悪魔は必ずやってくる

時計もなければカレンダーもないから、自分がここで暮らし始めて何日経ったのかわからない。


短いような気もするし、長いような気もする。


そのことを武藤さんに話したら、

「いいんじゃない。


これが人間本来の生活って感じで」


彼は笑いながら炒飯を頬張った。


「時計があると、つい急いじゃうでしょ?


何時までにあれをやらなきゃ、これをやらなきゃって」


「…そんなものですか?」


そう聞いた私に、

「果南ちゃんだって、ここへくる前は忙しくしてたんでしょ?」


聞き返した武藤さんに、私は首を縦に振ってうなずいた。


「そう言えば、ここへくる前は仕事何してたの?」


武藤さんが思い出したと言うように聞いた。


「えっ、今それ聞くことですか?」


それって、初めて会った日に聞く質問だよね?


「今聞きたいって思ったんだもん。


仕方ないじゃん。


好奇心と言う名の罪にバツを与える必要はなし」


「何なんですか、それ…」


毒づくように言い返した。


やっぱり、武藤さんは変わり者だ。


と言うか、最後の好奇心どうとかのセリフっている?


よくわからないや。


私は炒飯を口に入れると、水で流し込んだ。


「知りたいんだから教えてよ」


「はいはい、わかりました」


あまりにもしつこい武藤さんに私は息を吐くと、

「半年ほどですけど、IT関係の仕事をしていました」


質問に答えた。


「えっ、IT?


果南ちゃんって、頭いいんだね」


世の中の全てが「IT=頭がいい」とは限らない。


「就活で唯一内定をもらったところがIT関係の会社だったんです」


私は勤めていた理由を答えた。


「へえ、そうだったんだ。


でも勤めてから半年で辞めちゃったってことは…やっぱり、よくある仕事がキツかったとかそんな理由なの?」


私がその質問にすぐ答えることができなかったのは、歯にご飯が挟まっていたからだと思って欲しかった。


「まあ、そうですね…」


呟くように答えた後、私はかきこむように炒飯を口に入れた。


そんな私の様子に気づいたのか、

「話したくなかったら無理をしない方がいい。


聞いて悪かった」


武藤さんは呟くような声で謝った後、炒飯を口に入れた。


静かになってしまったこの空間に流れている音は、波の音だけになった。



朝起きたらご飯を食べて、後片づけをして、掃除や洗濯などの身の回りのことをする。


それが終わったら、武藤さんが絵を描いている姿をソファーに座って見ているだけだった。


武藤さんは朝起きてご飯を食べた後はずっと絵を描いていると言う感じだ。


お腹が空いたと言えばご飯を作り、喉が渇いたと言えば水を出す。


外出は2日に1回、この町にある小さなスーパーマーケットへの買い物だけだった。


それ以外は家にひきこもって、武藤さんが絵を描いているところを見ているだけ。


最初は何にもすることがなくてヒマだなって思ってた。


本当にこの町は海と山に囲まれた小さな町で、これと言った観光名所は特にない。


喫茶店もないし、図書館もない。


何もないとは、まさにこう言うことを言うんだって思った。


でも最近になって、悪くないかも知れないと思った。


暮らし始めた当初は苦手だった油絵の具の匂いも、心地いい匂いに変わって行った。


波の音を聞きながら武藤さんが絵を描いている後ろ姿を見ているのも、またいい時間だ。


油絵の具の匂いと波の音に、ソファーに座っている私のまぶたが重くなって行くのがわかった。


武藤さんは絵に夢中になっていて、私が眠りそうなことに気づいていない。


何か用事があったら、私を起こすよね。


そんなことを思いながら、私は目を閉じた。


「――ッ、クッシュン!」


寒い空気に躰が感じて、自分のくしゃみに目を覚ました。


「あっ、真っ暗だ…」


辺りはすっかり日が暮れて、真っ暗闇に包まれていた。


月明かりすらもないところを見ると、今夜は新月なのかも知れない。


「あれ?


武藤さんは?」


私は武藤さんがここにいないことに気づいた。


と言うか、武藤さんがここにいたら灯りついてるよね?


私はソファーから腰をあげると、

「確か、この辺に電球のヒモが…」


暗闇で手を伸ばして、ヒモの在り処を探す。


「あった」


ヒモを引っ張ったら、カチリと音がした。


それまで暗かったリビングが一気に明るくなった。


「――きゃっ!」


明るくなったとたん、私は驚いた。


私がさっきまで座っていたソファーにもたれかかるようにして寝ていたのは、

「――武藤さん?」


武藤さんだった。


寝る時は武藤さんはソファーで、私は床のうえで毛布をふとん代わりにして寝ていた。


床のうえで寝ることを望んだのは私だった。


武藤さんは女が床で寝るのはよくないからとソファーで寝ることを勧めたけど、私はそれを断った。


私は武藤さんの家政婦として、この家に住んでいるのだ。


断り続ける私に武藤さんはあきらめたのか、ソファーのうえで横になったのだった。


これじゃあ、立場が逆だ。


立場的には武藤さんの方が上のはずなのに。


武藤さんを起こそうと思って顔を覗き込んだら、

「――んっ、んんっ…」


彼の目がゆっくり開いた。


「――あれ…?


果南ちゃん、だ…」


寝起きのせいでさらにしゃがれてしまっている声に、

「私以外の誰がいると思っているんですか?」


私は返した。


「あー、そうだね。


ここにいるのは、俺と果南ちゃんだけだったね」


呟くように言った後、武藤さんは背伸びをした。


「やっぱり、床のうえで眠るのはしんどかったでしょ?」


武藤さんが言った。


「えっ?」


聞き返した私に、

「果南ちゃん、気持ちよさそうに眠ってたから」


武藤さんは目を細めた。


クシャッと笑ったとたんに、目尻にしわができた。


「眠ってた、と言うか…つい、ウトウトしちゃって」


言い訳のように呟いている私に、

「やっぱり、ソファーで眠った方がいい。


女の子が床のうえで眠るのはよくない」


武藤さんは言った。


「でも私は、家政婦として武藤さんの家にいる訳で…」


「その主人の命令と言うのはダメかい?」


私の言い分をさえぎるように、武藤さんが言った。


「えっ?」


主人の命令って、

「い、犬か猫じゃあるまいし…」


「そんなつもりで言った訳じゃないんだけどな」


呟くように言い返した私に、武藤さんはクスクスと笑った。


それから、

「眠ったからお腹すいた」

と、武藤さんが言った。


「…はい」


私は首を縦に振ってうなずくと、キッチンへ向かった。


いつものようにご飯を作り始めた。


ご飯を食べ終え、後片づけを済ませて、お風呂に入った。


だいぶなれてきた、武藤さんの家政婦としての生活。


お風呂から出ると、

「あっ…」


毛布にくるまった武藤さんが床のうえで眠っていた。


「ちょっと、武藤さん」


あなたが眠るところは床じゃなくてソファーです。


肩を揺すって起こそうとしても、彼の目はしっかりと閉じられていた。


「もう…」


どうしても武藤さんは私をソファーの方に眠らせたいらしい。


私は息を吐くと、灯りを消した。


毛布にくるまって、ソファーのうえで横になった。


暗闇に包まれたリビングで聞こえるのは、外からの波の音。


明るい時間に眠ったせいで、なかなか眠りにつくことができない。


本来は武藤さんが眠る場所であるソファーのうえ。


それを私が使っているからと言う理由も、眠りにつくことができない理由の1つだと思う。


ソファーのうえで寝返りを打ってみた。


武藤さんの目は閉じられたままだ。


その目が開いて、やっぱりソファーの方がいいから代わって…って言ってくれないだろうか。


じっと、武藤さんの寝顔を見つめるけど、その目が開くことはなかった。


「――もう、やんなっちゃう」


眠っている武藤さんに聞こえないように呟くと、躰を起こした。


変わり者のうえに頑固者ですか。


心の中で武藤さんに毒づくと、テラスの方に足を向かわせた。


カラカラと、武藤さんを起こさないように、慎重に窓を開けた。


半分ほど窓を開けた後、私は腰を下ろした。


潮を含んだ心地いい夜風が、私の躰を包み込んだ。


「本当に真っ暗だな」


呟いた後、夜空を見あげた。


月はなかった。


私の予想通り、今日は新月だった。


その代わりと言うように、星がキラキラと輝いていた。


星が輝いていても、真っ暗なのは変わらない。


「あの辺り、だったかな…」


私はこの前飛び降りようとした崖がある辺りのところに視線を向けた。


真っ暗だから何も見えないけど、確かあの辺りだったはずだ。


ここで武藤さんは崖から飛び降りようとした私を見つけて、止めにやってきた。


「――私のことなんか、放って置いてもよかったのに…」


眠っている当人に聞こえないように、小さく呟いた。


武藤さんと私は、全くの赤の他人だ。


赤の他人である私の自殺を、何故止めにきたのだろう。


「本当に、何でなのかしら?」


そもそも、武藤さんはどうして私を止めようと思ったのだろう?


死のうとした私のことなんか放って置いてくれればよかったのに。


「どうして…?」


私は、武藤さんの方に視線を向けた。


寝息と波の音が聞こえただけだった。


「――……ちゃん。


――…南ちゃん。


――果南ちゃん」


しゃがれた声と肩を揺すられ、私は目を開けた。


開けたとたん、太陽のまぶしい光が寝起きの目を刺激した。


自分でも知らない間に眠ってしまったみたいだ。


「――あっ、武藤さん…」


私の肩を揺すっていた当人に視線を向けた。


「何してるの?


こんなところで眠ってたら風邪ひいちゃうでしょ?」


武藤さんはやれやれと言うように息を吐いた。


「何でソファーで眠らなかったの?」


呆れたと言うように聞いてきた武藤さんに、

「眠れなかったからです」


私は答えた。


武藤さんは訳がわからないと言うように首を傾げた。


「昨日寝過ぎちゃったみたいで、眠ることができなかったんです。


それで、ちょっと風に当ろうと思って…」


まるで言い訳だと、思った。


「そう」


武藤さんは言い訳に一言返事をした後、

「お腹空いた」

と、言った。


「はい」


私は首を縦に振ってうなずくと、キッチンの方へ足を向かわせた。


「あっ」


キッチンについたのと同時に、食材は昨日全部使ってしまったことを思い出した。


いけない、昨日は2日に1回の買い物へ行く日だった。


今思い出した私は相当の大バカだ。


「どうしたの?」


武藤さんがテラスの方から聞いてきた。


「すみません、昨日買い物へ行くのを忘れてました」


正直に伝えた。


「ああ、そう」


武藤さんは一言返事しただけだった。


「すみません、今買い物へ行ってきます」


私は武藤さんに謝った後、家を飛び出した。


「あーあ、もう」


スーパーマーケットへ向かいながら、私は嘆いた。


何で昨日昼寝なんかしちゃったんだろ?


武藤さんも武藤さんで何で教えてくれなかったのよ。


結局は買い物を忘れて昼寝をしてしまった私が悪いのだ。


急いでスーパーマーケットで何か買ってきて、何か作らなきゃ。


そう思った時、

「――果南?」


私を呼ぶその声に、私の足が止まった。


「――えっ…?」


ウソ、だよね?


私の聞き間違い、だよね?


そうであって欲しいと願いながら、声の方へと視線を向ける。


「探したよ、果南」


口は笑っているけど目は笑っていない、目の前の男。


ドクン…と、私の心臓が鳴る。


「――南部…さん…?」


悪魔、だ。


私を追いかける、悪魔。


逃げたくても、足を動かすことができない。


叫びたくても、声を出すことができない。


目の前にいる悪魔に、私は震えることしかできなかった。


「何で、ですか…?


どうして、あなたがここに…?」


そんなことを聞くのは、無駄だ。


この悪魔は、私がどこへ逃げても必ず居場所を突き止めて私の目の前に現れる。


そう、今のように。


「僕が納得すると、思ってるの?


理由もなく別れようなんて言われて、僕が納得すると思ってるの?


どうして別れようなんて言ったんだ?」


悪魔は私に1歩2歩と、近づいてきた。


私は悪魔から逃げるため、1歩2歩と後退りする。


「――私は…私は、別れるなんて言った覚えなんてありません…。


――そもそも私たちは、つきあってなんかいませんでした…」


震える声で反論しても、無駄なのはわかってる。


「どうしてそんなことを言うんだ?


僕たちは、あんなにも仲がよかったじゃないか。


なのに、君は別れを切り出した。


僕に向かって別れようと言った」


反論しても、悪魔は勝手な勘違いをする。


自分にとって都合のいい勘違いに、私は頭が痛くなるのを感じた。


これ以上反論しても、悪魔に伝わらない。


いや、悪魔に伝わった試しがない。


私は動けない足を無理やり動かして、悪魔の前から逃げようとした。


「待ってくれ!」


悪魔は私の腕をつかんできた。


「嫌ッ、離してッ!」


私は悪魔の腕を振り払おうとする。


「どうして僕から逃げようとするんだ!?


何で僕の話を聞いてくれないんだ!?」


悪魔の口調が強いものに変わって、私の躰の震えがより一層激しさを増した。


「話を聞いてくれたことなんてないじゃない!


そうやって話をしたら、すぐに暴力を振るうくせに!


すぐに暴力を振るう人なんかと話なんてしたくない!」


叫ぶように反論した私に、

「何だとー!?」


頬に衝撃が走った。


頬の衝撃に耐えることができずに地面に崩れ落ちた私に、蹴りが襲った。


躰中に与えられる衝撃と痛みに、私は身を守るために両手で頭を抱えて躰を丸めた。


それでも衝撃や痛みは私の躰を襲ってくる。


――いつもそうだ…。


悪魔は、私の話を聞いてくれない。


聞いてくれないからこうして暴力を振るって、私の躰に傷をつける。


逃げても逃げても追いかけてきて、居場所を突き止めて、私の前に現れる。


現れて、暴力。


生きているのが嫌だった。


嫌だから、死のうと思った。


死ねば、悪魔は私を追いかけてこない。


だから、死にたかった。


なのに、

「――果南ちゃん!?」


突然聞こえたしゃがれた声に驚いたと言うように、それまで私の躰を襲っていた衝撃と痛みは治まった。


「何やってるんだ!?」


武藤さんの登場に、悪魔が私の前から逃げ出した。


代わりにやってきた当人は私の躰を抱きあげた。


「果南ちゃん、大丈夫!?」


悪魔から逃げるために死にたかったのに、このしゃがれた声に止められた。


私は、閉じていた目を開けた。


「――武藤、さん…」


声に出して名前を呼んだ私に、

「――よかった…」


武藤さんは、傷だらけになった私の躰を抱きしめた。


目を開けると、見なれた天井があった。


油絵の具の匂いに、ここは武藤さんの家なんだと言うことを知った。


「――む、と…さん…?」


当人を見つけるために名前を呼んだら、

「――よかった…。


気がついて、よかった…」


武藤さんは私の顔を覗き込むと、目を潤ませた。


どうして、泣いているんだろう?


そんな私の頭の中を呼んだと言うように、

「果南ちゃんが殺されたんじゃないかって、思ったんだ。


あの時、財布を忘れた果南ちゃんに財布を届けに行こうとしたら、果南ちゃんが男に殴られてる現場に遭遇して…。


それで、果南ちゃんはあの男に殺されたんじゃないかって、不安になってたんだ…」


武藤さんは洟をすすった。


「ちゃんと、手当てはしたから大丈夫だよ。


でも、まだひどいようだったら一緒に病院へ行こう。


俺、果南ちゃんに付き添ってあげるから」


「あの…」


武藤さんの言葉をさえぎるように、私は言った。


「どうして、そこまでするんですか?」


そう聞いた私に、

「果南ちゃんの代わりに俺が買い物へ行っていたら、果南ちゃんは殴られなくて済んだ。


いや、俺がお腹が空いたなんてわがままを言わなかったら…」


「武藤さん」


これ以上、自分を責めて欲しくなかった。


「――私が…私が、悪いんです…。


武藤さんは、悪くありません…。


私が…私が死ななかったから…。


私が死ねば、悪魔は…」


私の言葉をさえぎるように、武藤さんは私の手を握った。


「そんな簡単に、“死”を口に出すな」


痛いくらいに強く握られた、武藤さんの手。


私の手を握っている彼の手は、大きくてゴツゴツとしていた。


「――どうして、どうして武藤さんは、止めたんですか?


私が死ねば、武藤さんも自分を責めることなんてなかったのに…」


「じゃあ、どうして果南ちゃんは死のうと思ったの?


何で死にたいなんて思ったの?」


強い口調で聞き返した武藤さんに、私は口を閉じた。


私たちの間に流れた沈黙を、

「――ごめん…」


先に破ったのは、武藤さんの方からだった。


「――私は…」


私は、口を開いた。


* * *


悪魔――南部に出会ったのは、2年前だった。


当時IT関係の会社でOLをしていた私は住所変更の手続きをするため、人事部を訪ねた。


就職を機に実家を離れて、1人暮らしを始めたのだ。


「この書類に前の住所と今の住所を書いて、あちらの窓口に提出してください」


「はい、わかりました」


人事部の受付から書類を受け取った後、真ん中に置いてあるテーブルに書類を置いた。


そこに名前と前の住所である実家と1人暮らしを始めた住所を書いた。


書き終えて提出しようとすると、

「一緒ですね」


声をかけてきた男の人がいた。


その人が南部だった。


「えっ、何がですか?」


訳がわからなくて聞き返した私に、彼は自分が持っていた書類を私に見せてきた。


「――南部さん、ですか?」


彼に視線を向けた私に、

「“南”って言う字が一緒ですよね?


僕は名字ですけど、君は名前で」


そう言って嬉しそうに笑った。


「ああ、そうですね」


私は笑った。


「あっ、そろそろ戻らないと行けないので」


話を切りあげた私に、

「そうですか。


じゃあ、また機会があったら」


南部さんは笑った。


優しい人なんだなと、この時の私は思った。


彼と何気なく交わされた会話が、悪夢――いや、地獄の始まりだと言うことに気づかずに。


南部と会話をした翌日から、私の周りで不可解なことが起こるようになった。


「この書類、ミスしてるところがあったんだけど」


男の上司が持ってきた書類に、

「あっ、すみません。


今訂正します」


私は受け取ると、書類の訂正に取りかかった。


書類のミスを言ってきたその上司は、翌日から会社へこなくなった。


それから1週間後、彼は1度も会社へくることがなく、そのまま辞めてしまった。



「この書類のコピーを30部お願いしてもいいかな?」


課長に頼まれ、

「はい、わかりました」


私は書類を受け取った後、コピー機へと向かった。


コピーを頼んできた課長は、3日後に他の部署へと飛ばされた。


この2つの出来事に関して、特に私は何も思わなかった。


――この時までは。



「お先に失礼しまーす」


「はい、お疲れ様でしたー」


いつものように今日の仕事を終えた私は、まだ残っている人たちにあいさつをした後、更衣室へ向かった。


更衣室のドアを開けた瞬間、

「――えっ…?」


私は目の前の光景を疑った。


「やあ」


私のロッカーの前にいたのは、南部だった。


ロッカーは、開いていた。


「えっ…ちょっと、何を…!?」


私はロッカーに駆け寄った。


何でロッカーが開いてるの?


それに、どうして南部がここに…?


荒らされた形跡は…なかった。


でも、何で?


私の頭の中を読んだと言うように、

「片づけておいたよ」


南部が言った。


「えっ…?」


片づけたって、何で?


南部は私に向かって笑いかけた。


口は笑っているけど、目は笑っていなかった。


その笑顔に、私は躰が恐怖で震えたのがわかった。


「そうだ」


南部は思い出したように言うと、

「これから、ご飯食べに行かない?」


そんなことを言ってきた。


何でそんなことが平気で言えるのよ…。


こっちは頼んでもいないのにロッカーを開けられて、そのうえ勝手に片づけまでされて…。


躰が震えているのは、恐怖からなのか怒りからなのか。


自分でもどちらなのかよくわからなかったけど、

「――ごめんなさい…。


今朝からお腹の調子が悪いので…」


彼からの誘いを、断った。


もちろん、ウソである。


お腹の調子が悪いなんて、断るための口実にしか過ぎない。


「ああ、それは残念だったね」


彼は私に向かって笑いかけた後、手を伸ばしてきた。


「――ッ…」


伸ばしてきた彼の手は、私の頭をなでた。


「お腹が痛いの、治るといいね」


南部はそう言った後、私の前から立ち去った。


バタン


更衣室のドアが閉まった瞬間、私はその場に座り込んだ。


「何なのよ、一体…」


躰の震えが止まらない。


私は自分で自分を強く抱きしめた。



その翌日。


南部に会うのが怖くて、体調が悪いとウソをついて会社を休んだ。


彼とは配属されている部署が違う…けど、顔を見るのが怖かった。


その日は録画していたドラマやバラエティー番組を見たり、スマートフォンにダウンロードしたゲームをしたりして、1日を過ごした。


時計が7時を差した時、チャイムが鳴った。


「はーい」


誰だろう、こんな時間に。


そんなことを思いながら、私は玄関に向かった。


ドアを開けた瞬間、私は声が出なくなった。


そこにいたのは、

「やあ」


南部だった。


どうして?


どうして、私の家を知ってるの?


恐怖で、また躰が震え出す。


「君が所属している部署を訪ねたら、君は体調を崩して休んでいるって聞いたんだ。


これ、もしよかったらだけど」


南部は銀色の袋に手を入れた後、そこから何かを取り出した。


薬局に、行ってきたの…?


「はい」


南部は私に何かを差し出してきた。


生理薬だった。


「よくわからなかったから、店員さんに聞いてきたんだ」


南部はそう言った後、笑った。


何でそうなったのか、よくわからなかった。


「お腹痛いの、まだ治らない?」


そんなものは、断る口実にしか過ぎなかったのに。


なのに、「お腹が痛い=生理」だって決めつけて、薬局へ行って生理薬を買ってきた。


怖い…。


怖い…。


何でこんなことするのよ…!


パシッ!


「おおっ」


南部の手から生理薬を落とした。


「違う薬の方がよかった?


ごめん、今もう1回薬局に行って買ってくる」


そう言って落した生理薬を拾おうとした南部に、

「やめてください!」


私は叫んだ。


南部は不思議そうな顔をして私を見つめた。


「気持ち悪いです…。


どうしてこんなことをするんですか…?


確かに体調は悪いとは言ったけど、でも薬を買ってきてくれなんて、頼んでいないです…。


何でこんなことをするん…」


頬を襲った衝撃に耐えることができなくて、私はその場に倒れ込んだ。


「気持ち悪いって、何が?」


南部の怖い顔と目があった。


「僕たちはつきあっているんだろ?


恋人の体調を心配して、何が気持ち悪い?


薬を買ってきて、何が気持ち悪い?」


つきあってるって、私と南部が?


恋人って、私のこと?


「私はつきあってるなんて思ってないし、言った覚えも…」


最後まで言わせないと言うように、南部が私の躰を蹴った。


「やめてー!」


私が叫んでも南部は止めることなく、私に拳と蹴りを与えてきた。


躰に与えられる衝撃と痛みに、私はどうすることができない。


怖い…。


どうしてつきあってるって思ったの?


どうして私を恋人だと勘違いしてるの?


私はつきあってるなんて言った覚えはない。


私は恋人だと思った覚えもない。


どうして、私は彼に暴力を振るわれているの?



カチコチと時間を刻んでいる時計の音に、私は目を開けた。


「――痛ッ…」


躰を起こすと、痛みが走った。


南部に殴られて、蹴られたところが痛い。


初めて、男の人から暴力を振るわれた。


つきあってもいない、恋人だと勘違いしている男に躰を傷つけられた。


怖い…。


怖い…。


怖い…。


「――ッ、くっ…」


涙が出てきた。


躰が痛い…。


心が痛い…。


1人暮らしの部屋で、私は涙を流した。



その翌日から、私は南部から逃げることを決意した。


まずは南部に殴られた傷の手当てが先だ。


最初の3日は歩くことはもちろん、起きあがることも痛かった。


傷の手当てをしながら、今住んでいる部屋と携帯電話の解約をした。


冷蔵庫やテレビ、洗濯機などの家電製品はリサイクルショップに全部売った。


傷が癒えてきた1週間後に、私は半年勤めた会社に辞表を出した。


「どうして急に…?」


私の手から辞表を受け取った部長は、悲しそうに聞いてきた。


「すみません…。


他にやりたいことが見つかったので、辞めさせていただきます」


悲しそうな部長の顔を申し訳なく思いながら、私は頭を下げた。


ごめんなさいと、入社以来ずっとお世話になってくれた部長に心の底から何度も謝った。


その日の夜、私は少ない荷物を全部まとめると、逃げるように電車へ飛び乗った。


「――ッ、くっ…」


電車に乗っている間、私の涙は止まらなかった。


大切な家族と大好きな友人と連絡を絶って、お世話になった人に突然お別れを告げて…いつかはあることかも知れないけど、こんな形で彼らから離れたくなかった。


でも、これで南部から――悪魔から逃げることができたんだと、泣きながら何度も自分に言い聞かせた。


新しい町に引っ越したら住むところと働くところを探そう。


それが落ち着いたら携帯電話を新しく契約して、家族と友人に電話しよう。


そう計画を立てると、涙が止まった。


だけど、悪魔は私を追ってきた。


「ありがとうございましたー」


次に就職したところは、小さなお惣菜屋さんだった。


仕事仲間は30代後半から40代のおばさんたちだったけど、突然入ってきた20代の私を温かく迎えてくれた。


「果南さん。


今日の売れ残りで申し訳ないんだけど…」


「わーっ、ありがとうございます!」


日によっては売れ残りのお惣菜をくれるので、食費には困らなかった。



勤め始めて3ヶ月経ったことだった。


この日も仕事を終えて、自宅である小さなマンションに帰った時だった。


「――えっ…?」


マンションの前に見覚えのある人物を見つけた。


その人物は私に気づくと、

「――果南」


口は笑っているけど、目は笑っていない悪魔。


私の手から、お惣菜が入った袋が滑り落ちた。


何で?


何で、ここにいるの?


私…誰にも居場所を教えていないのに…。


震えが、躰を襲った。


「探したんだ」


悪魔が言った。


探したって、どうやって?


どうやって探して、私を見つけたの?


悪魔が私のところへ歩み寄ろうとする。


「――こないで!」


私は悪魔に向かって叫んだ。


「果南、何で別れようなんて言ったんだ?


僕がどれだけ君を探したと思ってるの?」


別れようって、誰が言ったの?


どうして、私が別れたって言ったことになってるの?


「私、あなたと別れるなんて…言った覚え、ない…」


呟くように、悪魔に向かって反論した。


そもそも、私と悪魔はつきあっていない。


なのに悪魔は私とつきあっていると思い込み、恋人と勘違いしている。


「果南…。


果南…」


悪魔が私の腕をつかんできた。


「嫌ッ、離してッ!」


私はつかんできた悪魔の腕を振り払った。


振り払ったとたん、頬に衝撃が走った。


ああ、まただ…。


悪魔は私に暴力を振るってきた。


「やめて…!


どうして私に暴力を、振るうの…!?


私、あなたとつきあった覚えなんか…!?」


暴力を振るわれながらも、悪魔に向かって言葉をぶつける。


だけど、

「うるさい!


僕は君のことを愛しているのに!


恋人を探して何が悪い!


恋人とつきあって何が悪い!」


悪魔は私の言葉に耳を傾けない。


ダメだ…。


悪魔は私の言葉を信じてくれない。


つきあってると自分で自分を信じて、私を恋人だと勝手に勘違いしている。


――だから、私が何度言葉をぶつけても信じてもらえない。


やっとなれた再就職先に辞表を提出して、住んでいたマンションを解約すると、また逃げ出した。


新しい再就職先を見つけても、悪魔は私の前に現れる。


新しく住むところを見つけても、悪魔は私の前に現れる。


どんなに遠くへ行っても、どこへ行っても、悪魔は私の前に現れる。


どこまで逃げても、悪魔は必ず私の前に現れる。


現れては、暴力を振るった。


言葉なんか聞いてくれない。


躰が痛い…。


心が痛い…。


「――もうヤだ…!」


流れる涙は痛いのか、悲しいのか、悔しいのか…もうよくわからなかった。


私は、どうすればいいの?


どうすれば、悪魔は私を追いかけることをあきらめてくるの?


どうすれば、私は悪魔から逃げられることができるの?


大切な家族と大好きな友人との連絡を絶ってから、今年で2年目。


もうすでに、ボロボロだった。


家族のところへ帰りたい。


友人と話がしたい。


だけど、もし私がそれらのことをしてしまったら…悪魔は何をするかわからない。


私のせいで家族と友人が、悪魔に暴力を振るわれるかも知れない。


そうなるのは、絶対に嫌だった。


「――そう、だ…」


私が思いついたこと。


それは、

「――私から、いなくなればいいんだ…」


自分から命を手放すことだった。


私がこの世からいなくなれば、悪魔は私を探すことをあきらめる。


私がこの世からいなくなれば、悪魔は私の前にを現れない。


何より、私は悪魔から逃げることができる。


大切な家族と大好きな友人を、悪魔に傷つけられることはない。


「――死ねばいいんだ…。


――私がこの世からいなくなればいいんだ…。


――そうだ、そうだよ…。


――私は死ねばいいんだ…」


それが果たしてあったいるのか、間違っているのかどうかは、わからない。


だけど、私がいなくなれば悪魔はあきらめる。


何より、私は悪魔から逃げることができる。


だから、私はこの世からいなくなろう――。


 * * *


「――ッ、バカだよォ…!」


武藤さんは、泣きながら私を抱きしめた。


強い力で抱きしめられたせいで、傷がチクリと痛んだ。


「何で言わなかったんだよ…!


何で相談しようとしなかったんだよ…!


ストーカーされていたならストーカーされていたって、何で言わなかったんだよ…!」


私を強く抱きしめながら、武藤さんは泣いた。


「何で誰にも相談しようとしなかったんだよ…!


何で警察に話そうとしなかったんだよ…!」


「だって…」


武藤さんが泣くから、私まで涙が出てきた。


「警察に話したって、相手にしてくれないと思ったから…」


泣きながら呟くように言い訳をした私に、

「何で勝手に決めつけるんだ…!


警察は相手にしてくれないなんて、誰がそんなことを言ったんだ…!」


武藤さんは泣きながら言った。


「でも…でも、警察にDVの相談をしに行った友人がいて…。


だけど、警察は“ケンカの延長戦だから”と言う理由で相手にしてくれなかったって…」


「そんな理由から警察は相手にしてくれない、信用できないって言うのか…!?」


私は首を縦に振ってうなずいた。


「わかった」


武藤さんは私を見つめると、

「俺が警察に行って、果南ちゃんが理不尽なストーカー被害に遭っていることを伝えに行く」

と、言った。


「そんな、武藤さん!」


「行かなきゃ、果南ちゃんはまた自殺しようとするじゃないか!」


武藤さんは強い口調で怒鳴った。


「果南ちゃんには、生きて欲しいんだよ…。


生きて、いろいろなことを知って、いろいろなことを見て欲しいんだよ…」


武藤さんはまた泣き出した。


どうしてこの人は、赤の他人である私のために涙を流すことができるのだろう?


どうしてこの人は、赤の他人である私に生きることを強く切望するのだろう?


「――自分が死んだら全てが解決するなんて、思うな…。


果南ちゃんが死んだら、それこそ家族や友人が悲しむだろうが…。


果南ちゃんは生きて、愛する人を見つけて、家族になって、今までの悲しい出来事を忘れるくらいに幸せになって欲しいんだよ…。


そんなことを思う俺は、お節介なのか…?


わがままなのか…?」


泣きながら言った武藤さんに、私は首を横に振った。


「――ッ、うくっ…。


私、死にたくない…。


――生きていたい…」


泣きながらだったけど、私の唇から“生きる”と言う言葉がこぼれ落ちた。


「――果南ちゃん…」


武藤さんが、私の名前を呼ぶ。


「――生きたい…。


――生き、る…」


泣きながら同じ言葉を口に出している私を、武藤さんは抱きしめた。


油絵の具の匂いが、私の涙腺をさらにゆるませた。


「今は傷がひどいから行けないとは思うけど、傷が癒えたら警察へ相談しに行こう?


俺も一緒について行って、事情を説明するから」


そう言った武藤さんに、

「――はい…」


彼の腕の中で、私は首を縦に振ってうなずいた。


私のために泣いてくれて、生きることを望んでくれた武藤さん。


そんな彼を私は“好き”だって思った。


私は、武藤さんに恋をした。


1人の男として、恋に落ちた。

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