武藤と言う男の生い立ち

規則正しい波の音に、私は息を吐いた。


流木のうえに腰を下ろして、目の前の海をぼんやりと眺めている私を、周りはどんな風に思っているのだろうか?


寂しい人だって言って、私のことを嘲笑うのだろうか?


かわいそうな人だって言って、私に同情してくれるのだろうか?


「――武藤さん…」


好きな人の名前を呟いた私の声は、波の音によってかき消された。


あの日以来――クロエさんと交わした会話を私が聞いてしまった日以来、武藤さんは私のことを避けるようになった。


最初は、そんなことをする武藤さんを私の勘違いだと思っていた。


だけど、あきらかに私と距離を置こうとしている武藤さんに私は勘違いだと思えなくなってしまった。


美味しいと言って食べてくれたご飯は、武藤さんは何も言わないで食べるようになった。


必要な時は会話をするけど、それ以上の会話は交わさない。


あの家に武藤さんと2人でいることが怖くて、私はご飯の後片づけが終わるとすぐに家を出て、ここで日が暮れるまでの時間を過ごしている。


私は、武藤さんに嫌われてしまったのだろうか?


それとも、私に弱虫だと言われるのが怖いからなのだろうか?


「――私が武藤さんのことを弱虫だなんて思う訳ないじゃない…」


私の独り言は、誰にも聞いてもらえない。


「あなたはムトウの何を知っていて、そんなことが言えるの?」


その声に、私は視線を向けた。


「クロエさん…」


彼女の登場に驚いている私に、クロエさんは頭を下げると私の隣に腰を下ろした。


「あなたがムトウと一緒に住んでいたことに驚いたわ。


さっき、あなたがムトウの家から出て行くところを見たの」


クロエさんが言った。


「そうですか」


私は呟くように返事をした。


「ムトウの恋人なの?」


そう聞いてきたクロエさんに、

「ち、違います!」


私は首を横に振って否定した。


「わ、私は…武藤さんの家政婦として、彼と一緒に住んでいるだけです…」


自分でクロエさんに家政婦と言ったら、胸が痛くなった。


「家政婦?


なるほど、そう言う関係なのね」


クロエさんは納得したと言うように、首を縦に振ってうなずいた。


「いつから?」


続けて聞いてきたクロエさんに、

「いつからって聞かれても、私もわからないです。


そもそも、今日が何日かもわからないですし…」


そう答えた私に、

「ムトウは時計やカレンダーみたいに時間がわかるようなものを家に置かない主義だからねえ」


クロエさんが息を吐いた。


「そうなんですか…」


クロエさんは、武藤さんのことを何でも知っているんだ。


私が知らない武藤さんを、クロエさんは全部知っている。


「あの…」


私はクロエさんに話しかけた。


「クロエさんと武藤さんは、一体どう言うご関係だったんですか?」


私の質問に、クロエさんは驚いたと言う顔をした。


「あなた、本当にムトウのことを何も知らないのね」


クロエさんに言われた私は何も返すことができなかった。


「…何にも、知りませんよ」


呟くような声で、私は言った。


「絵を描くことを職業としていて、好きな絵のジャンルはヴァニタスで、グリンピースが嫌いなこと以外、私は武藤さんのことを何も知りません」


最近は武藤さんが病気だったことを、私は知らなかった。


口を閉じた私に、

「――ミュージシャンとマネージャー」


クロエさんが言った。


「えっ?」


そう言ったクロエさんの言葉の意味がわからなくて、私は聞き返した。


クロエさんは、

「さっきのあなたの質問に答えたの。


私とムトウはどう言う関係だったかって、さっき聞いたでしょう?」

と、言った。


武藤さんとクロエさんの2人の関係がミュージシャンとマネージャーって…。


「武藤さんが画家になる前の職業って、ミュージシャンだったんですか?」


私はその事実に驚いて聞き返した。


「ジャズミュージシャンね。


彼はドラムをたたきながら歌を歌っていたの」


クロエさんが答えた。


意外だと、私は思った。


絵を描いている普段の姿から、ドラムをたたきながら歌っているその姿を想像することができなかった。


「ムトウはね、“ミュージシャンになって世界を飛び回ること”が夢だったの」


クロエさんが言った。


「世界を、飛び回る…?」


武藤さんが以前、そう言っていたことを私は思い出した。


クロエさんは淡褐色の瞳を私に向けると、

「教えてあげましょうか?


ムトウと言う男の生い立ちを」


紅い唇を動かした。


 * * *


福岡県の北九州市で生まれたムトウは、何事も全て優秀な子だった。


少年時代は野球部の中軸選手として活躍していたくらい、彼は才能にあふれていた。


特に音楽や芸術の才能は人よりもうえで、コンクールに絵を出展すれば大賞を受賞、中学時代に合唱コンクールで指揮者を演じた時には彼の学生服が燕尾服に見えたと周りに絶賛されたくらいだった。


そんな彼がドラムに出会ったのは高校時代の時。


確か、友人の家にあったドラムセットに触れたことがきっかけでドラムを始めたって言ってたわ。


その友人とジャズバンドを組んだことがきっかけで、ムトウは音楽の世界へと進んで行った。


その時の彼の夢が、“ミュージジャンになって世界を飛び回る”だった。


当然その夢は周りに反対されたんだけど、ムトウはあきらめなかった。


その夢に1歩近づくために考えたことが、大学進学を理由とした上京だった。


東京の文学部の大学を受験したムトウは合格して上京。


大学時代は軽音楽部のサークルに入って、そこで友人たちと一緒にバンド活動をしながら、彼は少しずつ夢へと向かって行ったわ。


音楽事務所にデモテープを送ったり、大手事務所が主催するオーディションにエントリーしたりして、ムトウは自分をアピールした。


その努力の成果もあって、彼は大学卒業後にミュージシャンとしてデビューを果たした。


私はそこで、まだ駆け出しだった頃のムトウに出会ったの。


ミュージシャンになったムトウの活躍は、本当にすごかった。


ドラマーがヴォーカルを兼ねると言う独特のスタイルが話題になったのもムトウが有名になった理由の1つだと思うけど、有名になった1番の理由は彼が努力家だったと言うことだと私は思っているわ。


ムトウはジャズミュージシャンとして、どんどんと世界への活躍の幅を広げて行った。


“ミュージシャンとして世界を飛び回る”――10代の頃からの彼の夢がかなった瞬間だった。


だけど…ムトウの躰は、病気に蝕まれていた。


ロンドンでの公演の打ち合わせをしていた時、ムトウが突然激しく咳き込んだと思ったら、口から血を吐き出した。


すぐに彼は病院へ運ばれて、検査を受けたわ。


検査の結果、ムトウは10万人に1人はかかると言われている喉の病気だと診断された。


手術の成功率は20パーセントで、助かる見込みがない病気だって医者に言われた。


それを言われた時のムトウの顔を、私は今でも忘れることができないの。


病気だって言われて、そのうえ助からないって言われて…ムトウの顔は、絶望していた。


それでも彼は心配をかけまいと私たちに笑いかけて、絶対に完治するって宣言した。


ムトウの宣言通り、手術は成功した…だけど、手術後の副作用と処方された薬が彼を苦しめた。


手術後の副作用のせいで、ムトウは自分の思うように声が出せなくなった。


処方された薬のせいで、ムトウは長時間ドラムをたたくことができなくなった。


テナーの声が特徴的だった彼の声がしゃがれてしまったのは、副作用のせいよ。


自分が思うような音楽ができなくなって、ムトウはミュージシャンを引退した。


ムトウは私たちの前から去って行った。


でも…私はムトウにミュージシャンをあきらめて欲しくなかった。


今の今までずっと自分の夢を追い続けてきた彼が、病気が原因で引退することが許せなかったと言った方が正しいかも知れない。


私は仕事を辞めて、ムトウのことを探した。


またジャズミュージシャンとして活躍して欲しい。


またドラムをたたきながら歌を歌って欲しい。


そう願いながら、私はムトウを探し続けた。


ムトウが画家として活躍していることを知ったのは、6年前。


本屋で見かけた美術関係の雑誌からだった。


その表紙をムトウが飾っていたことから、私は彼が画家になったことを知った。


雑誌の関係者や美術の関係者をたどりながら、私はムトウを探し続けた。


そして、やっと見つけた。


この町にムトウがいることを突き止めた。


この町に住んで、絵を描いていることも知ったわ。


ずいぶんと時間がかかってしまったけど、私はすぐさまムトウに会いに行ったわ。


ミュージシャンとしてまた世界を羽ばたいて欲しいって、ムトウにお願いした。


私のお願いを、ムトウは首を横に振って断った。


“もう2度とその世界に戻らない。


自分は絵を描いて、この町で死ぬまでの時間を過ごす”


そう言ったムトウの顔は、私が知らない彼の顔だった。


 * * *


クロエさんは話過ぎたと言うように、息を吐いた。


私たちの間に流れた沈黙を、規則正しい波の音が埋めていた。


その沈黙を破るように、

「――武藤さんは、今でも病気で苦しんでいるんですか?」


私はクロエさんに話しかけた。


「――手術は成功したけど、再発の恐れがあるって医者に言われたの。


ムトウは医者から処方された薬を飲んで、再発を押さえているわ」


クロエさんは私の質問に答えた。


「薬を飲んで、ですか…?」


呟くように言った私に、

「本当に、あなたは何も知らなかったのね」


クロエさんが言った。


彼女に言われた悔しさは、私の中にはもうなかった。


絵を描いて、ご飯を食べて、私と会話を交わして…そんな武藤さんの姿から、私は何も想像できなかった。


ドラムをたたきながら歌っている姿はもちろんのことだけど、彼が病気だと言うことも私は知らなかったうえに想像できなかった。


何で私は、好きな人のことを何にも知らないのだろう?


何で私は、好きな人が病気だと言うことに気づかなかったのだろう?


ミュージシャンだったことや病気のことを教えてくれなかった武藤さんも武藤さんだけど、それを知らなくて気づくことができなかった私も私だ。


「――私は…」


口を開いたら、涙がこぼれ落ちた。


「私は、武藤さんのことを弱い人だなんて思っていません…」


泣きながら言った私に、

「ムトウのことを何も知らなかったのに、どうしてあなたはそんなことが言えるの?」


クロエさんが言った。


「確かに私はあなたの言う通り、武藤さんのことを何も知りませんでした。


でも武藤さんは強い人だと、私は思っています。


自分が経験したから、生きることを切望することができた。


赤の他人のために、涙を流すことができた。


それは、武藤さんが強い人だから。


絵を描いて、副作用と再発に怯えながらも、武藤さんは生きてる。


私はそんな武藤さんを弱虫だなんて思っていません。


武藤さんを弱い人だってバカにしていません。


だから何も知らなくても、私は武藤さんを強い人だと言えるんです」


クロエさんに言い終えたのと同時に、私は泣いている顔を隠すように両手でおおった。


泣いている私の声を隠すように、規則正しい波の音がおおった。


「――あなたは、強い人なのね」


波の音をさえぎるように、クロエさんが言った。


私は隠していた両手を外すと、クロエさんに視線を向けた。


「顔がひどいわ」


クロエさんは呆れたように息を吐くと、私にハンカチを差し出した。


私はクロエさんの手からハンカチを受け取ると、泣いたせいで濡れてしまった顔を拭いた。


「ハンカチは返さなくて結構よ」


クロエさんはそう言った後、海の方に視線を向けた。


「武藤さんに、命を助けられたことがあったんです」


私はクロエさんに話しかけた。


「命を助けられた?


まるで、あなたが死にかけたみたいな言い方ね」


クロエさんは驚いたと言うように聞き返した。


私はクロエさんから差し出されたハンカチを握りしめると、

「死にかけましたよ。


と言うよりも、私から命を手放そうとしたんです」


そう言った私に、

「えっ…?」


クロエさんは訳がわからないと言う顔をした。


私は崖を指差した。


悪魔から逃げるために飛び降り自殺をしようとした、あの崖だ。


クロエさんは私が指を差した方向に視線を向けた。


彼女の視線がそこに向けられたことを確認すると、

「あそこから飛び降りて死のうと思ってたんです。


だけど…武藤さんは死のうとする私を止めた。


あの時、私が命を手放すことを武藤さんが止めてくれなかったら…今の私はここにいなかったと思っています」


私は言った。


あの時武藤さんが私を止めてくれなかったら、私は本当に何も知らないままだった。


恋をすることも、誰かを好きになることも、何も知らないままだった。


誰かを支えたいと言う気持ちも、誰かに信用されたいと言う気持ちも何も知らないまま、私は命を手放そうとした。


それらのことを教えてくれたのは、武藤さんだった。


「大事なことを何にも知らないまま、私はこの世からいなくなろうとしていたんです。


武藤さんが私を止めてくれたから…私は生きて、ここにいることができるんです」


「それが、あなたの強さの秘訣なのね」


そう言ったクロエさんに、

「私が強いかどうかなんて、それは私自身でもわかりません。


自分の強さなんて、自分で見えるものじゃないからわからないです。


でも私はそれらを全部含めて、武藤さんを強い人だって言えます」


私は言った。


「だけどクロエさんの言う通り、私が知らない武藤さんがまだたくさんいると思います。


武藤さんは隠すかも知れないけど、私はそんな彼を知りたいって思っています。


全部は…わがままかも知れないけど、私は武藤さんを知って、武藤さんを支えることができるようになりたいと思っています」


言い終えると、私は息を吐いた。


誰かの前でこんなにもしゃべったのは、今日が初めてかも知れない。


どちらかと言うと、私は人前でしゃべることが苦手だ。


「私とは大違いだわ」


クロエさんはそう言った後、自嘲気味に笑った。


「自分から命を投げ出そうと思ったことがないからかも知れないけど、あなたはムトウのことを深く慕っているのね」


「し、したっ…?」


「簡単に言うなら、ムトウに恋をしているって言う意味」


クロエさんに言われ、私の心臓がドキッと鳴った。


「その様子だと、当たりのようね」


イタズラっ子のように笑ったクロエさんに、私はハンカチを顔に当てた。


「隠さなくても結構よ。


人を好きになることは決して悪いことじゃないわ」


笑いながら言ったクロエさんに、

「――く、クロエさんは…」


私は話しかけた。


「クロエさんは、武藤さんのことが好きだったんですか?」


そう質問した私に、

「残念だけど、私がムトウと出会った時、私にはすでに夫がいたの。


彼に恋愛感情を抱いたこともなければ、感じたこともないわ」


クロエさんは笑いながら言った。


そ、そうなんですか…。


早い話が男として武藤さんのことを見ていなかった、と言うことですよね?


と言うかクロエさん、結婚していたんだ…。


「ああ、私の話をしても仕方がなかったわね」


そう言ったクロエさんに、

「いえ、とんでもないです…」


私は首を横に振って答えた。


「自分の意思で突っ走ろうとした私と違って、あなたはムトウのことを理解して、そのうえ彼を支えようとしている。


本当に私とは大違いだわ。


たとえムトウがあなたの命を助けなくても、あなたはきっと彼を理解して支えようとしていたと私は思うわ」


「それは、私もわからないです…」


首を横に振って答えた私に、

「あなただから、きっとそうよ」


クロエさんが言った。


「少し肌寒くなってきたわね」


思い出したと言うようにクロエさんが言った。


「あっ…」


彼女に言われて、私も気づいた。


海の方に視線を向けると、海は太陽のオレンジ色に染まっていた。


いつの間にか、もうこんな時間になっていたらしい。


「夜になるといけないわ。


帰りましょうか」


クロエさんは流木から腰をあげた。


私も彼女のマネをするように腰をあげた。


「さっきも言ったと思うけど、ハンカチは返さなくてもいいわ」


そう言ったクロエさんに、私は先ほど彼女にハンカチを渡されたことを思い出した。


「でも…」


私がハンカチをこのまま持っていたら、クロエさんは困ってしまうのではないだろうか?


そう思って声をかけた私に、

「ハンカチはまだたくさん持っているから」


クロエさんが返した。


「そうですか…」


私は手の中にあるハンカチに視線を向けた。


隅のところに赤い花の刺繍がある、白いレースのハンカチだった。


「じゃあ、私はもう帰るわ」


そう言って背中を見せたクロエさんに、

「さようなら」


私は言った。


クロエさんの後ろ姿が見えなくなった。


「私も帰ろう」


後少しで日が暮れて、夜になる。


その場から立ち去ろうとした私に、

「果南ちゃん」


聞き覚えのある声が私の名前を呼んだ。


その声に視線を向けると、

「――武藤さん…」


武藤さんだった。


武藤さんは私のところへ駆け寄ると、

「どこへ行ったのかと思ったよ」

と、言った。


その様子から、どうやら武藤さんは私のことを探していたみたいだ。


「すみません…」


そんな彼に、私は呟いているような声で謝った。


「帰ろうか」


武藤さんがそう言って、私に背中を見せた。


彼が歩き出したのと同時に、私も歩き出した。


会話はない。


3歩ほど空いている距離に、私は寂しさを感じた。


武藤さんは私のことを避けているんだと思った。


私は武藤さんのことを弱虫だって思っていない。


武藤さんのことを弱い人だって笑っていない。


そう言いたいのに、この距離を目の前にしたら口を開くことができなかった。


その背中を抱きしめて、彼に言いたい。


あなたは1人じゃないって、言いたい。


知らないことがあったら理解するから、あなたのそばにいたい。


あなたのそばにいて、あなたを支えるからって言いたい。


わがままだって思われてもいい。


お節介だって言われてもいい。


私は武藤さんが好きだから、武藤さんのそばにいたいって思っているの。


武藤さんのそばにいて、武藤さんを支えたいって思っているの。


「――武藤さん…」


私が名前を呼んだのに、彼が私の方を向かなかったのは、私の声が小さかったんだと思いたかった。


クロエさんは私のことを強い人だと言った。


でも…それは私のどこを見て、何を思って、彼女は私のことを強い人だと言ったのだろう?


悪魔から逃げ出すため、命を投げ出そうとしたことがあったのに。


誰にも相談することができなくて、勝手に自分の中で完結させて、自分から命を手放そうとした。


こんな私を、クロエさんはどうして強い人だと言ったのだろう?


武藤さんに距離を置かれて、名前を呼んでも私の方を向かなかったと言う理由だけで、落ち込んでる。


好きな人に振り向いてもらえなかったと言う理由だけで、私は泣きそうになっている。


私は立ち止まった。


武藤さんは私に気づいていないのか、どんどんと先を歩いている。


彼が歩いているせいで、私との距離はだんたんと広がって行く。


気づいてよ、私がここにいることに。


気づいてよ、私との距離に。


気づいてよ、私が今泣きそうになっていることに。


「――武藤、さん…」


名前を呼んだから振り向いてよ。


私の方を見てよ。


気づいてくれないことに泣きそうになって、振り向いてくれないことに泣きそうになって、私はその場に座り込んだ。


「――ッ、くっ…」


悪魔から逃げられない恐怖と自分が弱い悔しさで、涙を流した。


自分を責める武藤さんに私が悪いと言って、涙を流した。


その2つに比べたら、今の方がずっとつらい。


好きな人に気づいてもらえなかったことと好きな人に振り向いてくれなかったことがつらくて、私は涙を流した。


タタタッと、前の方から足音が聞こえた。


足音に視線を向けると、

「――果南ちゃん!?」


武藤さんだった。


私の顔を見た武藤さんは、

「どうして、泣いてるの…?」


驚いた顔をして私に聞いた。


「まさかあいつが…!?」


首を動かして周りを見回した武藤さんに、

「ち、違います…」


私は首を横に振った。


「警察に捕まっているから、くる訳ないじゃないですか…」


呟くようにそう言った私に、

「ああ、そうだったね。


忘れていたよ…」


武藤さんは呟くように言って、頭をガシガシとかいた。


「すみません…」


私は小さな声で謝ると、立ちあがった。


「今度こそ、帰ろうか」


そう言った武藤さんに、

「はい」


私は首を縦に振ってうなずいた。


武藤さんは私の隣に並んだ。


「えっ?」


いつもは私の前を歩いているのに。


武藤さんは私の頭の中を読んだと言うように、

「歩くスピードが速過ぎた」

と、笑いながら言った。


「それに果南ちゃんの身に何かが起こった時、いつでもすぐに守れるでしょ?」


「――ッ…」


私の心臓がドキッと鳴った。


また、武藤さんのことを好きになっちゃうじゃない…。


名前を呼んだのに振り向いてもらえなかったことと立ち止まった私に気づいてもらえなかったことがつらくて泣いたことなんて、もう忘れてしまった。


武藤さんが空を見あげた。


「今日は三日月だね」


武藤さんに言われて、私も空を見あげた。


黒い夜空に、銀色の小さな三日月が浮かんでいた。


「久しぶりに月を見たな」


武藤さんがそう言ったので、

「そうですね」


私は返事をした。


そう言えば、月を見るのは本当に久しぶりだった。


武藤さんは空に向けていた視線を私に向けると、

「今度こそ、本当に帰ろう」

と、言った。


「はい」


私が首を振って縦にうなずいたことを確認すると、武藤さんは歩き出した。


彼について行くために、私も一緒に歩き出した。


隣に好きな人がいて、私の心臓がドキドキと鳴っている。


それがとても嬉しくて幸せなことだって言うことも、生きていなければ知らなかったことだった。


私の隣に武藤さんがいて、武藤さんの隣に私がいる。


だけど、お互いの距離は空いたままだった。


私が手を伸ばしたら、武藤さんと手を繋ぐことができるくらいに近い距離。


こんなわずかな距離なのに、私の胸は痛くなる。


武藤さんと手を繋ぎたい。


手を繋いで、この距離を縮めたい。


そう思うのは簡単なことなのに、それを実行に移すことができない。


こんな簡単なことができない私は、弱い人だ。


家に帰るまでの道のりは、私と武藤さんは一言も言葉を発しなかった。


そのせいもあってか、家につくまでの時間がずいぶんと長かったような気がする。


好きな人と会話がないと言うのは、こんなにも寂しいことなんだ。


これも、私が生きているからこそ知ったことだ。


武藤さんと話がしたい。


武藤さんと笑いたい。


そのためには、私は何をすればいいの?


何をすれば、私と武藤さんとの間にある距離は埋まるの?


そんなことを思う私は、こんなにも欲張りでわがままな性格だったなんて…。


自分でも気づかなかった性格に、私は少し戸惑った。


もしあの時死んでいたら、私は最後まで自分の性格に気づかないままだった。


先に家の中に入った武藤さんの後を追うように、私も家の中に足を踏み入れた。

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