桜の下で誓ったこと

空気の冷たさを肌で感じて、私は閉じていた目をゆっくりと開いた。


鉛筆を動かしている音が聞こえる。


「――んっ、武藤さん…?」


私のそばにいるであろう夫の名前を呼んだら、

「ああ、起こしちゃった?」


スケッチブックと鉛筆を持った武藤さんと目があった。


私が目を覚ますまで絵を描いていたらしい。


武藤さんの格好は上は裸だけど、下はズボンを履いていると言うおかしな格好だった。


そう言っている私の躰には毛布が巻かれていた。


武藤さんとさっきまでそう言うことをしていた証拠だ。


「寒くないですか?」


私は武藤さんに聞いた。


この部屋には暖房器具が置いていない。


外では強い北風が吹いていて、ガタガタと窓を大きく揺らしている。


下はズボンを履いているから寒くないかも知れないけど、上は何も身につけていないから寒いはずだ。


「寒くないよ。


むしろ、まだ暑いくらい」


武藤さんは笑いながら私の質問に答えた。


「暑いって…」


少し呆れながら、私は武藤さんの手の中にあるスケッチブックを覗き込んだ。


「なっ…!?」


そこに描いてあった絵に、私は自分の顔が赤くなって行くのがわかった。


「武藤さん、その絵って…?」


「えっ、見ちゃったの?」


武藤さんは隠す必要がないと言うように私にスケッチブックを見せてきた。


スケッチブックに描いてあったその絵は、私の寝顔だった。


「果南ちゃんの顔があまりにもかわいかったから、つい…」


武藤さんは笑いながら言った。


「もう、今すぐ消してくださいな!」


そう言った私に、

「ヤだよ、せっかく上手に描けたのに」


武藤さんはスケッチブックを私から遠ざけた。


「武藤さん!」


「おわっ…!?」


気がついたら、武藤さんは私の下にいて、私を見あげていた。


床の冷たい感触が手のひらに伝わってくる。


「あー、思った以上にいい眺めだね」


下から私を見あげながら、武藤さんがそんなことを言った。


「えっ?」


私は自分の格好に気づいた。


「きゃっ!」


武藤さんに気をとられていたせいで、すっかり忘れてしまっていた。


私は慌てて落ちてしまった毛布を拾いあげると、躰に巻きつけた。


「夫婦なんだから、今さら隠さなくてもいいじゃない」


武藤さんが言ってきた。


「そ、それはそうですけど…!」


武藤さんの言う通り、私たちは夫婦だから今さら躰を隠す必要なんてない。


「それ以外の果南ちゃんのヌードシーンなんてめったに見れないんだし」


「ぬ、ヌードって…」


どうしてそんな恥ずかしいことをサラリと言ってしまうのだろう?


「果南ちゃん、お願いだから俺を許してよ」


そう言って武藤さんは私を抱きしめてきた。


「それが無理なら、俺を温めて?」


「意味がわからないですよ…」


武藤さんは変わった人だったと言うことをすっかり忘れていた。


彼が変わった人だと言うことに気づくのが、どうして私が忘れた頃ばかりなのだろう?


「果南ちゃん」


私の名前を呼んだ武藤さんに、私は彼の首の後ろに自分の両手を回した。


ギュッと抱きしめた後、自分の唇と武藤さんの唇を重ねた。


そっと、武藤さんが大切なものを扱うように私を優しく押し倒した。



その日も私は武藤さんと手を繋いで、一緒に砂浜を歩いていた。


海からやってくる風は冷たくて仕方がない。


だけど、武藤さんと繋いでいるこの手は温かかった。


海を見ながらの武藤さんとの散歩は、3日に1回の習慣となっていた。


「寒いね」


武藤さんが言った。


「寒いですね」


私は答えた。


「温かくなるのはまだ先ですかね?」


そう言った私に、

「温かくなったら果南ちゃんと一緒にお花見したいね」


武藤さんが笑いながら言った。


「そうですね」


私は笑いながら答えた。


――果南ちゃんがまだ生きていたら、一緒にお花見をしようか?


出会った頃に交わされたその約束がかなうまで、後少しになってきた。


あの時はそんな約束がかなう訳がないとか、死にたくても死ねないじゃないかと思っていた。


だけどこの季節が終わって、温かくなったら、テラスの桜の花が咲く。


それを武藤さんと2人で見ることができると思うと、私は生きていてよかったと心の底から思った。


「来年はもちろんのことだけど、再来年も果南ちゃんと一緒にお花見がしたいな」


武藤さんが言った。


「私もそう思います。


私も武藤さんと一緒にお花見をしたいって思っています」


そう言った私に、

「嬉しいことを言ってくれるね」


武藤さんは笑いながら言った。


その時、

「――うっ…」


胸に吐き気が込みあげてきた。


私は手で隠すように口を押さえ、吐き気を押し込んだ。


吐き気はすぐに消えて行った。


「どうしたの?」


私の様子に、武藤さんが顔を覗き込んで聞いてきた。


「えっと、少し吐き気がしただけです」


私は武藤さんの質問に答えた。


「もしかしたら、躰が冷えちゃったのかな?」


そう言った後、武藤さんはコツンと自分の額を私の額に当てた。


「少し熱があるかも知れない…。


今日はもう帰ろうか?」


そう言った武藤さんに、私は首を縦に振ってうなずいた。



一晩眠ったら治るだろうと思っていたけど、

「果南ちゃん、大丈夫?」


武藤さんが切ったばかりのりんごを私に差し出してきた。


あの日以来から微熱は続き、躰もトイレに行くことすらもしんどいくらいダルくなっていた。


「――いらないです…」


首を横に振りながら言った声は、自分でも驚くくらいに弱々しかった。


そのうえ、何か食べ物を口にしても吐いてしまうと言う状態だった。


「でも少しでも何かを食べないと、躰がつらいだけだよ?


ただでさえ、果南ちゃんは躰が細いんだから」


武藤さんにそう言われて、私は彼が持っているりんごを1口かじった。


口を動かして噛み砕くけど、飲み込むことができない。


「はい、水」


武藤さんが水が入ったコップを私に差し出してきた。


それを1口飲むと、噛み砕いたりんごと一緒に胃の中に流し込んだ。


「――ううっ…」


流し込んだとたんに、胃の中で不快感を感じた。


私は今口に入れたものを吐かないようにと、手で隠すように口をおおった。


「大丈夫?」


武藤さんが私の顔を覗き込んで聞いてきた。


「はい…」


私は首を縦に振ってうなずいた。


武藤さんは私の額に自分の手を当てた。


「1回、病院に行った方がいいかも知れない」


武藤さんが言った。


「ただの風邪かも知れないけど、医者に診断してもらった方がいいと思う」


そう言った武藤さんに、私は首を縦に振ってうなずくことしかできなかった。



武藤さんに支えられるように、私は病院へと向かった。


「おめでとうございます」


そう言った女医の言葉に、私は自分が何を言われたのかよくわからなかった。


何故か私たちが案内されたところは産婦人科で、そこで簡単な検査をした後で女医から言われた言葉がこれだった。


回転式の丸椅子に座っている私の横で、武藤さんは訳がわからないと言うように首を傾げている。


「――あの、何が…?」


私は目の前でニコニコと笑っている女医に質問をした。


「妊娠しています」


ニコニコと笑っているその顔を崩さないで、女医が言った。


「えっ!?」


私と武藤さんの声がそろった。


「に、妊娠って、私がですか!?」


驚きながら聞いた私に、

「この様子だと、妊娠3ヶ月目と言うところですね」


女医が言った。


「さ、3ヶ月ですか…」


武藤さんは衝撃を受けている。


風邪だと思っていたのに、まさかの妊娠だった。


私は自分のお腹に自分の手を当てた。


この中に私と武藤さんの赤ちゃんがいるんだと思うと、私は嬉しくなった。


「果南ちゃん、やったな!」


そう言った武藤さんの方に視線を向けると、武藤さんの目は潤んでいた。


私も嬉しいのはもちろんのことだけど、喜んでいる武藤さんも嬉しいんだと思った。


「はい」


私は首を縦に振ってうなずいた。



病院からの帰り道も、武藤さんは私を支えていた。


「武藤さん、そんなことしなくても歩けるから大丈夫ですよ」


私は武藤さんに言った。


「でも心配だから仕方がないじゃないか。


もし、果南ちゃんと赤ちゃんの身に何かがあったらどうするの?」


武藤さんのあまりの過保護ぶりに、私は苦笑いしながら彼に従うしか他がなかった。


私の妊娠がわかって以来、

「はい、レモン氷ね」


武藤さんは私の前にレモン果汁が入った氷を差し出した。


「ありがとうございます」


私はお礼を言うと、指でレモン氷をつまんで口に含んだ。


レモン氷を口に含んだことによって、それまで気持ち悪かった口の中がサッパリと気持ちよくなった。



私の妊娠がわかって以来、武藤さんが自分から進んで家事をするようになった。


以前みたいにケガをしている訳じゃないから家事をしても大丈夫だって言ったけど、

「心配だし、何かあったら困るから」

と、武藤さんに言われてしまった。


…武藤さんが作るご飯は美味しいからいいけど。


家事が全部終わったら、絵を描くことは変わっていなかった。


絵を描いていると言っても油絵ではなく、スケッチブックで鉛筆画を描いているだけである。


「油絵はもう描かないんですか?」


私は武藤さんに聞いた。


武藤さんが今スケッチブックに描いているのは、りんごの絵だった。


「描かないって言う訳じゃないよ」


武藤さんは鉛筆を動かしていた手を止めた。


「じゃあ、どうしてなんですか?」


そう聞いた私に、

「油絵の具だと果南ちゃんが気持ち悪くなっちゃうでしょう?」


武藤さんが答えた。


妊娠してわかったことだけど、食べ物や洗剤などの何気ない匂いで気持ち悪いと感じてしまうようになった。


女医曰く、匂いに敏感になるのは妊娠初期ではよくあることだと言っていた。


「赤ちゃんが生まれたら、また油絵を描くから」


そう言った武藤さんに、

「楽しみにしています」


私は答えた。


私はお腹に手を当てると、

「お父さんが油絵を描いているところを見せてくれるんですって」

と、我が子に話しかけた。


話しかけた私に、

「声聞こえるの?」


武藤さんが不思議そうに首を傾げた。


「私たちの声がこの子に聞こえるかどうかはわからないんですけど、何だか答えてくれるような気がするんです」


私は笑いながら武藤さんの質問に答えた。


「答えてくれるような気がするって…」


武藤さんは苦笑いをした後、床のうえにスケッチブックと鉛筆を置いた。


それから私のお腹に自分の顔を近づけると、

「聞こえるかな?


お父さんですよー」

と、武藤さんは話しかけた。


「武藤さんったら」


それがおかしくて、私は思わず笑ってしまった。


「答えてくれたかな?」


そう聞いてきた武藤さんに、

「武藤さんの声は聞こえたと思いますよ」


私は言った。


「そうか」


武藤さんは呟くように返事をした後、

「赤ちゃんの性別はどっちなんだろうね?」


そう言った後、私のお腹に手を伸ばすとなでた。


「まだわからないですよ。


性別がわかるのは早くても16週目なんだそうですよ」


私は言った。


「16週目か…。


まだ先になっちゃうんだね」


武藤さんは私のお腹をなでていた手を離した。


「武藤さんはどっちだと予想しているんですか?」


私は聞いた。


「俺?


そうだなあ…」


武藤さんは考えるように少し口を閉じると、

「どっちでもいいかな」

と、言った。


「えっ、どっちでもいいんですか…?」


私は少し驚いた。


わりとあっさりとした答えに、私は戸惑ってしまった。


赤ちゃんの性別のことを聞いてきたくらいだから、そう言うのを気にするのかなって思っていたんだけどな…。


私の頭の中を読んだと言うように、

「俺はね、元気に生まれてきてくれたら性別はどっちでもいいって思っているんだ」

と、武藤さんが言った。


「病気が子供に遺伝しなければ、俺はそれでいいって思ってる」


「武藤さん…」


そうか…。


病気のこともあるから、そんなことを言ったんだ。


「――武藤さん…」


私は武藤さんの名前を呼ぶと、彼の首の後ろに両手を回した。


武藤さんはそれに答えるように、私の背中に自分の両手を回した。


「今でも、俺は夢を見ているんじゃないかと思うんだ。


愛する人に出会って、愛する人と結婚して、愛する人と子供を儲けた――それらの出来事が俺の都合のいい夢なんじゃないかって思っているんだ。


今の今まで、ずっと1人で生きてきたから」


武藤さんが言った。


私はコツンと、自分の額と武藤さんの額を重ねた。


「――武藤さんはもう1人じゃないですよ」


私は言った。


「武藤さんのそばには私がいて、この子がいます。


だから、武藤さんはもう1人じゃないですよ」


「――果南…」


武藤さんが私の名前を呼んだ。


私は目を閉じた。


武藤さんの唇が、私の唇と重なった。


愛する人に抱きしめられること、愛する人とキスすることが、こんなにも嬉しいことだなんて私は知らなかった。


武藤さんの唇が離れたのと同時に、私は目を開けた。


「――まあ、強いて言うならだけど」


武藤さんが言った。


「――強いて言うなら、ですか?」


私は聞いた。


武藤さんは何を言うのだろうか?


そう思った私に武藤さんは笑うと、

「生まれてくる子供は、果南ちゃんに似ているといいなって」

と、言った。


「えっ…?


私に、ですか?」


私は聞き返した。


「うん、果南ちゃんに似ている子供が生まれてくるといいなって」


武藤さんは笑いながら言った。


そんなことを言われた私は、

「そ、それはどうですかね…?」


戸惑うことしかできなかった。


それは本当にもう少し先にならないとわからないことのような気がする…。



お腹の中の赤ちゃんはすくすくと元気に育って行った。


冷たい風が吹いていない、温かい日のことだった。


「果南ちゃん、できたよー!」


テラスの方から武藤さんが声をかけてきた。


武藤さんはテラスの方で朝から何かをしていた。


私はソファーから腰をあげると、

「何ができたんですか?」


すっかり重くなったお腹を動かしながら、テラスの方へと足を向かわせた。


私がテラスにつくと、木製の小さなベッドがあった。


「何ですか、これ?」


そう聞いた私に、

「ベビーベッド」


武藤さんが答えた。


「ベビーベッド、ですか?」


「赤ちゃんを寝かせるためのベッドだよ」


…意味はわかっていますよ。


「でも、ちょっと早くないですか?」


まだ赤ちゃんは生まれていないのに…。


そう思った私に、

「何事も早めに準備をした方がいいと思うよ」


武藤さんが言った。


それから、武藤さんは桜の木に視線を向けた。


「蕾がふくらんでる…。


もう少ししたら、桜が咲きそうだね」


武藤さんのマネをするように私も桜の木に視線を向けると、確かに蕾がふくらんでいた。


「楽しみですね」


私は言った。


「そうだね、楽しみだね」


武藤さんが答えた。


「果南ちゃんに出会ってから、もうすぐで1年になるんだね」


武藤さんがそう言ったので、

「そうですね」


私は答えた。


時間が経つのは早いと思った。


私は桜の蕾を見ながら、今日までの出来事を思い返していた。


武藤さんに出会って、一緒に住み始めた日。


悪魔から武藤さんに守ってもらって、武藤さんを好きになった日。


秘密を知ってしまったけど、武藤さんを支えたいと決意して、武藤さんに思いを伝えて結ばれた日。


悪魔から解放されて、武藤さんと前を向いて歩こうと決意した日。


私の両親に結婚を認めるため、武藤さんと頭を下げた日。


武藤さんと結婚式を挙げた日。


私の妊娠がわかって、武藤さんと一緒に喜んだ日。


そして、今日。


――どうせ終わりにする命なら、その命を俺にくれないか?


武藤さん、出会った日に私と交わした約束を覚えていますか?


武藤さんは私を道連れにするための約束だったって言っていたけど、私はその約束は今でも続いているんじゃないかと思っています。


「武藤さん」


私は武藤さんの名前を呼んだ。


「何?」


武藤さんが言った。


「私は…武藤さんと出会って約束を交わしたその日から、私はあなたに恋をしていたんだと思います」


そう言った私に、

「約束はもうかなったようなものだから忘れてくれてもいいのに…」


武藤さんは照れくさそうに笑った。


「たとえ死ぬ時がきたとしても、俺は果南ちゃんのそばにいることを約束するよ」


武藤さんが言った。


「私も、武藤さんのそばにいることを約束します」


そう言った私に、武藤さんは笑いながら小指を差し出した。


私は目の前に差し出された武藤さんの小指を自分の小指と絡めた。



目を開けると、躰が桜の花びらで埋まっていた。


いつの間にか、私は眠ってしまっていたみたいだ。


「――果南ちゃん」


私を抱きしめている腕の主を見あげると、武藤さんが私を見つめていた。


「――武藤さん」


私は武藤さんの名前を呼んだ。


武藤さんは私に向かって笑うと、

「桜がキレイだね」

と、言った。


「キレイですね」


私は言った。


「来年も、再来年も…いや、この先もずっと一緒にお花見をしようか?」


そう言った武藤さんに、

「はい」


私は首を縦に振ってうなずいた。


武藤さんは大切なものを扱うように、私を抱きしめた。


私は武藤さんに全てを委ねる。


武藤さんが、私の名前を呼んだ。


「――果南…」


☆★END☆★

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ヴァニタス 名古屋ゆりあ @yuriarhythm0214

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