変り者の男の出会い
目の前に広がるのは、青い海。
ここへ落ちたら、私は泡となって消えて行くのだろうか?
子供の頃に読んだ童話の結末を思い出した後、そんなことないなと思って私は小さく笑った。
海へ落ちて泡となって消えて行くことができたら、誰だって苦労しない。
潮を含んだ海からの風が、肩甲骨の辺りまで伸ばした黒髪を揺らした。
断崖絶壁のこの場所に、私は立っている。
そこから見下ろすと、呼吸をするのも苦しいくらい高かった。
ここから飛び降りたら死ぬことは確実だ。
さすが、“自殺の名所”だと呼ばれている場所だけのことはあるなと思った。
“死ぬ勇気があるんだったら、生きる勇気だってあったはずだ”
いつかのテレビニュースで、どこかの偉いコメンテーターがそんなことを言っていた。
生きる勇気?
その勇気があればどんなことでも乗り越えることができるなんて、そんなバカなことがある訳ないじゃない。
それで何でも解決できるなら、自殺なんてなくなっているはずだ。
死ぬことって、そんなに悪いことなの?
人間――いや、この世で生を受けた以上、誰にだって寿命がある。
それが早いか遅いだけの問題だと思う。
私は潮風を吸い込むように深く息をした後、1歩足を踏み出した。
怖くない…。
死ぬことは、怖くない…。
怖くない…。
怖くない…。
怖くない…。
海が近づいてくる。
そこから目をそらすように、私は目を閉じた。
後、少しだ。
そう思った時、
「――ちょっと待て!」
突然聞こえた大きな声に、私は閉じていた目を開けた。
首を振って声の主を探している私に、
「何してるんだ!?」
男の人がこちらに向かって近づいてきた。
「――こないで!」
私は男の人に向かって叫んだ。
40代…いや、30代の後半辺りだろうか?
少なくとも、私よりも年上と言うことは理解できた。
180センチくらいはあるんじゃないかと言う長身に、スリムだけど屈強な躰。
黒のハットに黒のジャケット、おまけに足元は黒の革靴――正直に言うなら、これらの格好はこの場所に似つかわしくないなと思った。
観察するように見ていた私に、彼の唇が開いた。
「何してるんだ?
ここから先は海だぞ」
しゃがれた声だった。
「わかってます…」
呟くように答えた私に、
「落ちたら死ぬんだぞ?」
しゃがれた声で彼が言った。
「それも…それも、わかってます…。
わかってるから、死のうと…」
「何で?
何で死のうとするんだよ?」
めんどうなことになったと、私は思った。
周りを確認してから――いや、さっさとここから飛び降りて死ねばよかった。
そうすれば、呼び止められて自殺を止められることなんてなかったのに。
私は彼から逃げるように背中を向けた。
「待て!
話はまだ終わってない!」
腕を強くつかまれた。
「離してください!」
つかまれた腕を振り払おうとするけど、男の強い力ではかなわない。
わかってる。
男の強い力にはかなわない。
どんなに腕を振り払っても、必ず追いかけてくる。
必ず居場所を突き止めて、前に現れてくる。
逃げても逃げても、必ず追いかけて、つかまえようとする。
「離して!
離して!」
「離したら飛び降りるつもりだろうが!」
腕を振り払おうと抵抗する私とそれを止めようと必死になっている彼。
傍から見たらケンカしているように見えるかも知れない。
「離すから理由を聞く!
何があったか話をしてくれ!」
「嫌ッ!
話したらバラすくせに!
私がここにいることを教えるくせに!」
乾いた音が耳に入ったのと同時に、
「…誰に?」
彼が止めたと思ったら、驚いたと言うように聞き返した。
えっ?
私も抵抗を止めると、彼の顔を見た。
彼の顔には赤い手形がついていた。
それを見た瞬間、気づかされた。
私、この人の顔をたたいちゃったんだ…。
抵抗だったとは言え、見ず知らずの人の顔をたたいてしまった。
「あっ…」
その事実に震えている私に、
「俺が誰に教える、って?」
彼が不思議そうに質問してきた。
そうだ…。
私とこの人は、初対面だ。
たった今この場所で会ったんだ。
だから、彼が知っている訳ないじゃない。
そうだ、そうだよ…。
自分がしていたとんでもない勘違いに、私は目をそらした。
男の息を吐く音が聞こえた。
こんなにも近くで人の呼吸を聞いたのは、今日が初めてだった。
怒ってるよね…。
抵抗だったとは言え、顔をたたいちゃったうえに、勝手に勘違いもしたんだから、怒っているのも当然のことだよね。
「――俺と一緒にくるか?」
その言葉に、私は目をあげて彼を見た。
「――えっ…?」
俺と一緒にくるかって、どう言うこと?
「あの…」
「この近くに、俺の家があるんだ。
小さいけど、2人住める」
す、住める?
私、この人と一緒に住むの?
「死にたくなったらいつでもここへきて、いつでも飛び降りることができると思うよ」
戸惑っている私に、彼が言った。
「え、えっ…?」
聞き返した私を、彼が見つめてきた。
「どうせ終わりにする命なら、その命を俺にくれないか?」
彼の言っている言葉がわからなくて、私は首を傾げた。
「君が死ぬまでの時間を俺と一緒にこの町で過ごさないか、って。
海と山に囲まれた小さな町だけど、ここで余生を過ごすのも悪くないかも知れないよ?」
「それは、わかりますけど…」
私は、どうして最期の時間をあなたと過ごさないといけないのかって聞きたいんだけど…。
そんな私の疑問を読みとったと言うように、
「俺1人で暮らしてるからさ、家政婦みたいな人が欲しいなって思って。
この町はコンビニが少ないから、小さいスーパーで何かテキトーなもの買ってご飯作ってるし、掃除や洗濯だって全部1人でやってるし」
彼が言った。
「か、家政婦…?」
そんな理由で、私があなたと一緒に余生を過ごすの?
自分勝手にも程があると言うか、ヘリクツもいい加減にしろと言うか…。
「君は知らないだろ?
1人で食べる飯がマズいって言うことを」
彼がやれやれと言うように息を吐いた。
それはただ単にあなたが料理下手なだけじゃないんですか?
「近いよ、この崖から俺の家は。
目と鼻の先にある。
だから、君が死にたいと思ったらここへきて飛び降りることができる。
これ、特典ね」
何だかよくわからなくなってきた。
そもそも、何で私はここへきて死のうと思ったんだっけ?
変わった人だなと、思った。
崖っぷちのこの場所でのハットやジャケットや革靴は、この町に住んでいる刑事さんなのかと聞きたくなる。
それだけでも充分変わっているのに、私の命を俺にくれとか、家政婦として俺と一緒に住めとか…変わり過ぎにも程があると思う。
この人が変わり過ぎてるから、自殺する理由を忘れてしまった。
忘れた、けど…ここから立ち去りたくない。
「――いい、ですよ」
私は返事をした。
「えっ?」
私の答えに、彼が驚いたと言うように聞き返した。
「あなたの家政婦として、余生を過ごしてもいいですよ」
ここから立ち去りたくないから、言った。
お金はそんなに持ちあわせていないから、ホテルには泊まれない。
携帯電話も持っていない。
家政婦として働けるうえに、ただで住むことができる。
そのうえ、この崖から近いところに家はあるそうだし。
だから、いつでもここから飛び降りて死ぬことができる。
「本当か?」
彼が念を押すように質問してきた。
本当かって、提案を出したのはそっちの方じゃない。
私はそんなことを思いながら、
「本当です」
と、質問に答えた。
「じゃあ、行こうか」
彼はそう言った後、私に背中を見せた。
「あ、そうだ」
彼は思い出したと言うように言った後、また私の方に顔を向けた。
何だろ?
まだ何かあるのだろうか?
そう思った私に、
「名前、まだ聞いていなかったね」
彼が言った。
「あっ…」
そうだ、私この人の名前をまだ聞いていなかった。
一緒に住むことになったから、名前を覚えておかなきゃダメだよね。
何より、彼を呼ぶ時に困る。
私は口を開くと、
「果南、です」
自分の名前を言った。
「カナちゃんね。
どんな字で書くの?」
それも聞くの?
と言うか、何かで必要になる時があるのだろうか?
そう思いながら、
「果実の“果”に“南”で、“果南”です」
と、字を教えていた。
「果実に南…で、“果南”って言うのか。
いい名前だね、かわいいよ」
彼は楽しそうに笑いながら言った。
いい名前って、何が?
私からして見たら、忌々しい名前なのに。
「俺は武藤」
彼――武藤さんが言った。
「えっ?」
私は聞き返した。
武藤って、名字だよね?
「武藤さん、ですか?」
「うん、武藤。
武士の“武”に“藤”で、“武藤”」
武藤さんは得意そうに名乗って笑った。
「そうですか…」
私は呟くように返事をした。
人のことは言えないと思った。
私は名前の方を教えて、武藤さんは名字の方を教えた。
フェアと言えばフェアだし、フェアじゃないと言えばフェアじゃない。
「これで、お互いの名前はわかったね」
武藤さんが言った。
「そうですね…」
私は呟くように返事をした。
武藤さんの言う通り、お互いの名前はわかった。
何かあって名前を呼ぶ時には困らない。
「じゃあ、行こうか。
果南ちゃん」
武藤さんがそう言ったので、
「はい」
私は首を縦に振ってうなずいた。
私が返事をしたのを確認した後、武藤さんは背中を向けて歩き出した。
私も彼の後を追うように、歩き出した。
武藤さんの言う通り、彼の家は本当にあの崖から目と鼻の先のところにあった。
白を基調とした木造の、テラスがある小さな家だった。
「ここにはずっと住んでいるんですか?」
家を観察するように見た後、武藤さんに聞いた。
「そうだな。
10年くらい前からずっと住んでるよ」
武藤さんは私の質問に答えた。
「えっ、10年前ですか?」
意外な答えに、私は驚いた。
ここに詳しいから、てっきり地元の人かと思ってた。
「見晴らしがいいから気に入って購入したんだ」
武藤さんはそう言った後、ガチャッとドアを開けた。
んっ?
「もしかして、カギ閉めてなかったんですか?」
そもそも、カギ自体持ってなかったよね?
驚いて聞いた私に、
「この町の人はカギを閉めるって言う習慣がないんだよ?」
武藤さんは不思議そうに答えた。
何ですか、その戦前のような習慣は。
「武藤さんがカギを閉めないの間違いじゃなくて、ですか?」
変わっているからありえるかも知れない。
「この町の人に聞いてみなよ、出かける時は家にカギを閉めますかって」
武藤さんは言い返した。
そこまで言われたら私も返す言葉が見当たらない。
「盗られる程持ちあわせているものなんかないし、とにかく入りな?」
武藤さんは私を促した後、ドアを開いた。
開いた瞬間、灯油のような匂いがして私は思わず顔をしかめた。
「初めてきたから仕方ないよな。
住んでいるうちになれる」
顔をしかめた私に武藤さんはクスクスと笑った。
「さあ、入って」
「…お邪魔しまーす」
そう言えば、男の人の家に入るのは今日が初めてだと私は思った。
いいよね、今日から一緒に住むんだから。
武藤さんは今日から私の同居人なんだから。
心の中で何度も言い聞かせると、家の中に足を踏み入れた。
灯油のような匂いがますます強くなった。
ストーブでも焚いていたのかしら?
5足靴を並べたらいっぱいになるであろう小さな玄関で靴を脱ぐと、床に足をつけた。
バタンとドアが閉まる音がした。
その音に反応したと言うように武藤さんの方に視線を向けると、靴を脱いでいるところだった。
違うよ。
武藤さんは、違うんだから。
別人なんだから。
「んっ、どうしたの?」
武藤さんと目があった。
「あっ、いえ…」
首を横に振った私に、
「玄関から入って右のところにトイレとバスルームがあるから。
ホテルみたいに一緒の部屋にあるから、バスルーム使う時はカーテンをひいてから使ってね」
武藤さんが説明してくれた。
武藤さんの言う通り、右側のところにドアがあった。
ここがトイレとバスルームか。
後でどんな風になっているのか覗いて見よう。
「で、こっちが…」
武藤さんが前を歩いた。
私は彼の後を追った。
まっすぐに続いている廊下を歩くと、16畳はあるんじゃないかと言うくらいの広いリビングに出た。
その半分はキッチンだった。
古いデザインのガスコンロが、この家の年数を感じさせた。
おそらく、この家は古い時代に建てられたものなのかも知れない。
もう半分の方のリビングに視線を向けると、擦り切れた革製のソファーがあった。
ベッドは見当たらないところを見ると、武藤さんはソファーをベッド代わりに使っているようだ。
「あっ…」
目の前はテラスだった。
そこから広がっているのは、海だった。
先ほど私が飛び降りようとした崖もある。
…なるほど、武藤さんはここから崖にいる私を見て何事かと思って駆けつけたらしい。
「よく見えるんですね」
皮肉をこめて言った私に、
「購入する時に気に入ったポイントなんだ」
武藤さんは言い返した。
テラスから視線をそらすと、
「あっ…」
灯油のような匂いの元がわかった。
描きかけのキャンバスに、それを支えている木製のイーゼル。
それらの前には古いデザインの椅子。
周りには絵の具が散らばっていた。
油絵の具だった。
この絵の具を使って絵を描いているから、家の中は灯油のような匂いがしていたのだ。
「画家、ですか?」
描きかけのキャンバスを指差した私に、
「趣味で描いている程度だけどね」
武藤さんは笑って答えた。
武藤さんはリビングの隅に立てているたくさんのキャンバスに足を向かわせた。
「えーっと…」
そこから3枚程キャンバスを持ち出すと、
「これが1週間前まで描いていたヤツ」
と、私にキャンバスを見せた。
暗い色の背景を、同じく暗い色をしたたくさんの花を髑髏(シャレコウベ)に生けている絵だった。
怖い絵だな。
そんなことを思った私だけど、その絵から目が離すことができなくて見つめていた。
「これは俺のお気に入り」
2枚目のキャンバスを私に見せた。
これも、背景が暗い色だった。
小さなテーブルのうえに髑髏と腐りかけの果物が乗っている絵だった。
「最後は…この町の美術館に1ヶ月限定だけど、特別に飾ってもらえることになったヤツ」
3枚目のキャンバスを私に見せた。
先ほどの2枚と比べると、背景は明るい方だと思う。
テーブルのうえにページが開いた状態の本と髑髏、それらを囲んでいるのは壊れた懐中時計と壊れて中身の砂が飛び出ている砂時計だった。
武藤さんが私に見せてくれた3枚のキャンバスに描かれた絵は怖くて、見る人の心を楽しませてくれるような感じではなかった。
なんて言うか、見ているだけで恐怖すらも感じた。
「あっ…」
3枚のキャンバスを見比べた後、私はこの絵に共通しているものに気づいた。
「どうして、3枚とも絵に髑髏を使っているんですか?」
偶然なのだろうか?
私の質問に、
「よく気づいたね」
武藤さんは笑った後、私の頭をなでた。
「果南ちゃんは学生時代美術が得意だったのかな?」
そう聞いてきた武藤さんに、
「美術は、どちらかと言うと苦手な方でした」
私は首を横に振って答えた。
特に絵を描くことが大の苦手で、高校時代にあった美術と音楽の選択授業は音楽の方を選んだくらいだ。
「それは残念だな。
この3枚の絵…いや、これら全てに共通している特徴を当てたのに」
武藤さんは残念そうに言った後、また笑った。
「特徴…?」
「“象徴”と言った方が正しいかも知れないな」
特徴と象徴はどう違うのだろうか?
「俺は“ヴァニタス”って言う、静物画のジャンルを描いているんだ」
武藤さんが言った。
「ヴァ、ヴァ…?」
「ヴァニタス」
何ですか、そのバニラアイスの親戚みたいな言葉は。
「16世紀から17世紀にかけてヨーロッパの北部で特に多く描かれたんだけど、現代に至るまでの西洋美術にも大きな影響を与えている、寓意的な静物画のジャンルの1つなんだ。
ちなみに“ヴァニタス”の意味はラテン語で「空虚」や「虚しさ」を意味する言葉なんだ」
丁寧に説明してくれるのはありがたいんだけど…やっぱり、よくわからないや。
だけど、ヴァニタスの説明をしている時の武藤さんの顔は嬉しそうだった。
私が絵に興味を持ってくれたのが、よっぽど嬉しかったのだろう。
「人生の儚さとか死や衰退とか、そう言うのを表現している静物画なんだ」
武藤さんは3枚のキャンバスを私に見せると、
「髑髏は、人間の死すべき定めの隠喩。
その他にも時計や腐って行く果物や花を置いて、観る者に対して虚栄の儚さを喚起させる意図を持っているんだ」
だからどの絵にも髑髏が使われていたんだ。
私は2枚目のキャンバス――武藤さんのお気に入り――を手にとった。
「果南ちゃんはそれが気に入ったの?」
武藤さんが嬉しそうに聞いてきた。
「あっ、はい…」
気に入った…訳じゃないけれど、何故だかよくわからないけどこの絵に強くひかれた。
見る人によっては怖いと言う印象を与えてしまう、ヴァニタスと言う静物画ジャンル。
「どうして、このジャンルの絵を描いているんですか?」
何となく疑問を感じて、私は質問した。
一言で言うなら不気味なこの絵のジャンルを、どうして武藤さんは描いているのだろうか?
何かこだわりでもあるのだろうか?
私の質問に武藤さんは少し考えた。
えっ?
私、そんなに難しいことを聞いた?
考えている武藤さんの様子に、私は戸惑った。
…そうだ。
もしかしたら、こだわりなんかないのかも知れない。
ただこの絵のジャンルが好きだから、ただ描いているのかも知れない。
それに対して小学生のような質問をした私は、バカにも程があると思った。
「自分と重なる部分があった、からだと思う」
武藤さんが言った。
「…えっ?」
何が?
首を傾げた私に、
「さっきした果南ちゃんの質問の答え」
武藤さんは言った。
あっ、そうか。
質問の答えか。
「果南ちゃん、ぼんやりしてた?」
クスクスと笑いながら聞いてきた武藤さんに、
「少しだけ…」
私は呟くように答えた。
「気をつけてね」
そう言った武藤さんに、
「はい…」
私は首を縦に振って返事をした。
ぼんやりしたのは、久しぶりだったと思う。
武藤さんの家と言う安全な場所で、安心したからなのだろうか?
「じゃあ、絵の話はこれくらいにしようか」
武藤さんはキャンバスをまとめると、隅の方にあるキャンバスの山に持って行った。
私はもう1度リビングを見回した。
あっ、今気づいたけど、ここにはテレビもなければ時計もないや。
武藤さんはいつもどうやって時間を見ているのだろう?
「時計がないんですね」
そう言った私に、
「外見ればだいたいの時間がわかるよ」
そう返した後、武藤さんはテラスの方へ向かった。
私も彼の後を追うように、一緒にテラスの方へ向かった。
カラカラと窓を開けると、潮を含んだ風が部屋の中に入ってきた。
灯油のような匂いの油絵の具が、入ってきた潮風によって消えて行く。
「ああ、お昼過ぎたか」
武藤さんが言った。
「えっ?」
私が武藤さんの方に視線を向けた時、彼はテラスに出ていた。
靴は履いていない。
裸足だった。
「出てきたら?」
そう言った武藤さんに、私もテラスに味を踏み入れた。
もちろん、靴は履いていない。
私も裸足である。
あっ、裸足で歩くのっていいかも。
冷たい地面が裸足に触れて、とても気持ちよかった。
武藤さんは空を指差すと、
「太陽が時間を教えてくれるんだ」
と、得意気に言った。
「太陽、ですか?」
私は武藤さんが指差している空に視線を向けた。
太陽は真上から少し傾いていた。
「太陽の動きで、今が何時か教えてくれるんだ。
真上が正午、影が長い時は2時、海の方へ太陽が沈む時は5時前後、って」
「へえ」
たったそれだけで時間がわかるんだ。
だけど、
「天気が悪い時はどうするんですか?
曇りや雨の日なんて、太陽が出ていないから時間がわからないじゃないですか」
晴れの日は太陽が出ているから時間はわかるかも知れないけど、天気が悪い時の時間はどうやって判断するのだろう?
「それは雲や風の動きで時間を見るんだよ」
武藤さんが言った。
「く、雲と風…ですか?」
そんなので時間がわかるんですか?
ポカーンと口を開けて固まった私に、
「果南ちゃんもここで暮らして行けば、そのうちわかるようになるよ。
俺だって、しばらくここで暮らしたらわかったんだから」
武藤さんは笑いながら言った。
何ですか。
仙人ですか。
やっぱり、武藤さんは変わった人だと思った。
太陽はまだ話がわかるけど、雲と風で時間を判断するって…。
もはやそれは、超人のレベルじゃないかと思う。
私もわかるようになるって、たぶんそれは無理だと思います。
逆立ちしたって、そんな超人のようなことができる訳ないと思います。
武藤さんに気づかれないように息を吐いた後、
「あっ」
私はテラスの隅にあった1本の木の存在に気づいた。
立派な大木だった。
枝の方に視線を向けると、青々とした若葉が花のように咲いていた。
何の木なんだろう?
そう思った私に、
「それは桜の木なんだ」
と、武藤さんが言った。
「桜?」
よくよく大木を観察して見ると、確かによく見かける大木だと思った。
「この家の自慢」
武藤さんは得意気に言った後、桜の木の隣に立った。
「この桜の木も、家を購入する時のポイントになったんだ。
毎年家でお花見ができるなんて、いい特典だと思わない?」
武藤さんは桜の木を見あげた。
「確かに、いいと思います」
わざわざ外にでなくても、家の中で桜を見ることができる。
武藤さんがこの家を購入した理由がわかるような気がした。
「今年は桜の開花が例年よりも早かったから早く散っちゃったけど、また来年には咲くから。
その時…果南ちゃんがまだ生きていたら、一緒にお花見をしようか?」
武藤さんがそんなことを言った。
それもどこか寂しそうに。
私がまだ生きていたらお花見しよう、って?
一方的な約束だと思った。
そんな約束されたら、私来年の桜が咲く頃まで死ぬことができないじゃない。
来年ここで一緒にお花見をしよう、なんて。
約束がかなわなかったらどうするの?
私が来年の桜が咲く頃までに死んじゃったら、どうするつもりなの?
一方的だと思う反面、
「そうですね、いいですね」
首を縦に振ってうなずいた私がいた。
これじゃあ、約束をしちゃったようなものじゃない。
私のバカ。
かなわないかも知れないのに。
武藤さんは満足そうに笑った後、
「じゃあ、ご飯にしようか?」
と、言った。
「えっ?」
ちょっと唐突過ぎませんか?
何の前触れもなく、ご飯にしましょうって。
「作れるんでしょ?」
笑いながら聞いてきた武藤さんに、
「少し、だけなら」
私は呟くように答えた。
と言うか…ああ、そうだ。
私は武藤さんの家政婦として住むことになったんだ。
本来の目的をすっかり忘れていた。
家政婦だからご飯を作るのは当たり前だ。
「じゃ、ご飯を食べよう」
嬉しそうに家の中に入った武藤さんの後を追うように、私も家の中に入った。
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