いた私に、
「あー、何でなりたいって思ったのかな?
ごめん、忘れちゃった」
武藤さんは笑いながら答えた。
忘れちゃったって…そんなことだと思いましたよ、と心の中で呟いた。
だって、「世界中を飛び回る=ジャーナリスト」とは限らない。
彼のことだから、ジャーナリストはたった今思いついた言葉をそのまま言っただけだと思う。
「でもね、世界中を飛び回るって言う夢はかなったよ」
武藤さんが言った。
「えっ、かなったんですか?」
私は驚いて聞き返した。
どんな形で武藤さんの夢はかなったと言うのだろうか?
「かなったよ」
「どんな形でですか?」
武藤さんは何故か黙ってしまった。
…私、そんなに難しいことを聞いたかしら?
と言うか、どんな形で夢がかなったのかすごく気になるのですが…。
あっ、もしかして誰にも言えない形でかなったとか?
「誰にも言えないって、俺は何をやらかしたって思ってるの?」
そう言った武藤さんに、
「えっ、なっ…!?」
私は戸惑った。
「全部口で言ってたよ。
誰にも言えない形でかなたったとか何とかかんとか」
「えっ、ウソ…!?」
私は手で隠すように口をおおった。
私、全部声に出してたの!?
「じゃ…じゃあ、どんな形で夢がかなったって言うんですか?」
そう聞いた私に、
「それは秘密」
武藤さんが答えた。
秘密って、やっぱり誰にも言えない形でかなったって言うことじゃないですか…。
「何で秘密なんですか?」
そう聞いた私に、
「秘密は秘密」
と、武藤さんが言った。
「じゃあ、誰にも言わないから教えてください。
どんな形で世界中を飛び回るって言う夢がかなったんですか?」
武藤さんはハハッと笑うと、
「教えちゃったら秘密にならないよ。
秘密は自分の中で黙って置いておくのが秘密って言うの」
と、言った。
「意味わかんないですよ…」
と言うか、自分の中どうこうって言う意味がわからない。
だけど、何で私に言いたくないのだろう?
――私は、武藤さんに信用されていないと言うことなのだろうか?
そんな訳ないよね。
赤の他人である私の自殺を止めて、家政婦として一緒に住んでいる。
私が作ったご飯は美味しいと言いながら食べてくれている。
警察に私たちの関係が夫婦だって勘違いされても、武藤さんは何も言わなかった。
悪魔が警察に捕まっても、私と一緒に住んでいる。
なのに…どうして武藤さんは話をしてくれないのだろう?
「果南ちゃん?」
武藤さんが私の名前を呼んだ。
「もう、話をしてくれたっていいじゃないですか」
私は武藤さんの方に身を乗り出した。
「きゃっ…!」
すぐに自分がいた場所を思い出した。
そうだ、私はソファーのうえにいたんだった!
思い出しても、時すでに遅し。
「えっ…わあっ!?」
私は武藤さんのうえに乗るように倒れ込んだ。
「イタタ…。
あっ、すみません!
武藤さん、大丈夫ですか!?」
慌てて武藤さんから離れようとした私だったけど、
「――ッ…」
何故だかよくわからないけど、私の背中に武藤さんの手があった。
えっ、何?
「――武藤、さん…?」
目が暗闇になれる。
私の目の前には、武藤さんの顔があった。
ち…近い、よ…。
私、今1番武藤さんの近くにいるんじゃないかしら…?
私は武藤さんの前から動くことができなかった。
武藤さんも、私の前から動こうとしない。
私の背中には、武藤さんの大きな手。
この手は、一体何なのですか?
どうして私の背中に添えられているのですか?
自分の背中に添えられた好きな人の手を、私はどうすることもできなかった。
こう言う場合って、振り払えばいいの?
振り払うって言っても、武藤さんの手だから…私にはできないよ。
悶々となっている私に、
「――果南」
武藤さんが、私の名前を呼んだ。
「――えっ…?」
私は驚いて聞き返した。
今、私のことを“果南”って呼ばなかった…?
それは私の名前だから、呼んでもおかしくない。
でもどうして私のことをそんな風に…。
武藤さんの顔が私の方へと近づいてくる。
えっ、何するの…?
「――ッ…」
私の唇が、武藤さんの唇と重なった。
えっ…?
これって…?
これって、キス…だよね?
どうして?
何で?
何で武藤さんが私にキスをしているの?
名前と言い、キスと言い…一体何があったんですか?
どうして私にキスをしているんですか?
突然の出来事に頭の中は混乱しているけど、躰は落ち着いていた。
――嫌じゃ、ない…。
好きな人からのキスを拒否できる訳なんてないと思った。
武藤さんがどうして私の名前を呼んでキスしたのかなんて言う理由はよくわからないけど、それらの行為を嫌だと思っていない自分がいた。
もっと武藤さんの唇を受け入れるように、私は目を閉じた。
温かいその唇は、私の唇をそっと包み込んでいる。
――私、うぬぼれちゃいますよ…?
勝手に勘違いをしちゃいますよ…?
秘密を話してくれないけど、武藤さんは私のことを信用しているんだって。
武藤さんが私を好きなのかどうかはわからないけど。
どうしてキスしたのかは理由はわからないけど。
私は武藤さんが好きだから、あなたからのキスを嫌だって思っていません。
長かったのか、それとも短かったのか。
武藤さんの唇が離れた。
私と武藤さんは、見つめあった。
彼を見つめている私の顔は、きっと赤くなっていることだろう。
暗闇だから、武藤さんには私の顔の色なんてわからないと思うけど。
武藤さんが私の背中を押した。
「――きゃっ…」
背中を押されたせいで、私は武藤さんのうえで横になる格好になってしまった。
えっ、今度は何?
そう聞こうと思ったけど、武藤さんの手は背中から肩へと移っていた。
肩へと移ったその手は、私をギュッと優しく抱きしめた。
まるで大切なものを守るようなその仕草に、私の心臓がドキッと鳴った。
名前と言い、キスと言い、抱きしめたと言い…訳がわからないよ。
武藤さんは、何を考えているの?
どうして私にこんなことをしたの?
聞こえた寝息に、武藤さんが眠ったのがわかった。
武藤さんは、気づいていない。
私が戸惑っていることにも。
私の心臓がドキドキと言っていることにも。
武藤さんは、全然気づいていない。
私の名前を呼んだこと。
私とキスをしたこと。
私を抱きしめたこと。
それらの行為は、私がますます武藤さんのことを好きになっているんだよ?
武藤さんにとっては何気ないことかも知れないけど、私の心臓をドキドキと鳴らさせているんだよ?
油絵の具の匂いが、私の鼻をくすぐった。
それがこの部屋の匂いなのか、それとも武藤さんからの匂いなのか。
どちらの匂いなのかわからないけど、それすらも私の心臓をドキドキとますます加速させた。
その匂いと心臓の音に誘われるように、私は目を閉じた。
目を開けると、私は武藤さんの腕の中にいた。
何で私、武藤さんの腕の中にいるんだろう…と思ったのは一瞬だった。
武藤さんに名前を呼ばれて、武藤さんにキスされて、武藤さんに抱きしめられて…。
それらは全て好きな人にされたんだと思うと、思い出したかのように私の心臓がドキドキと鳴り出した。
「――んっ…」
その声に、私は武藤さんの顔に視線を向けた。
武藤さんも目を覚ましたようだった。
「――ああ、おはよう」
寝起きのせいでさらにしゃがれている声で武藤さんが言った。
「――おはようございます…」
私は武藤さんにあいさつを返した。
いつもと同じことに、少しガッカリしてしまっている自分がいた。
武藤さんは私の肩に置いていた自分の手を離した。
あっ、離れちゃった…。
仕方ないか…。
でも一晩だけだったけど、武藤さんに抱きしめられて嬉しかった。
武藤さんは躰を起こした。
「よく眠ったなー」
武藤さんはうーんと両手をあげて伸びをした。
さっきまであの腕に抱きしめられて、あの腕の中にいたんだな。
腕を動かしている武藤さんの姿を見ていたら、私の顔が赤くなっていることに気づいた。
…そりゃ、驚いたわよ。
名前を呼ばれて、キスされて…それだけならまだしも、抱きしめられて…。
「果南ちゃん?」
武藤さんに名前を呼ばれて、私はハッとしたように躰を起こした。
あっ、元の呼び方に戻ってる…。
昨日はちゃんづけじゃなかったのに…。
「果南ちゃん、具合悪いの?
顔が赤いよ?」
武藤さんは不思議そうに首を傾げると、私の顔に向かって手を伸ばしてきた。
「あっ、いえっ…そのっ…」
私は武藤さんの手から逃げるように、顔をそむけた。
「果南ちゃん、どうしたの?」
変な風に思われちゃった…。
でもあんなことをされた後で、いつも通りに振るまえって言う方が間違っていると思った。
名前を呼ばれて、キスされて、抱きしめられて…。
それらのことを武藤さんにされた私は、ますます好きになって、心臓もドキドキと鳴っててうるさくて…。
「す、すみません…!
散歩に行ってきます!」
「えっ、今から!?」
武藤さんの声を無視するように私はその場から逃げ出した。
散歩と言う言い訳は、我ながら古典的過ぎると思った。
「――武藤さん、私のことを変に思ったよね…?」
赤くなった顔を隠すように、私は両手でおおった。
でもあんなことをされたって言うのに…私は、どうすればいいって言うの?
「初めてだから、どうすればいいのかわからないよ…」
恋をすること、恋に落ちたこと――それらは全て、私が一生踏み込むべき場所ではないと思っていた。
ううん、そこに踏み込んじゃいけないと私は思っていた。
だから…武藤さんに恋をしたことで、戸惑っている。
名前の呼び方も、キスの仕方も、抱きしめられた時の動作も、どうすればいいのかわからない。
それらをされてしまった後で、どう相手に対応すればいいのかわからない。
武藤さんに名前を呼ばれた時、驚いた。
武藤さんにキスをされた時、戸惑った。
武藤さんに抱きしめられた時…恥ずかしかった反面、嬉しかった。
心臓がドキドキと鳴っていること、顔が赤くなっていること…それら全てが武藤さんに気づかれるんじゃないかと不安になったけど、好きな人にそれらのことをされたことが嬉しかった。
朝の冷たい空気が、赤く熱くなった顔を冷やしてくれた。
同時に、熱くなった頭も冷たい空気によって冷やされて行くのがわかった。
「戻ろう…」
私は息を吐くと、今きたばかりの道を戻った。
武藤さんは、いつものように振るまった。
私も落ち着いて、いつものように振るまえば…。
そう自分に言い聞かせながら家についたら、
「俺はもう戻らないって言ってるんだ」
武藤さんの声が聞こえた。
えっ、何?
武藤さんの前に、誰かがいることに気づいた。
「あっ」
その人物に、私は思わず声を出してしまった。
慌てて手で口をおおった。
…よかった、武藤さんには気づかれていない。
ホッと胸をなで下ろしたのと同時に、私はもう1度武藤さんの前にいる人物に視線を向けた。
「どうして?」
その人物――昨日私に“ムトウ”のことを聞いてきた、外国人の彼女だった。
彼女が言っていた“ムトウ”は、やっぱり武藤さんのことだったんだ。
でも、何で武藤さんはあの人と話をしているの?
何より、あの人とどう言う関係なの?
「クロエ」
武藤さんが言った。
クロエと言う名前は、彼の目の前にいる外国人の彼女の名前だろう。
「――お前も知っている通り、俺は病気だ」
「――えっ…?」
そう言った武藤さんに、私は訳がわからなかった。
――武藤さんが、病気…?
病気って、何の…?
「薬と手術の副作用で俺は思うように声が出なくなったうえに、ドラムもたたけなくなった。
今は薬で症状を押さえているけど、またいつ再発するかは俺にもわからない」
薬とか手術とか副作用とか再発とか――それらの言葉が、一体何が何なのかわからなかった。
武藤さんが病気って、どう言うことなの?
薬で症状を押さえているって、今でも薬を飲んでいるってこと?
いつ飲んでいるの?
何度思い返しても、武藤さんが薬を飲んでいるところを見たことがなかった。
「クロエやファンが、俺の復活を待っていることは理解している。
だけど、俺はもう2度とその世界へ戻らないことを決めたんだ」
武藤さんの言葉に、
「――弱虫ッ…!」
クロエさんが悔しそうに叫んだ。
「ああ、俺は弱虫さ。
いつ再発するかわからない不安に常に怯えている弱虫さ」
武藤さんは呟くようにクロエさんに言った後、自嘲気味に微笑んだ。
「その不安に怯えながらも、絵を描くことによって生きることを切望している俺は、どうしようもない弱虫だよ」
武藤さんの言葉に涙を流したのは、私だった。
そう、か…。
そう、だったんだ…。
だから、自殺をしようとした私を止めたんだ…。
死にたいと口にした私に、武藤さんは涙を流して、私に生きることを切望した。
それらのことは、武藤さんが生きることを切望していたからだった。
病気と闘って、副作用に苦しんで、再発の恐怖に怯えながらも、武藤さんは生きることを切望していた。
私に死んで欲しくないと泣いたのも、私に生きることを切望したのも…自分がそうだったから。
だから、私に生きることを強く言ったんだ…。
クロエさんは武藤さんのことを弱虫だと言った。
武藤さんは弱虫だと自分のことを笑った。
だけど…私から見たら、武藤さんは違うんだよ。
武藤さんは、弱虫じゃないんだよ。
自分が死の恐怖に怯えているから、武藤さんは私に生きることを強く言えた。
いつ起こるかわからない再発に苦しみながらも、武藤さんは私のために涙を流してくれた。
武藤さんは…強い人なんだよ。
病気と闘って、副作用に苦しんで、再発の恐怖に怯えながらも、武藤さんは生きてる。
生きて、絵を描いている。
――とりあえずはね、生きている間はいろんなことを見て、いろんな絵を描きたいの
――自分が好きなことは一生をかけてやって行きたいって、そう思ってる
いつか私に語っていた武藤さんの言葉が、頭の中に浮かんだ。
――その不安に怯えながらも、絵を描くことによって生きることを切望している俺は、どうしようもない弱虫だよ
武藤さんは弱虫じゃないんだよ。
武藤さんは強い人なんだよ。
生きるために絵を描いている、強い人なんだよ。
「――果南ちゃん!?」
武藤さんが私の名前を呼んだと言うことは、私の存在に気づいたんだと思った。
クロエさんは私の顔を見て驚いた顔をした後、慌てて手で口をおおった。
今の自分たちの会話を、まさか私が聞いていたとは思いもしなかっただろう。
武藤さんはあきらかに動揺していた。
それは私が泣いていることなのか、会話を聞かれてしまったことなのかは、よくわからないけど。
クロエさんは私に頭を下げると、
「あっ、おい!」
その場から逃げ出した。
クロエさんの後ろ姿が見えなくなると、
「――果南ちゃん、もしかして全部聞いていた?」
武藤さんが私に質問した。
私は口で答える代わりに、首を縦に振ってうなずいて答えた。
武藤さんは悲しそうに眉を下げると、
「――果南ちゃんには、聞いて欲しくなかったな…」
と、呟くように言った。
「――えっ?」
そう呟いた武藤さんに、私は驚いて視線を向けた。
「どうして、ですか…?」
どうして、私は聞いちゃダメなの?
そう聞こうと口を開いた私に、
「果南ちゃんには、知らないままでいて欲しかった…」
武藤さんが言った。
知らないままでいて欲しかったって…どうして?
「どうして、なんですか…?」
そう聞いた私に、武藤さんは私の頬に向かって手を伸ばした。
その手は、まだ頬に残っている涙を丁寧にぬぐった。
「――私…」
出そうになった言葉を飲み込んだ。
「どうしたの?」
首を傾げた武藤さんに、
「いえ…」
私は首を横に振った。
――私は、武藤さんに信用されていないんですか?
こんなことを言ったら、武藤さんは迷惑に思うかも知れない。
どうして、私に聞かれたくなかったの?
どうして、私に知られたくなかったの?
私、武藤さんが考えていることがわからないよ…。
武藤さんが好きだからどんな小さなことでも知りたいのに、武藤さんは隠そうとする。
私に弱虫だって言われるのが嫌だから?
違うよ、私は武藤さんのことを強い人だって思ってる。
自殺をしようとした私を、武藤さんは止めてくれた。
死にたいと口にした私に、武藤さんは涙を流しながら生きることを切望した。
――どうせ終わりにする命なら、その命を俺にくれないか?
初めて会った時は、どうしてそんなことを言ったのかわからなかった。
だけど、今は違う。
私は武藤さんと一緒に生きたいって思ってる。
武藤さんと一緒に生きたいから、あなたに信用されたいって思ってる。
武藤さんと一緒に生きたいから、あなたのことを知りたいって思ってる。
そう思ったのは、私が武藤さんに恋をしたから。
武藤さんが好きだから、武藤さんのことを知りたいって思うのは…あなたにとって、迷惑なんですか?
そう思っている私は、わがままですか?
私はあなたが好きだから、あなたのことを知りたいんです――。
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