果実と砂時計と、髑髏

今まで生きてきた人生の中で、恋をしたことがなかった。


恋に落ちること、恋をすること――私にとって、それは未知の世界だった。


でも…今初めて、私はその未知の世界を知った。


「――果南ちゃん…」


赤の他人である私のために涙を流す人。


赤の他人である私に、生きることを強く切望する人。


しゃがれた声と油絵の具の匂いが特徴的な男の人――武藤さんに、私は恋をした。


彼のしゃがれた声が好き。


彼の躰から漂う、油絵の具の匂いが好き。


他人のために涙を流して、私に生きることを切望してくれた彼が好き。


1人の男として武藤さんに、初めての恋をした。



それから数日後。


私は武藤さんに支えられながら、警察署へと向かった。


「果南ちゃん、もう少しだからね?」


傷だらけの私の躰に気を使ってくれているうえに、私に歩調をあわせながら一緒に歩く武藤さんに、

「はい」


私は返事をした。


武藤さんと一緒に警察署へつくと、黒い革張りのソファーに座らされた。


私たちの向かい側のソファーに座ったのは、制服姿の女性とスーツを着た中年男だった。


新人の婦人警官とベテランの刑事と言うところだろうか?


そんなことを思っていたら、

「どう言ったご用件で、こちらへ?」


女性の方に話しかけられた。


私から聞いたことを話そうと口を開いた武藤さんをさえぎるように、

「――私…」


私は口を開いた。


「2年前から、会社の先輩にストーカーされているんです」


話を切り出した私に、武藤さんは視線を向けた。


「その方は…?」


女性が武藤さんの方に視線を向けた。


「武藤と申します。


えーっと、主人です」


武藤さんが自己紹介をした。


えっ、主人?


私の聞き間違いじゃなければ、武藤さんはそう言ったはずだ。


「ああ、ご主人様でしたか。


失礼しました」


女性は慌てたように武藤さんに謝った。


「えっ、あの…」


違うんですと否定をしようとした私に、

「果南ちゃんが家政婦として働いている家の主人、って言う意味で言ったの」


武藤さんが耳元でささやいた。


「あっ、そうですか…」


何だ、そう言う意味だったのね。


私は納得したと言うように、首を縦に振ってうなずいた。


「あの、お宅の奥さんがストーカー被害を受けていると言う話なんですが…」


中年男が私に声をかけてきた。


武藤さんの言っている意味がこの人たちに全然伝わっていないのですが…。


だけど説明するのもややこしいだろうなと思いながら、私は口を開いた。


私の話を聞き終えると、

「どうしてすぐに相談してくれなかったんですか!?」


中年男の責めるような口調に、私は目を伏せた。


「――すみません…」


呟くような声で謝った私に、

「本人は警察に相談したら事態が悪化すると思って、言わなかったそうなんです。


私も、数日前に彼女から話を聞いたばかりで」


武藤さんが私をかばってくれた。


「そうだったんですか…」


中年男は呟くように言った。


「それで、あなたにストーカーをしていると言う会社の先輩の男性はどちらにいらっしゃるかわかりますか?」


女性が私に質問をしてきた。


私は首を横に振ると、

「わかりません。


でも、その人はこの町にいると思います。


この町にいて、私が住んでいるところを探し回っているんじゃないかと思います」


女性の質問に答えた。


女性はサラサラと、紙のうえでボールペンを動かした。


中年男は首を縦に振ってうなずくと、

「わかりました。


当分は、この町の見回りを強化いたしましょう。


特にあなたの家の周りを集中的に。


もしかしたら、彼はまたあなたの前に現れるかも知れない」

と、言った。


その瞬間、私は武藤さんの言う通り、警察へ相談しに行ってよかったと思った。


警察は相手にしてくれないと言う私の考えが払拭された。


「また何かあったら、今度はちゃんと警察へ相談しにきてくださいね」


そう言った女性に、

「ありがとうございました」


私と武藤さんは頭を下げた。



警察署から武藤さんの自宅へ向かう間、行きと同じように武藤さんは私の躰に気を使いながら、歩調をあわせてくれた。


「相談してよかったでしょ?」


武藤さんが私に話しかけた。


「はい、よかったです」


私は首を縦に振ると、返事を返した。


「警察はちゃんと味方をしてくれるんだよ」


「はい」


でも1つだけ、

「私と武藤さんが夫婦、ってことになっちゃっているんですけど」


武藤さんの言い方のせいで、警察には変な誤解を与えてしまった。


「あー…でも、いいんじゃないかな?」


そう言った武藤さんに、

「えっ、どうしてですか?」


私は聞き返した。


「俺と果南ちゃんが夫婦だって警察に思わせておけば、いろいろと役に立つことがあるかも知れない。


理由は違うけど、一緒に住んでいることは事実な訳なんだから。


もちろん、ストーカーの話が終わったら警察にちゃんと事情を説明するけども」


武藤さんの話に、

「あ、そうですよね…」


私は首を縦に振ってうなずいた。


終わったらだけど、やっぱり事情をちゃんと説明するんだよね。


警察の前で武藤さんと私がいつまでも夫婦のフリをしている訳ないもの。


でも…ね?


私は、このまま武藤さんと夫婦になりたいって思ってる。


もちろん、家政婦として武藤さんのそばにいれるって言うことは嬉しい。


でももう少し言うなら、

「果南ちゃん」


武藤さんが私の名前を呼んだ。


あなたのことをもっと知って、あなたと夫婦になりたい…って思ってる。


「はい」


返事をした私に武藤さんは笑うと、

「スーパーで何かを買ってこようか?」

と、言った。


「えっ…ああ、いいですよ」


返事をした私に武藤さんは嬉しそうに笑うと、

「じゃあ、行こうか」


「はい」


私たちは家からスーパーマーケットへと足を向かわせた。


武藤さん、何か買いたいものがあるのかな?


私が傷だらけになって動けない数日間は、武藤さんに買い物を任せていた。


スーパーマーケットに入ると、

「あの武藤さん、カゴは…?」


武藤さんは入口の前に置いてあるカゴを手にとることなく、その足で野菜と果物の売り場へ向かった。


私は彼の後を追った。


「えーっと」


武藤さんはたくさんある果物の中からバラ売りされているりんごのとろこへ歩み寄った。


りんごの山からりんごを1個とると、

「はい」


それを私に差し出してきた。


「えっ…」


私は差し出されたそれをどうすればいいのかわからなかった。


戸惑っている私に、武藤さんはりんごを手の中に押しつけた。


それから笑うと、

「警察へ行ったご褒美」

と、言った。


「えっ、ご褒美ですか?」


私は聞き返した。


と言うか、警察へ行ったことは行ったけど、それのご褒美にりんごを私に押しつけた意味がわからなかった。


「俺からのプレゼント」


武藤さんは続けて言った後、またりんごの山からりんごを1個手にとった。


「それは?」


武藤さんの手の中にあるりんごを指差して聞いた私に、

「俺が食べたいだけ」


武藤さんが笑いながら言った。


それは自分が食べたいだけなのか…と思った私に、

「さっ、早くレジへ持って行こう。


新鮮なうちに食べないと、美味しくなくなっちゃうよ」


武藤さんは私の手をひくと、一緒にレジへ向かった。


やっぱり、武藤さんは変わっていると思った。


警察へ行ったご褒美とか、俺からのプレゼントだって言って、私の手にりんごを押しつけたり。


かと思ったら、自分が食べたいからと言う理由でりんごを1個手にとったり。


でもそんな変わったところすらも、私は好きだと思ってしまう。


恋に落ちると、その人の全てを好きになってしまうんだと思った。


彼のしゃがれた声も、油絵の具の匂いも、変わったところも、私は全部好きだと感じてしまった。


武藤さんと一緒にスーパーマーケットを後にした私が次に向かったところは、海だった。


「海、青いね」


武藤さんが言った。


そりゃ、青いに決まってるじゃない。


海がピンクや黄色だったら、気持ち悪いと思うけど。


「果南ちゃん、大丈夫?」


そう言って武藤さんは、私に自分の手を差し出した。


「えっと…」


この手を、私にどうしろと言うのでしょうか?


好きな人の手が目の前にあると言うシチュエーションに、私はどうしていいのかわからない。


武藤さんは私の躰を心配しているから、手を差し出しているに決まってるじゃない。


そう思っているのに…心臓はドキドキと、落ち着かないと言うように音を立てている。


武藤さんは私の躰を心配しているだけだから…と、ドキドキと鳴っている心臓に言い聞かせる。


「果南ちゃん?」


私が自分の手をとらないことを不思議に思った武藤さんに名前を呼ばれた。


「…はい」


私は首を縦に振ってうなずくと、彼の手に自分の手を重ねた。


指先が触れただけなのに、私の心臓がさらにドキドキとうるさく鳴った。


武藤さんの大きな手が、私の手を包み込んだ。


「小さいね、果南ちゃんの手。


本当に女の子なんだね」


そう言った武藤さんに、

「…そう、ですか」


私は自分の頬が熱くなって行くのを感じながら、呟くように返事をした。


白い砂浜のうえに、私と武藤さんの足跡がつく。


そのうえを波がおおいかぶさって、私と武藤さんの足跡を消した。


規則正しい波の音が聞こえる中を、私と武藤さんは歩いた。


波の音よりも、私の心臓の音が武藤さんに聞こえているんじゃないかと不安になる。


私の手から、武藤さんの手に心臓のドキドキと鳴っている音が伝わっているんじゃないかと不安になる。


何より、私の気持ちが武藤さんへ伝わっているんじゃないかと不安になる。


私が武藤さんを好きと言うこの気持ち。


彼に伝わって欲しいと思っている反面、伝わったら怖いと思っている私がいる。


「――あそこで少し休もうか?」


そう言った武藤さんが指を差した先には、どこからか流れてきた大きな流木があった。


「そうですね」


私が返事をしたことを確認すると、一緒に流木の方へ向かった。


流木のうえに腰を下ろすと、

「いい天気だね」


武藤さんが言った。


「そうですね」


私は返した。


武藤さんはジャケットのポケットに手を入れると、

「はい、さっきのりんご」


先ほどスーパーマーケットで買ってきたりんごを私に差し出した。


「ありがとうございます」


私は武藤さんの手からりんごを受け取った。


真っ赤になっているそれをかじったら、きっと美味しいと思う。


だけど私はすぐにかじることはしないで、自分の手の中でりんごを弄んだ。


武藤さんが私にりんごをくれたんだ――そう思うと、りんごをかじることができなかった。


私…さっきから武藤さんと会話ができていないような気がする。


そうですねの一言しか、武藤さんに返していないような気がする。


武藤さんともっと会話がしたい。


武藤さんのことをもっと知りたい。


そう思うことは簡単なのに、それを実行に移すことができないのは何でだろう?


りんごを弄んでいた手を止めると、武藤さんに視線を向けた。


武藤さんはりんごをかかげるように上にあげて、それを観察するように見つめていた。


「――武藤さん?」


何をしているんだろうと思い、私は武藤さんの名前を呼んだ。


「――えっ、あっ…ああ、どうしたの?」


名前を呼ばれた武藤さんはりんごを持っている手を下ろした。


「何していたんですか?」


そう質問した私に、武藤さんははにかんだように笑った。


あっ、今の笑った顔好きだ。


「ごめん、次に描く絵の構想をしてた」


武藤さんは笑いながら言った。


「次に描く…って、もう次の絵を考えているんですか?


今描いている絵はまだ下書きの途中ですよね?」


私は驚いて聞き返した。


一緒に暮らしてわかったことだけど、武藤さんは絵を描くスピードが早い。


鉛筆での下書きが1~2日、色塗りが4~5日と言うペースで1枚の絵を必ず描きあげる。


武藤さん以外の画家を見たことがないからわからないけど、彼のようなスピードで絵を描く人はそんなにいないんじゃないかと思う。


「もちろん、今描いてる絵は完成させるよ。


でも早く次の絵が描きたくて描きたくて仕方がないんだ」


武藤さんは笑いながら言った後、シャクッとりんごを1口かじった。


「すごい創作意欲ですね」


呟くように言った私に、

「生きている間はいろいろな絵を描きたいって思ってるんだ。


ヴァニタス限定で、だけど」


武藤さんは返した。


「それで…今はどんな構想を思い浮かべていたんですか?」


私は武藤さんに質問した。


「今?


場所は海で、そこに果実と砂時計と髑髏が置いてある…って言う構想を思い浮かべていたんだ」


武藤さんは得意そうに絵の構想を話した後、またりんごをかじった。


あっ、私今武藤さんと会話してる。


こんなにも小さなことだけど、私にとってはとても大きなことだ。


「果実と砂時計と、髑髏…ですか?」


武藤さんとの会話を続けたくて、私は彼に話の続きをうながした。


武藤さんは指を差すと、

「あの辺りに砂時計、あの辺りに…そうだな、果実はりんごがいいかも。


あの辺りにりんごがあって、波打ち際に髑髏があるって言う構想を思い浮かべてた」


1つ1つを丁寧に指差しながら話をする武藤さんは、とても楽しそうだ。


「その絵が完成するの、私楽しみに待っていますね」


そう言った私に、

「いや…んー、たぶん完成するのは3週間後くらいになると思う」


武藤さんが言った。


「えっ?」


私は訳がわからなくて聞き返した。


絵が完成するのが3週間後って、どう言うこと?


次に描く絵は3週間と言う時間をかけて完成させる超大作の絵になると言うのだろうか?


「その…ね?


さっき俺が言った絵の構想は、今描いている絵の次の次に描こうと思っている絵なんだ」


言いにくそうに言った武藤さんに、

「2つ先の絵の構想を考えていたんですか!?」


私は驚いて大きな声で聞き返した。


驚きのあまり、危うく私の手からりんごが落ちそうになったが何とかこらえた。


すごいを通り越して…もう、何なんだろう?


「私、脱帽しそうです…」


呟くように言った私に、

「いや、これでもスピードは遅い方だよ?」


武藤さんが笑いながら言った。


どこを基準にして、はっきりと“遅い”と言えるのだろうか?


と言うよりも、武藤さんは一体どこまで変わっているのだろう?


武藤さんはりんごをかじると、

「とりあえずはね、生きている間はいろんなことを見て、いろんな絵を描きたいの」

と、言った。


「子供の時から絵を描くことが大好きだったんだ。


俺が画家になったのは、大好きの延長線上だと思う。


自分が好きなことは一生をかけてやって行きたいって、そう思ってる。


だから…」


武藤さんは自分がかじったりんごを見つめると、

「生きている間はいろいろな絵を描きたいんだ」

と、言った。


それからハッとしたように我に返ると、

「ハハッ、俺は一体何を語っているんだろうね。


新年の抱負じゃあるまいし」

と、笑いながら言った。


私は手の中のりんごを見つめると、シャクッと1口かじった。


「素敵ですね」


そう言った私に、

「えっ?」


武藤さんは驚いたと言うように視線を向けた。


「その創作意欲は素敵だと思います」


飽きることなく次々と描く絵を考えて、それを形にすると言う創作意欲をかっこいいと思った。


「人生を謳歌しているって言うか、生き生きと輝いていると言うか…とにかく素敵で、かっこいいと思いました」


何より、彼は私にできないこと――人生を楽しむこと――をしているからだ。


それを隠して武藤さんのことを素敵だとかかっこいいと言ったのに、

「果南ちゃんにも、人生を謳歌できる日がくるよ」


武藤さんは笑うと、私の頭に手を伸ばして頭をなでた。


どうして、武藤さんには隠し事ができないのだろう?


どうして、武藤さんには私の気持ちがわかってしまうのだろう?


「今はつらい時期かも知れない。


だけど…そのつらい時期を乗り越えたら、心の底から笑顔になれる日がくる。


だから今は逃げないで、一緒に乗り越えよう」


「――一緒に、ですか?」


聞き返した私に、

「果南ちゃんが乗り越えることに協力をする、って言う意味」


武藤さんは笑った。


私は手の中にあるかじったりんごを握りしめると、

「はい」


首を縦に振ってうなずいた。


――生きててよかった、って心の底から思った。


武藤さんに会えて、彼に恋をして、一緒に乗り越えることを約束してくれた。


1人だったら、私は死んでいた。


もし死んでいたら、武藤さんに会えることなんてなかった。


武藤さんに会って、恋をすることも、一緒に乗り越える約束を交わすこともなかった。


「いい子だよ、果南ちゃん」


返事をした私を武藤さんは嬉しそうに笑うと、またりんごをかじった。


私も彼のマネをするように、りんごをかじった。



一緒にりんごを食べて、日が暮れるまで海を見た後、私と武藤さんは家路についた。


「あっ、こんにちわ」


家についた私と武藤さんを迎えたのは、制服姿のおまわりさんだった。


「こんにちわ」


「…あっ、こんにちわ」


おまわりさんの姿を見た武藤さんと私はあいさつをした。


おまわりさんが私たちに何の用事なんだろう?


そう思っていたら、

「先ほど…と言うよりも、15時くらいですかね。


この周辺をウロウロしていた怪しい男を捕まえまして」


おまわりさんが話を始めた。


「えっ…」


男と聞いたとたん、私の頭の中に浮かんだのは悪魔だった。


「果南ちゃん」


私の様子に気づいた武藤さんが名前を呼んだ。


「あっ…大丈夫です…」


口ではそう言ってみたけど、本当は大丈夫なんかじゃなかった。


心がザワザワと、悲鳴をあげている。


「あの、大丈夫でしょうか?」


心配そうに聞いてきたおまわりさんに、

「すみません、数日前から妻は体調を崩しておりまして」


武藤さんは説明をした。


妻――ああ、そうだ。


警察の前では、私と武藤さんは夫婦と言うことになっているんだ。


武藤さんが私のことを妻と呼んでも、夫婦だからおかしなところはない。


「果南ちゃん、代わりに俺が事情を聞くから中に入って…」


そう言った武藤さんを、

「大丈夫です…。


ご心配をおかけして、すみませんでした」


さえぎるように言った後、私はおまわりさんに謝った。


「そうですか…」


おまわりさんは言いにくそうに返事をした後、

「その男なんですけど、何でもこの家に住んでいる女性と知り合いだったと言うことで」


話を再開させた。


やっぱり、悪魔だ…。


悪魔が私の住んでいるところへきたんだ…。


震え出した私の躰を、

「果南ちゃん」


武藤さんが私の名前を呼んで、私を抱きしめた。


「あの、奥様の体調が優れないようですが…」


心配そうに言ったおまわりさんを、

「彼女と知り合いと言うのは誤解です」


武藤さんがさえぎるように言った。


「妻はその男から理不尽なストーカー被害を受けていました。


今朝警察へそのことを説明したので、彼らに事情を聞けば教えてくれると思います」


そう説明をした武藤さんに、

「えっ、ストーカーだったんですか?」


おまわりさんが驚いたと言うように聞き返した。


そのように聞き返したと言うことは、話がまだ彼に伝わっていなかったと言うことだろう。


「ストーカーだったんです。


名前は南部…だったと思います」


「南部…ああ、そのような名前でした!」


おまわりさんが思い出したと言うように言った。


「これは本当に、失礼いたしました!


まさか、捕まえた男が奥様のストーカーだったなんて…!」


おまわりさんは慌てたように私たちに頭を下げた。


「話が伝わっていなかったのは、仕方ないことです。


頭をあげてください」


そう言った武藤さんにおまわりさんは頭を下げた。


「ご報告をありがとうございました」


武藤さんがおまわりさんに言った。


「いえ、とんでもないです。


また何かありましたら110番に」


おまわりさんはペコリと頭を下げると、私たちの前から立ち去った。


おまわりさんの後ろ姿が見えなくなったことを確認すると、

「中、入ろうか?」


そう言った武藤さんに、私は首を縦に振ってうなずいた。


ソファーに座った私に、

「はい、コーヒーでよかったかな?」


武藤さんがマグカップに入ったコーヒーを差し出した。


「ありがとうございます」


私がそれを受け取ったことを確認すると、武藤さんは床のうえに腰を下ろした。


「あの…」


「んっ?」


「ソファーに、座らないんですか?」


自分の隣を指差して言った私に、

「俺はここでいい」


武藤さんはそう言って首を横に振った。


「すぐに捕まってよかったね」


武藤さんが言った。


「はい、よかったです」


私は首を縦に振ってうなずいた後、コーヒーを口に含んだ。


「これで果南ちゃんも自由だね」


そう言った武藤さんに、私は自分の胸が締めつけられたような気がした。


私が自由になったと言うことは、武藤さんから離れることなんだ。


悪魔が捕まったから、私はもう逃げなくてもいい。


悪魔が捕まったから、私はもう死ななくてもいい。


だけどそれは…私と武藤さんとの間にあった繋がりがなくなってしまうと言う意味でもある。


武藤さんと一緒に暮らすことはできない。


武藤さんから離れないといけない。


マグカップの中のコーヒーがにじんだように見えて、私は手の中のマグカップをギュッと握った。


好きな人――武藤さんから、離れたくないよ…。


私が死ぬことを止めてくれた人。


私のために泣いてくれた人。


私に生きることを切望してくれた人。


私の好きな人。


そんな人のそばを、私は離れたくないよ…。


「桜」


「えっ?」


武藤さんが指差した方向に視線を向けると、テラスにある桜の大木だった。


「来年、一緒に桜を見る約束していたでしょ?」


「あっ…」


――果南ちゃんがまだ生きていたら、一緒にお花見をしようか?


最初に武藤さんと出会った時に交わした約束を思い出した。


そうだ…。


私には、武藤さんとお花見をするって言う約束があったんだ…。


彼との繋がりがまだ消えていなかったことに、私は嬉しくて泣きそうになった。


「来年…だけじゃないな。


再来年も、10年先も果南ちゃんと一緒にお花見がしたい」


武藤さんが愛しそうに桜を見つめる。


勘違いをしてもいいですか?


私と一緒にいたい。


私と暮らしたい。


そう言ったんだと、勘違いをしてもいいですか?


武藤さんが私の気持ちに気づいてるかどうかなんてわからない。


だけど…そんなことを言われたら、勘違いをしないって言う方が間違ってる。


私はまだ武藤さんと暮らしてもいい。


私はまだ武藤さんのそばにいてもいい。


そう思ってもいいって言うなら…私、勘違いをしますよ?


武藤さんと暮らしていい。


武藤さんのそばにいていい。


そんなことを言ったつもりはないかも知れないけど、勘違いしますからね?


「果南ちゃん?」


私の名前を呼んだ武藤さんに、

「はい…そうですね」


嬉しい涙をこらえながら、私は返事をした。


「桜が楽しみです」


そう言った私に、

「俺も楽しみだよ」


武藤さんが嬉しそうに笑った。


本当は武藤さんとお花見ができることが楽しみ、なんだけど。


「果南ちゃん」


私の名前を呼ぶしゃがれた声が好き。


「楽しみだね」


笑うと細くなる目と、クシャッとなる目尻のしわも好き。


「私も楽しみです」


「果南ちゃんと同じことを思っているんだと思うと嬉しいよ」


彼から漂う油絵の具の匂いも好き。


絵に一生懸命なところも。


少し涙もろいところも。


それをひっくるめて、武藤さんが全部好き。


「果南ちゃん、そろそろご飯にしようか?


数日ぶりに果南ちゃんの料理が食べたい」


武藤さんが言った。


私が傷だらけのこの数日間のご飯は武藤さんが作っていたのだ。


ご飯を作る時本人はとても食べれたもんじゃないって、笑いながら私に前置きをしていた。


確かにできた時の見た目はあれだったけど、食べた時の感想は違った。


美味しかった。


「私は武藤さんが作ったご飯の方が美味しいですよ?」


そう言った私に、

「果南ちゃんの手料理に勝るものはない」


武藤さんが言った。


「何ですか、それ」


困ったフリをしながら言った私に、

「俺が思ったことを正直に言っただけ」


武藤さんも得意気に笑った。


やっぱり武藤さんは変わってるけど、好きな人に褒められたことはとても嬉しい。


私はもっと武藤さんに、恋をしてしまうから。

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