2人だけの結婚式

それから2ヶ月後。


激しく鳴いているセミに夏も真ん中くらいに入ったんだなと感じた。


「ここが果南ちゃんが生まれ育った家なんだ」


武藤さんが言った。


2階建ての白い壁が特徴的なこの家は、私が大学を卒業するまでに過ごした家…つまり、私の実家だ。


白い壁が太陽に反射されて、キラキラと輝いているように見える。


この年齢なのに実家に帰ることに緊張しているのは、自分から2年間音通不信にしてたのももちろんある。


「果南ちゃん」


武藤さんが私の名前を呼んだ。


「ご両親にもちゃんと事情を話したんでしょう?」


そう聞いてきた武藤さんに、

「そうですけど…」


私は首を縦に振ってうなずいた。


「きっと、ちゃんとわかってくれてるよ」


武藤さんが励ますように私に言うけど、それでも私の中の不安は消えなかった。


「果南ちゃんのお父さんに1発殴られる覚悟はしてるから大丈夫だよ」


笑いながらそんなことを言った武藤さんに、

「武藤さん!」


私は彼をたしなめるように名前を呼んだ。


「ごめん、言い過ぎた」


武藤さんは私の頭のうえにポンと自分の手を置いた。


「殴られたら嫌です」


呟くように言った私に、

「うん、わかってるよ」


武藤さんは言った。


「じゃあ、チャイムを鳴らして」


そう言った武藤さんに、

「はい」


私は首を縦に振ってうなずくと、チャイムのボタンを押した。


 * * *


今から2ヶ月前のこと。


悪魔が閉鎖病棟に入院したことを聞いた翌日、私はいつものように武藤さんのお見舞いに訪れた。


「武藤さん…」


ドアを開けた瞬間、私は驚いた。


「やあ、果南ちゃん」


武藤さんが私の名前を呼ぶと、私に向かって手を振ってきた。


「こんにちは」


武藤さんの隣に立って私にあいさつをしてきたのは、

「クロエさん…」


クロエさんだった。


「あ…どうも、こんにちは」


私はクロエさんにあいさつを返した。


クロエさんもお見舞いにきていたんだ…。


彼女も武藤さんの関係者だから、彼のお見舞いにくるのは当然のことだろう。


私はクロエさんから借りたハンカチがポケットの中に入っていることを思い出した。


クロエさんは返さなくていいって言ったけど、借りた物はちゃんと返さないといけないよね。


私はクロエさんに歩み寄ると、

「あの…ハンカチ、ありがとうございました」


ポケットからハンカチを出すと、クロエさんの前に差し出した。


「えっ…そんな、別にいいのに…」


クロエさんは顔の前で手を横に振った。


武藤さんは不思議そうな顔で、私とクロエさんを見つめている。


「でも、お借りした物ですから…」


呟くようにそう言った私に、

「そう、こちらこそ…」


クロエさんは私の手からハンカチを受け取った。


「果南ちゃん、いつの間にクロエと仲良くなったの?」


武藤さんが聞いてきた。


すねたような彼の様子に、私とクロエさんは顔を見あわせるとクスクスと笑った。


「ムトウ、ヤキモチ焼きの男は嫌われるわよ」


クロエさんがたしなめるように武藤さんに言った。


「なっ…!」


武藤さんはその後の言葉が続かないと言うようにポカーンと口を開けた。


クロエさんは私を見ると、

「ほんの少しでいいから、私とお話しない?」

と、言った。


「えっ…ああ、はい…」


話って一体何だろう?


そう思いながら、私は首を縦に振ってうなずいた。


クロエさんと一緒に武藤さんの病室を出ると、

「ハンカチ、ありがとうね」

と、言った。


「こちらこそ、ありがとうございました」


お礼を返した後、私はペコリと小さく頭を下げた。


頭をあげた時、私はふと気づいた。


「あの…」


「何かしら?」


「どうして、武藤さんが入院していることがわかったんですか?」


私はクロエさんに質問した。


武藤さんが入院したことをクロエさんに言っていなかったことを思い出した。


なのに、どうしてクロエさんは武藤さんが入院したことがわかったうえに病院を訪ねてきたのだろう?


私の質問に、

「知らなかったの?」


クロエさんは驚いたと言う顔をした。


「えっ…?」


私は驚いた。


知らなかったのって、何を?


何を私は知らなかったと言うのだろう?


クロエさんと噛みあわなくなってしまった会話に私は戸惑った。


「新聞やニュースを見なかったの?」


そう聞いてきたクロエさんに、

「…見ていないです」


私は答えた。


新聞はとっていないし、家にテレビが置いていないから当然ニュースは見ていない。


クロエさんは呆れたと言うように息を吐くと、

「ムトウに言ってくれるかしら?


テレビはともかく、新聞はとった方がいいわよって」

と、言った。


「ああ、はい…」


私は戸惑いながらも首を縦に振ってうなずいた。


「少しだけだけど、新聞にこの間の事件が載っていたの。


テレビでも1分ほどだけど、ニュースで紹介されてた」


クロエさんが言った。


「…そうなんですか?」


私は聞き返した。


まさか、テレビのニュースや新聞などのメディアを通じてあの時の事件が流れているとは思っても見なかった。


警察は周辺の住民から“大きな声を出して暴れている男がいる”と言う通報を受けて駆けつけたと言っていたからだ。


「傷害事件として報道されていたわ」


そう答えたクロエさんに、

「私と武藤さんの名前はそこに出ていましたか?」


私は聞いた。


メディアを通じて報道されたと言うなら、当然そこに私と武藤さんの名前が出ているはずだ。


「新聞には“20代の男が40代の男を刺した”と文字で書いてあっただけだけど、ニュースでは被害者の名前――つまり、ムトウが出ていたわ」


クロエさんが私の質問に答えた。


「そうだったんですか…」


私は呟くように答えた。


何も知らなかった私も私だけど、また武藤さんに迷惑をかけてしまった。


本当だったら、あの時悪魔に刺されるのは武藤さんじゃなくて私だったのだ。


「あなたは悪くないわ。


むしろ、あなたは被害者だったんでしょう?」


クロエさんが言った。


「あの、それも…」


ニュースや新聞で報道されていたんですか?


そう言おうとした私の頭の中を読んだと言うように、

「内容の方はムトウに全部聞いたわ。


ニュースや新聞は詳しいことを言っていなかった」


クロエさんが言った。


詳しいことを報道されていなかったことに、私はホッと胸をなで下ろした。


クロエさんは私の顔を覗き込むと、

「ムトウはストーカーからあなたを助けた。


それは彼自身の意思で行動したことなんでしょう?


ムトウはあなたを守るためにストーカーと戦ってストーカーに立ち向かった、それが事件の詳しいことでしょう?」

と、言った。


「はい」


私は首を縦に振ってうなずいた。


「ムトウも無事でよかったけど、1番はあなたも無事だったってこと。


加害者が罪に問われないのは悔しいことだけど、結果的にはあなたはもうストーカーに追われることもなければ命を狙われることもなくなった。


これからは、あなたはムトウと一緒に幸せになれるのよ」


クロエさんは私の頭のうえにポンと自分の手を置いた。


「今の今まで後ろ向きで生きてきた分、これからは前を見て幸せになることだけを考えなさい」


そう言ったクロエさんに、

「はい」


私は首を縦に振ってうなずいた。


「じゃあ、私はもうこれで帰るわ」


クロエさんの手が私の頭から離れた。


「武藤さんに会わないんですか?」


そう聞いた私に、

「ムトウと2人にした方が話しやすいでしょう?」


クロエさんはそう言ってイタズラっ子のように笑った。


「えっ、なっ…!?」


自分の顔が熱くなったのが、自分でもよくわかった。


クロエさんはフフッと笑うと、

「ハンカチ返してくれて、どうもありがとう」


お礼を言って、私に背中を見せた。


クロエさんの背中を見送った後、私は武藤さんの病室に足を踏み入れた。


武藤さんが横になっているベッドの隣にあるパイプ椅子に腰を下ろした私に、

「クロエと何の話をしていたんだ?」


武藤さんが聞いてきた。


「事件のことを少し聞かれました」


私は武藤さんの質問に答えた。


「やっぱり、果南ちゃんにも聞いてきたか」


武藤さんはわかっていたと言うように呟いた。


「後は、幸せに…って言われました」


続けて答えた私に、

「俺と同じことを聞いて、同じことを言われたんだ」


武藤さんはクスクスと笑った。


「武藤さんもクロエさんに言われたんですか?」


そう聞いた私に、

「ああ、愛する人とお幸せに…ってな」


武藤さんが答えた。


「愛する人って…」


それが自分のことを言っていることはすぐにわかった。


「それに対して俺は、“近いうちに果南ちゃんと夫婦になる”って答えた」


そう言った武藤さんに、

「えっ…?」


私は驚いて聞き返した。


夫婦って…それはつまり、

「結婚のことだよ」


武藤さんが私の頭の中を読んだと言うように答えた。


「けっ…!?」


結婚って、私と武藤さんが…だよね?


戸惑っている私に、

「すぐにとは言わないよ。


病気は落ち着いたけど、傷はまだ完全に治った訳じゃない。


傷が治ってもやることはたくさんある。


俺の両親はとうに亡くなったけど、果南ちゃんの両親はまだ生きているんでしょう?」

と、武藤さんが言った。


「はい、まだ生きています」


私は首を縦に振ってうなずいて答えた。


「傷が治ったら、果南ちゃんと一緒に果南ちゃんの両親にあいさつに行って“娘さんを僕にください”って言って…」


そこまで言ったとたん、

「怒られるかな?」

と、武藤さんが言った。


怒られる?


それはどう言う意味だろう?


と言うよりも、

「誰に怒られるって言うんですか?」


私は首を傾げて武藤さんに聞いた。


武藤さんは笑いながら、

「果南ちゃんのお父さんにだよ。


お母さんはともかく、お父さんに俺は怒られるかなって」

と、答えた。


「な、何で武藤さんがお父さんに怒られちゃうんですか?」


私はよくわからなくて、武藤さんに聞いた。


「だって、どこの馬の骨ともわからないような男が果南ちゃんと結婚するとなると、お父さんは相当ショックを受けるんじゃないかなって」


笑いながらそう言った武藤さんに、

「ちゃんと話をすればわかってくれますよ。


武藤さんは画家で、私は画家の奥さんになるんですから」

と、私はなだめるように言った。


「そうだね、よかったよ」


武藤さんが笑ったので、私も笑った。


そうだ。


悪魔に追いかけられることもなくなったんだから、両親にちゃんと話をしなきゃ。


2年間自分から音信不通にしていたから怒られるかな?


どのみちよくわからないけど、武藤さんと一緒にあいさつに行く前に私の方から話をしようと思った。



面会時間が終わりに近づいた頃。


「じゃあ、また明日もきますね」


「気をつけて帰ってね」


武藤さんに手を振られて、私は病室を後にした。


病室を後にすると、ナースセンターに足を向かわせた。


私はナースセンターの近くにある公衆電話を指差すと、

「すみません、少しだけお電話をしてもよろしいでしょうか?」

と、看護師さんに聞いた。


「ええ、いいですよ」


看護師さんは首を縦に振って答えた。


「10円玉10枚で終わるかな?」


私は小さく呟いた後、ポケットから10枚の10円玉を出した。


先ほどトイレに行くついでに売店で100円玉1枚と両替してもらったのだ。


私は10枚の10円玉を緑色の公衆電話のうえに置いた。


受話器を持つと、深呼吸をした。


落ち着け、私。


10円玉を1枚入れると、実家の電話番号を押した。


忘れていると思っていたけど、躰はまだ覚えていたみたいでホッとした。


受話器を耳に当てると、

「はい、もしもし?」


そこから聞こえた懐かしい母の声に、私は涙が出てきそうになった。


泣くのは後だと自分に言い聞かせると、

「――もしもし…私、果南です」


私は自分の名前を言った。


「――果南…?」


母は驚いたと言うように私の名前を呟いた後、

「果南なの!?」


叫ぶように、私の名前を呼んだ。


久しぶりに自分の名前を呼んでくれた母に、私の目から涙がこぼれ落ちた。


「――お母、さん…」


私は涙のせいで震えている声で、お母さんを呼んだ。


「果南なのね!?


そうなのね!?


果南なのね!?」


何度も私の名前を叫んでいる母に、

「私だよ…。


果南だよ…。


果南だよ…」


私は泣きながら自分の名前を何度も言った。


「2年間も音信不通になってて、ごめんなさい…」


私は震えている手で10円玉を1枚入れた。


「いいのよ、果南が元気で無事ならそれでいいのよ」


電話越しだから顔は見えないけど、声の様子から母も泣いているんだと言うことがわかった。


「あなた、果南から電話です!」


母が言った。


すぐそばに父がいたのだろう。


「果南からか!?


代わってくれ!」


電話越しから聞こえた父の声に、私は泣き崩れた。


「果南!」


私の名前を呼んだ父の声に、

「お父さん、私です…。


果南です…」


私は泣きながら自分の名前を言った。


「2年間も連絡がなかったから心配したんだぞ!?


携帯電話にかけても解約されてたうえに、お前が住んでいたところを訪ねて行っても引っ越しをした後だった。


心配したんだぞ!?」


不謹慎だけど、父が私を怒鳴ってくれたことが嬉しくて仕方がなかった。


両親が本当に心の底から私のことを心配していたんだと思った。


「ごめんなさい…」


私は泣きながら謝った。


私はフラフラと立ちあがると、10円玉に手を伸ばした。


チャリンと、10円玉を1枚入れた。


「本当に、果南なんだな?」


確認するように私の名前を呼んだ父に、

「はい、果南です」


私は自分の名前を言った。


「無事でよかった…」


声の様子から、父も泣いているんだと私は思った。


私は音信不通にしていた2年間の出来事を全て父に話した。


話し終えると、

「何で相談してくれなかったんだ…!?」


父に泣きながら怒鳴られた。


「ごめんなさい…。


相談したら、お父さんとお母さんがひどい目にあわされると思ったから…。


ごめんなさい…」


私は泣きながら何度も謝った。


「でも…でも、果南が無事でよかった…」


「ごめんなさい…」


「それで、今はどこにいるんだ?」


父が泣きながら聞いてきた。


「今はね、海が見える町で、私を守って、私を支えてくれた男の人と一緒に暮らしてる…」


私は泣きながら質問に答えた。


「そうか…。


よかった、よかったよ…」


泣きながら言った父に、

「お父さん、本当にごめんなさい…」


私はまた謝った。


「いや、果南が無事ならもういいんだ。


今の電話はその人の家からかけているのか?」


そう聞いてきた父に、

「電話は、病院からかけてる…。


彼の家は電話が置いていないから…」


私は答えた。


「そうか、ならよかったよ」


父が言った。


「また電話してくれるか?」


そう聞いてきた父に、

「うん、また電話するね」


私は答えた。


「じゃあ、またな」


「またね」


久しぶりに聞いた両親の声に名残惜しさを感じた。


でも、泣きながら電話をしている私を不思議そうに見ている周りの視線から逃げるためにも電話を終わらせないといけない。


ガチャンと、受話器に公衆電話を置いた。


「あっ、もう10円がない…」


10枚あったはずの10円玉はもうなかった。


それくらい、私は話しこんでしまっていたらしい。


私は涙をふいて、周りに視線を向けた。


「すみません、お騒がせしました」


そう言った後、私を不思議そうに見ている人たちにペコリと頭を下げた。



翌日。


その日も私は武藤さんの病室へ行く前に、売店で100円1枚を10円玉10枚に両替をした。


武藤さんの病室のドアを開けると、

「武藤さん」


ベッドのうえに腰を下ろしている彼がいた。


武藤さんの手には鉛筆とスケッチブックがあった。


「あの、もう横にならなくてもいいんですか?」


武藤さんに駆け寄った私に、

「傷口はだいぶふさがったから、もう動いてもいいって言われたんだ」

と、武藤さんが言った。


「歩くとまだ痛むけど、遅くても1週間くらいの辛抱だね」


武藤さんは笑いながら言った。


「それで、早速売店に行って鉛筆とスケッチブックを買ったんですか?」


そう聞いた私に、

「そろそろ絵を描かないと腕が鈍っちゃうと思ったから買ったんだ。


退院するまでのリハビリだね」


武藤さんは笑いながら答えた。


「何を描いていたんですか?」


私はいつものようにベッドの横のパイプ椅子に腰を下ろした。


「まだ書き始めたばっかりだけど…」


武藤さんは呟くように答えた後、スケッチブックを私に見せた。


そこに描いてあったのは、人の輪郭のようなものだった。


…あれ?


武藤さんなら髑髏とか果実とか…要は、ヴァニタスの絵を描くのかと思ってたんだけど。


人の輪郭とは予想外で、

「えーっと、これは…?」


誰を描いていたんですかと言うのは、重たい質問かも知れない。


「果南ちゃん」


武藤さんが答えた。


「えっ?」


私は驚いて聞き返した。


「私、ですか…?」


スケッチブックに描いてあったこの人の輪郭が私?


「どうして私を描こうと思ったんですか?」


そう聞いた私に、

「俺が好きな女の子だから」

と、武藤さんが答えた。


「えっ…」


好きな女の子だからって…。


戸惑っている私に、

「ちゃんと美人に描くから大丈夫だよ。


普段はヴァニタスの絵ばかり描いているけど、似顔絵の方がもっと得意なんだから」


武藤さんはスケッチブックに鉛筆を走らせた。


美人に描いて欲しいなんて、私は一言も言っていないんですけど…。


そう思いながらも、私はスケッチブックに絵を描いている武藤さんを見つめた。


その表情は真剣…と言うよりも、どこか嬉しそうだった。


久しぶりに絵が描けて嬉しいんだろうな。


軽やかに鉛筆を動かしている武藤さんの顔を見ながら、私は思った。


武藤さんが絵を描いているその時間は長かったような気もするけど、短かったような気もする。


「できた」


武藤さんはベッドのうえに鉛筆を置くと、スケッチブックを私に見せた。


私は完成したばかりのその絵に視線を向けた。


「わあっ…」


繊細なタッチで描かれた私の似顔絵に、私の心臓がドキッと鳴った。


「なかなか美人に描けたでしょう?」


そう言った武藤さんの顔は、運動会で1位を獲った子供のように嬉しそうだった。


「はい」


私は首を縦に振ってうなずいて答えた。


武藤さんは嬉しそうに目を細めると、

「やっぱり果南ちゃんは、俺の天使だよ」

と、言った。


あ、そうだ。


私は武藤さんに、昨日実家に電話して両親と久しぶりに話をしたことを話した。


「そう、それはよかったね」


「勝手にいなくなったことと相談してくれなかったことに関しては、怒られちゃいましたけどね」


「まあ、それに関しては終わったことだし、果南ちゃんも無事に生きていたからよかったでしょう?」


そう言った武藤さんに、

「はい」


私は首を縦に振ってうなずいた。


「俺のことはご両親に話したの?」


そう聞いてきた武藤さんに、

「一緒に暮らしていると言っただけで、詳しいことはまだ話していません。


近いうちに武藤さんのことを両親に話すつもりです」


私は答えた。


「そう、ならよかった」


武藤さんはホッとしたと言うように息を吐いた。



その日も武藤さんの病室を後にすると、ナースセンターの近くにある公衆電話でまた両親に電話をかけた。


「もしもし?」


電話に出たのは母だった。


「私、果南です」


自分の名前を言った私に、

「果南ね。


昨日はお父さんがほとんど話していたようなものだったから、また果南の声が聞けて嬉しいわ」


母が嬉しそうに言った。


「お父さんはいるの?」


そう聞いた私に、

「お父さんなら、今散歩に出かけているわ」


母が答えた。


先に父よりも、母に武藤さんのことを話した方がいいかも知れない。


そう思った私は、母に武藤さんのことを話した。


「そうなの…。


果南は今、その武藤さんって言う方とおつきあいをしているのね」


母は納得したと言うように言った。


よかった…。


反対されたらどうしようかと思っていた。


2年間も自分から音信不通にしていたうえに、つきあっている男の人がいることを話したら反対されるのではないだろうかと不安になっていた。


「お父さんには、武藤さんのことを話したの?」


そう聞いてきた母に、

「ううん。


一緒に暮らしている男の人がいるって言っただけで、詳しいことはまだお父さんに話していないわ」


私は答えた。


「わかったわ、お父さんには私の方から話しておくわ」


そう言った母に、

「ありがとう、お母さん」


私はお礼を言った。


「結婚を考えているなら、近いうちに武藤さんと一緒にあいさつにくるんでしょう?」


そう聞いてきた母に、

「…そのことなんだけど、私もいつになるかわからないの」


私は答えた。


「どうして?


近いうちにきてくれるんじゃないの?」


母は不思議そうに聞いてきた。


私は武藤さんの病気のことと事件のことを母に話した。


「病気の方は落ち着いたけど、刺された傷のことがあるからまだ退院はわからないの。


今日は傷がふさがって少し歩けるようになったって言ってたけど」


そう答えた私だけど、母の返事がない。


「退院の日が決まったら、また電話するから」


そう言った私に、

「わかった、待ってるわ。


ちゃんと武藤さんのお世話をしなさいね?」


母はやっと返事をしてくれた。


「うん、ありがとう。


じゃあ、また電話するから」


「またね、待ってるわ」


ガチャンと、私は受話器を公衆電話に置いた。


 * * *


それから2ヶ月後、武藤さんの退院が決まった。


私は両親に武藤さんの退院とあいさつにくることを電話で報告した。


そして、今に至ると言う訳である。


「おみやげも持ってきたんだし、大丈夫だよ」


武藤さんは手に持っている老舗和菓子店の紙袋を私に見せた。


紙袋には、先ほど駅前のデパートに行って買ってきた甘夏のゼリーが入っている。


「はい」


ガチャッとドアが開いて、そこから母が出てきた。


母は私の姿に、

「本当に、果南なのね?」

と、聞いてきた。


「うん、私よ。


果南よ」


私は母に言った。


母は私に歩み寄ると、私を抱きしめた。


その躰は私が思っていた以上に細く、小さかった。


見ないうちに痩せていた母の躰に、私は涙がこぼれ落ちそうになった。


母は私の顔を見つめると、

「おかえり、果南」

と、言った。


「ただいま、お母さん…」


母に返したとたん、私の目から涙がこぼれ落ちた。


母が泣いている私の隣に立っている武藤さんに気づいた。


「初めまして、武藤です」


武藤さんは母に自分の名前を言った後、頭を下げた。


「あなたが武藤さん…」


母は嬉しそうに武藤さんの名前を呟いた。


それから思い出したと言うように、

「ここだと暑いから中でお話をしましょう?


お父さんも待っているわ」


母に促され、私と武藤さんは家の中に足を踏み入れた。


懐かしい実家の匂いに、私はまた涙が出そうになった。


やっと、我が家に帰ってくることができたんだ…。


「果南か!?」


父が玄関に現れた。


「ただいま、お父さん」


そう言った私に、

「よかった…」


父はホッとしたと言うように息を吐いた。


「2年間心配をかけて、ごめんなさい…」


私は父に謝った。


「いいんだよ、果南が無事に帰ってきたならそれでいいんだ」


父はそう言った後、

「武藤さん、ですよね?」


武藤さんに視線を向けた。


「初めまして、武藤です。


果南さんと結婚を前提におつきあいをしています」


武藤さんはさっきと同じように自分の名前を言った後、頭を下げた。


「これ、つまらないものですがよろしければ…」


武藤さんが父におみやげを渡した。


「ああ、これはどうもご丁寧に」


父は武藤さんの手から紙袋を受け取った。


武藤さんの手から紙袋を受け取った父の手は痩せていたうえに、青い血管が浮かんでいた。


母と同じ、父も私が見ない間に痩せてしまったんだと思うと、私は2年間自分から音信不通にしていたことを心の底から申し訳ないと思った。


両親に案内されるようにリビングへ行くと、何も変わっていなかった。


本当に我が家へ帰ってきたんだと、実感した。


私たちはソファーに腰を下ろした。


「武藤さんの話は全て果南から聞きました。


ストーカーに苦しんでいた果南を支えて、守ってくれてありがとうございます」


母が武藤さんにお礼を言うと、頭を下げた。


「いえ、とんでもないです」


武藤さんは手を前に出すと、横に振った。


「私は妻から話を聞いただけですが、果南と一緒に暮らしていると言うのは…」


そう言った父に、

「本当です、一緒に暮してます。


もちろん、結婚を前提に果南さんと暮らしています」

と、武藤さんが言った。


「そうですか…」


父は唇を閉じた後、

「――あの…」


言いにくそうに唇を開いた。


父がこれからする質問は、武藤さんの病気のことなのだろう。


「あなたが病気と言うのは…」


やっぱり、聞いてきた。


「病気に関しては落ち着いています。


薬もちゃんと飲んで、再発を防いでいます」


武藤さんは丁寧に父からの質問に答えた。


丁寧に質問に答えた武藤さんに、

「そうですか…」


父は呟くように返事をした。


「自分でも、いつ死ぬのかわからないんです」


武藤さんが言った。


私は武藤さんの顔を見つめた。


武藤さんは息を吐くと、

「またいつ再発して、もし再発したら次は死んでしまうかも知れない。


毎日がそんな恐怖との戦いです。


だけど、死ぬまでのその時間を果南さんと一緒に過ごしたい。


果南さんと一緒に笑って、果南さんの手料理を食べて…1秒でも多く、果南さんと過ごしたいんです。


そう思うくらい、私は果南さんを心の底から愛しています。


お願いです」


言い終わると、両親に向かって頭を下げた。


「――武藤さん…」


突然土下座をするように頭を下げた武藤さんに、私はどうすればいいのかわからなかった。


両親も私と同じ、訳がわからないと言うように戸惑っている。


こんな武藤さんを見たのは、生まれて初めてだった。


「私が死ぬその時まで――いや、死んでも果南さんを大切にします。


果南さんを、ずっと愛し続けます。


どうか果南さんを私にください」


私は、泣きそうになっていた。


武藤さんが私を大切に思ってくれたことが嬉しかった。


私は涙をこらえながら、

「お父さん、お母さん…お願いします」


武藤さんの隣で、土下座をするように頭を下げた。


2年間も音信不通にして、痩せ細るほど心配をかけたヤツが何を言っているんだと言うのはわかっている。


だけど、両親に武藤さんを認めて欲しかった。


自分のことを投げ出して、私を支えて守ってくれたこの人のそばにいることを許して欲しい。


赤の他人の私のために涙を流して、赤の他人の私に生きることを切望したこの人を認めて欲しい。


そんな思いで、私は両親に頭を下げた。


どれくらいの沈黙が続いたことだろう?


「――わかったよ」


そう言った父の声に、私と武藤さんは顔をあげた。


両親は優しく微笑みながら、私たちを見つめていた。


「果南と武藤さんの気持ちはよくわかったわ」


母が言った。


「こんなにも真剣に思ってくれる男がいて、果南は幸せ者だな」


そう言った父の目が潤んでいるように見えるのは、私の気のせいだろうか?


「――お前たちの結婚を認めよう」


そう言った父に、私と武藤さんは顔を見あわせた。


「――果南ちゃん…」


「――武藤さん…」


名前を呼んだ瞬間、私の目から涙がこぼれ落ちた。


武藤さんのことを認めてくれた。


武藤さんのそばにいることを許してくれた。


私は両親が武藤さんのことを認めてくれたことが嬉しくて仕方がなかった。


「今夜はごちそうだな、母さん」


父が母にそう言った。


母はフフッと笑うと、

「そうね、今日の夕飯は果南の好きなものにするわね」

と、言った。


「ありがとうございます!」


武藤さんが両親に向かって頭を下げたので、

「ありがとう、お父さん!


ありがとう、お母さん!」


私も両親に頭を下げた。


久しぶりの母の手料理を、私はお腹いっぱいに食べた。


「果南さんの料理上手は、お母さんからだったんですね」


武藤さんはオムライスを食べながら母に言った。


「フフッ、ありがとうございます」


母は武藤さんにお礼を言った。


「今までいろいろな美味しい料理を食べてきましたけど、果南さんの作る料理が1番美味しいです」


そう言った武藤さんに、私は照れくさかった。


美味しいなんて、いつも言われている言葉だ。


武藤さんを交えての久しぶりの家族団欒は、あっと言う間に過ぎて行った。


肌を暑く照りつけていた太陽が優しくなり、冷たい風が吹くようになった日々に秋の訪れを感じた。


ステンドグラスのマリア像が純白のウエディングドレスに身を包んだ私を優しく見下ろしていた。


祭壇の前に、純白のタキシード姿の武藤さんが立っていた。


今日は私と武藤さんの結婚式だ。


私たちの結婚式に参加している人は誰もいなかった。


つまり、私と武藤さんの2人だけの結婚式だ。


赤いじゅうたんのうえを父と腕を組んで、ゆっくりと武藤さんに向かって歩いた。


少しずつ、武藤さんとの距離が近くなる。


武藤さんとの距離がゼロになった時、父は私の手を離した。


私は武藤さんの前に立った。


「――果南」


武藤さんが私の名前を呼んだ。


「――武藤さん」


私は武藤さんの名前を呼んだ。


武藤さんの顔が私に近づいてくる。


私はそっと目を閉じた。


目を閉じたとたん、今日までの武藤さんとの日々が頭に浮かんだ。


自殺をしようとした私を止めて、同居を始めた日。


悪魔から私を守って、生きることを切望した日。


武藤さんの秘密を知ってしまった日。


武藤さんに思いを伝えて、結ばれた日。


自分のことを投げ出して、私のために悪魔と戦ってくれた日。


私と結婚するために一緒になって頭を下げた日。


そして、武藤さんと夫婦になる今日。


今まで過ごしてきた日々を思い返していた私の唇に、武藤さんの唇が触れた。


――愛しています、武藤さん


口では言えない今、私は心の中で武藤さんに愛の言葉を言った。

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