愛憎劇の結末

肌を照りつける太陽に夏の訪れを感じながら、私と武藤さんは砂浜を歩いていた。


しっかりと繋いでいるお互いの手に、私は本当に武藤さんと結ばれたんだと言うことを実感した。


「後少しで梅雨に入るね」


武藤さんが言った。


「梅雨、ですか?」


聞き返して、私は思い出した。


そうだ。


夏に入る前に梅雨があるんだ。


毎日のように雨が降る季節を思い出したとたん、私の胸は憂うつに包まれた。


雨が続く季節になると、買い物に行くこと自体が面倒なものになる。


そのうえ食べ物の管理にも気をつけないと、食中毒と言う恐ろしい病気になってしまう。


面倒なことはわかっているけど、食中毒には気をつけないと…。


そこまで思って、私は気づいた。


私…少し前までは、自殺をしようと思っていた。


だけど、今はどうなのだろう?


食中毒にならないように気をつけようと、しっかりと心がけている。


これが自殺をする時の私だったら、そんなことを気にしなかったかも知れない。


「あの時」


そう話を切り出した武藤さんに、

「はい?」


私は聞き返した。


武藤さんは私に視線を向けると、

「俺の家のテラスから果南ちゃんが飛び降りようとしていた崖が見えたでしょう?」

と、言った。


「あ、そう言えば…」


武藤さんはそこから飛び降りようとした私を見て、自殺を止めてくれたんだっけな。


今思い出して見ると、おかしななれ初めだ。


「あの時、崖から飛び降りようとしていた果南ちゃんが天使に見えたんだ」


武藤さんが言った。


「て、天使ですか?」


私は驚いて聞き返した。


自殺をしようとした私が天使に見えたって…そうだ、武藤さんは変わった人だと言うことを忘れていた。


「うん、天使。


今にもそこから空へ向かって飛び立っていきそうだった」


…表現的には間違っていないと思った。


事実、私は崖から飛び降りて空へ向かって飛んで行くところだったのだ。


「そう思った瞬間、この子を止めなきゃって思ったんだ。


あの時は果南ちゃんを助けないと、もう2度と果南ちゃんに会えないような気がしたんだ」


振り返るように言った武藤さんに、

「それで、私が自殺するのを止めたんですか?」

と、私は聞いた。


武藤さんはフフッと笑うと、

「そうだよ」

と、言った。


「果南ちゃんの自殺を止めて、果南ちゃんに道連れの約束をしたって言う訳。


今思うと、とてもおかしななれ初めだよね」


「そうですね、おかしいですね」


私たちは笑いあった。


「でも…」


武藤さんはそう言って、私を見つめた。


「あの時果南ちゃんを見かけて、果南ちゃんの自殺を止めたから、俺たちは今こうして手を繋いで歩いている訳なんだよね」


そう言った武藤さんに、

「そうですね」


私は返事をした。


「私、今生きててよかったって思っています。


武藤さんが私を助けてくれたから、私は武藤さんと手を繋いでいるんだって思っています」


続けて言った私に武藤さんは笑った。


「俺も、生きててよかったって今思ってるんだ」


武藤さんが言った。


「病気になって、成功率20パーセントの手術に成功して…死ななくてよかった、生きててよかったってその時は思った。


だけど、手術後の副作用と処方された薬で苦しむことになった。


自分の思うように声を出すことができない、自分の思うようにドラムをたたくことができない…大好きだった2つのことができなくなって、ミュージシャンの道を引退せざるを得なくなった。


本当に死のうと思ってたんだ。


大好きだったそれらができなくなって、この先を生きて行くくらいだったら死んだ方がまだマシだってそう思った」


武藤さんは悲しそうに目を伏せた。


私はそんな彼の話に黙って耳を傾けていた。


ギュッと、武藤さんと繋いでいる手にほんの少しだけ力を入れた。


「だけど、もう1つ好きだったこと――絵を描くことを思い出した。


ミュージシャンとしての道がダメなら、画家としての道があるじゃないかって思った。


お金ならミュージシャン時代に稼いでいたのがあるし、なくなったら違う形でまた稼げばいい。


そう思って、俺は画家としての道を選んだ」


言い終わると、武藤さんは私を見つめた。


「もしあの時死んでいたら、俺は果南ちゃんに会うことができなかったと思う」


そう言った後、武藤さんは繋いでいない方の手で私の頬に触れた。


近づいてきた武藤さんの顔に、私はそっと目を閉じた。


ぬくもりが唇に一瞬だけ触れて、一瞬だけ離れた。


目を開けると、武藤さんの顔がすぐ近くにあった。


その距離に、私の心臓がドキドキと音を立てて鳴り始める。


コツンと、私の額に武藤さんの額が重なった。


「果南ちゃんは俺の天使だよ」


武藤さんが言った。


「その天使に出会えて、恋をして、今こうして手を繋いでいる。


こんな嬉しいことは他にないかも知れない」


「――武藤さん…」


私は武藤さんの名前を呼ぶと、自分から彼を抱きしめた。


「私が天使なら、武藤さんは神様だと思います」


そう言った私に、

「俺が神様って、どうしてそんなことを思うの?」


武藤さんは聞き返してきた。


「武藤さんは私が死ぬことを止めてくれたから。


あの時あなたが止めてくれなかったら、私はこうして武藤さんのことを抱きしめていません」


そう答えた私に、

「そんなことを言われて、抱きしめない男がどこにいる?」


武藤さんは私の背中に両手を回した。


砂浜にいるはずなのに、波の音が聞こえない。


と言うよりも、私たちの周りの音が消えてしまったような気がする。


この世界にいるのは、私と武藤さんの2人だけ――そんな風に思ってしまった。


「果南」


武藤さんに名前を呼ばれて、私は彼の顔に視線を向けた。


私の名前を呼ぶその声が好き。


私を見つめるその瞳が好き。


「――ッ…」


武藤さんの唇が私の唇に重なった。


私は彼の唇の感触を覚えるように、そっと目を閉じた。


私にキスをするその唇が好き。


抱きしめているその躰も、私の躰に回しているその腕も好き。


武藤さんの全てが好き。


彼の唇が私から離れても、私たちはお互いの躰を抱きしめていた。



日が暮れると、私たちは家までの道を歩いた。


もちろん、手は繋いだままである。


「夕焼けがキレイなところを見ると、明日もいい天気になるね」


オレンジ色の太陽を見あげながら武藤さんが言った。


「そうですね」


私は答えた。


武藤さんは私に視線を向けると、

「また明日も一緒に…」


そこまで言いかけた時、武藤さんは手で自分の胸を押さえた。


「武藤、さん…?」


「――うっ…ぐっ…」


シャツのうえに爪を立てるように武藤さんは手で自分の胸を強く押さえている。


「武藤さん!?」


私が武藤さんの名前を叫んだのと同時に、武藤さんはガクンと膝から崩れ落ちた。


私は彼と目線をあわせるように、その場にしゃがんだ。


「武藤さん!


武藤さん!」


「――うっ…うっ、ぶっ!」


地面に鮮血が飛び散った。


武藤さんが血を吐いたのだ。


「武藤さん!」


私は武藤さんの名前を叫んだ。


武藤さんは苦しそうに手で胸を押さえ、苦しそうに呼吸をしている。


彼の口の周りは、さっき吐き出した血で真っ赤に染まっている。


「武藤さん!」


「――果南…ちゃ、ん…」


名前を呼んだ私に答えるように、武藤さんが私の名前を呼んだ。


どうすればいいの?


こう言う時はどうすればいいの?


「――果南、ちゃん…。


急いで、病院に…」


さらにしゃがれている声で、武藤さんは呟くようにそう言った。


病院…そうだ、救急車だ!


「い、今救急車を呼びます!


武藤さん、立てますか!?」


私の質問に武藤さんは首を縦に振ってうなずくと、私の肩に向かって手を伸ばした。


私は武藤さんの肩に自分の手を回すと、

「ヨイ、ショ…」


武藤さんと同時に立ちあがった。


「――どこへ行く気だ?」


その声に、私の躰が震えた。


ウソ、でしょ…?


恐る恐る声がした方へ視線を向けると、

「――南部、さん…」


悪魔が、私たちの目の前にいた。


私の見間違いであって欲しいと思った。


だって悪魔は、警察に捕まったはずでしょう?


そう思った私の頭の中を呼んだと言うように、

「警察のヤツらはバカなものだな」


悪魔がバカにするように笑いながら言った。


「わずかな取調と厳重注意で僕を釈放してくれたよ」


そう言った悪魔に、私は声が出てこなかった。


「――厳重注意で済んだから、また果南ちゃんの前に現れたと言うのか…?」


そう質問をした武藤さんに、

「そうだよ、だって彼女は僕の恋人じゃないか」


悪魔が答えた。


「――私は、あなたの恋人になった覚えなんかありません…」


震える声で反論した私に、

「僕たちはあんなにも仲がよかったじゃないか。


誰からもうらやましがられるくらいに、僕たちは仲良くつきあっていたじゃないか」


悪魔が言い返した。


自分にとって都合のいい勘違いに、私は声を出すことができなかった。


「――仲良くって、果南ちゃんとたった一言話をしただけじゃないか…。


なのに、何でそれを恋人になったと勝手に勘違いをした…?」


そう言った武藤さんに、

「果南、さっきから僕に話しかけているこの男は一体誰なんだ?


そのうえ、なれなれしく君の躰にこの男の手が回っている。


この男は何者なんだ?」


悪魔がイライラした口調で言い返してきた。


武藤さんは大事なものを守るように、私の背中に両手を回して抱きしめた。


「――武藤、さん…?」


名前を呼んだ私に答えるように、武藤さんは私を抱きしめているその腕を強くした。


「――やめろ…」


悪魔の声が震えている。


「――果南から離れろ…」


悪魔の顔が青くなって行く。


武藤さんは私を強く抱きしめている。


「――俺の果南に気安くさわるんじゃねーよ!」


大きな声で叫んだ悪魔に、私の躰がビクッと震えた。


「――大丈夫だ」


震えた私を慰めるように、武藤さんがささやいているような小さな声で言った。


「えっ…?」


私は武藤さんを見あげた。


「――俺が果南ちゃんを守る…。


命がどうなったって、果南ちゃんだけは俺が守る…。


だから、大丈夫だ…」


そう言った武藤さんの言葉に答えるように、私は彼の首の後ろに自分の両手を回した。


「やめろー!」


同時に、悪魔が叫んだ。


「果南から離れろ…!


今すぐ果南から離れろー!」


叫んでいる悪魔に向かって、

「離れる訳ないだろ!」


武藤さんが叫び返した。


「果南ちゃんは俺の天使で、俺の恋人だ。


そんな彼女から離れてお前に渡そうと思ったら大間違いだ!」


悪魔は自分の顔を挟むように両手で包んだ。


「――何でそんなヤツと恋人になったんだよ…。


僕が恋人じゃなかったのかよ…。


僕とつきあっていたんじゃなかったのかよ…」


悪魔は青い顔で、今にも泣きそうな声で呟いている。


「何で別れるなんて言ったんだよ…?


僕たちはつきあっていたんだろう…?


誰からもうらやましがられるくらいに、僕たちはあんなにも仲が良かったじゃないか…」


悪魔はブツブツと呟きながら、ズボンのポケットから何かを取り出した。


取り出したのは、折り畳み式のナイフだった。


――それで何をするって言うの…?


震えている私に、

「君に勝手な勘違いをされて、君から理不尽なストーカーを受けた果南ちゃんの気持ちは考えたことがないんだな」


武藤さんが言った。


「うるさい!


うるさい!」


悪魔は叫んで、いやいやをするように首を激しく横に振った。


「君は果南ちゃんの気持ちを考えたって言うのか?


1度話をしただけの果南ちゃんを恋人だと勝手に勘違いして、勝手につきまとって、勝手に追いかけた。


君のせいで果南ちゃんがどんなにつらい思いをしたのかわかっているのか?


自殺に追い込まれるくらい、果南ちゃんは君のせいで傷ついたんだぞ!?」


強い口調で反論をした武藤さんに、

「うるさい!


うるさい!


果南が別れるなんて言わなければ…。


果南が僕から離れなければ…。


僕は幸せな人生を生きていたはずだ!


果南と一緒に、幸せな人生を歩いていたはずだ!」


悪魔は叫んだ。


「――なのに…。


なのに、今の僕の人生はめちゃくちゃだ!」


「めちゃくちゃ?


果南ちゃんの人生をめちゃくちゃにした君が一体何を言っているんだ!?」


武藤さんが怒鳴るように悪魔に言い返した。


「君のせいで果南ちゃんは人生がめちゃくちゃになったんだぞ!?


君のせいで家族や友達、今までお世話になった人たちと離れ離れにならないといけなくなった。


いつかはあることかも知れないけど、果南ちゃんはこんな形で彼らと別れたくなかったって泣いていた。


大切な人を君に傷つけられるのが嫌だから、果南ちゃんは自分の命を投げ出そうとしたんだぞ!?」


怒っている武藤さんを見たのは、今日が初めてだった。


私は武藤さんの首に回っている両手をギュッと強くした。


思えば、私はいつも武藤さんに守られてばかりだった。


自殺を止めてくれたこと。


悪魔から殴られていた私を助けてくれたこと。


それは私の力じゃない。


武藤さんが私を助けて、私を守ってくれたからだ。


今も武藤さんは自分の躰が危ないのに、私を悪魔から守って、悪魔と戦ってくれている。


赤の他人である私のために涙を流してくれただけじゃなく、赤の他人である私のために声を荒くして怒っている。


「――私は!」


悪魔の方に視線を向けると、私は声を出した。


「あなたのことを好きだって、思ったことは1度もありません」


私の言葉に、悪魔の顔がさらに青くなった。


「――えっ…?」


悪魔がかすれた声で呟いたかと思ったら、驚いた顔で私を見た。


「――ウソ、だろ…?」


呟くように言った悪魔に、

「ウソじゃありません。


あなたが嫌いです。


私はあなたが好きだって言ったことがありません」


私は言い返した。


「そんな…。


僕が嫌いだって、そんなバカなことがある訳ないだろう…?


僕は果南が好きで、果南だって僕のことが好きで…」


青い顔で呟いている悪魔に向かって、

「私の好きな人は…武藤さん、ただ1人だけです」


私は言った。


「――う…」


悪魔の手からナイフが滑り落ちた。


カチャンと、彼の手から滑り落ちたナイフは音を立てて地面に転がった。


その地面に、悪魔は膝をついて崩れ落ちる。


「――ウソだろ…?


果南の好きな人は僕じゃないなんて、そんなのウソだろ…?


ウソだろ…?


間違ってるだろ…?」


悪魔はブツブツと呟きながら、両手で頭を抱えた。


「――うっ、ええっ…」


地面に顔をこすりつけるように、悪魔は嗚咽を漏らした。


「――ッ、うっ…!」


武藤さんが私の躰から手を離したと思ったら、両手で隠すように口を押さえた。


「武藤さん!」


私が名前を叫んだ瞬間、押さえている指の隙間から血がこぼれた。


武藤さんは崩れ落ちるように地面に座り込んだ。


私は彼の目線にあわせるように地面に座って、

「武藤さん、しっかりしてください!


武藤さん!」


武藤さんの名前を叫んだ。


「――うっ、ゲホッ!」


口から吐き出された血が、地面を真っ赤に染めた。


「武藤さん!」


「――果南、ちゃん…」


武藤さんが私の名前を呼んだ。


よかった、まだ意識がある。


「すぐに救急車を呼んで、病院へ連れて行きますから…」


「――死んでくれ…」


その声に視線を向けると、ナイフを手に持った悪魔が私たちを見ていた。


悪魔は虚ろな目で、私たちを見つめている。


「果南…。


僕も後から行くから…。


後から行くから、今すぐ死んでくれ…」


悪魔はブツブツと呟いて、ナイフを私たちの方に向けてきた。


「そしたら、あの世で一緒に暮らそう…。


2人であの世で、幸せになろう…」


私は何も返すことができなくて、震えることしかできなかった。


「頼む、死んでくれ!」


悪魔が叫んで、ナイフを持ってこちらに向かってきた。


その瞬間、私の視界が真っ暗になった。


「――ッ、うぐっ…!」


私の目の前にいたのは、

「――武藤、さん…?」


私と悪魔の間に入るように、武藤さんが私の前にいた。


武藤さんのお腹にはナイフが刺さっていた。


刺した相手が武藤さんだと気づいたとたん、悪魔は慌てて武藤さんの躰からナイフを外した。


カラン…と、悪魔の手から鮮血に染まったナイフが地面に滑り落ちた。


「――がっ…」


武藤さんの口から血が吐き出された。


「武藤さん!」


刺されたお腹から血があふれている。


私はそのうえに両手を当てて、こぼれ落ちそうになる血を押さえた。


私の手が血で真っ赤になる。


「――ウソだろ…?


なあ、ウソだろ…?


ウソに決まっているんだろ…?」


悪魔はパニックになっているのか、泣きそうな声で言って両手で頭を抱えた。


「本当は、果南が殺されるはずだったんだろ…?


そうなんだろ…?」


私は悪魔に視線を向けると、

「私はあなたのことを愛していません」

と、言った。


悪魔は驚いたと言うように目を見開いて、

「――そんなの…そんなのウソだ!」


私に向かって叫んだ。


肯定の意味を込めて口を閉じた私に、

「――わっ…わっ、うわーっ!」


悪魔はその場から逃げ出そうとした。


しかし、

「ちょっと失礼」


逃げ出そうとした悪魔の腕を制服を着た警察官がつかんだ。


警察官の登場に悪魔はさらに目を見開いた。


「近隣の住民から大きな声を出して暴れている男がいると言う通報でやってきました。


署で詳しい話を聞きたいのでご同行をお願いしてもよろしいですか?」


そう言った警察官に、

「違う、僕じゃない!


僕は何もしていない!


僕は彼女――果南と一緒にあの世へ行きたかっただけなんだ!


果南と一緒に幸せになりたかっただけなんだ!」


悪魔はいやいやと首を横に振って叫んだ。


「連行しろ」


「はい」


警察官はもう1人の警察官に呼びかけると、彼に悪魔を引き渡した。


「違う!


僕は何もしていない!


僕じゃない!」


もう1人の警察官に連行されながら、悪魔は大きな声で叫んでいる。


警察官は私たちに歩み寄ると、

「できれば、あなたたちにもご同行をお願いしたいのですが」


そう言った警察官に、

「すみません、まずは彼をお願いできませんか?


さっきの男に彼が刺されて、そのうえ持病を抱えているので病院へ連れて行きたいんです。


お願いします、事情聴取は受けます!


でもその前に彼を助けたいんです!」


私は言った。


警察官は首を縦に振ってうなずくと、

「わかりました。


今すぐ病院へお送りいたします」

と、言った。


「武藤さん、大丈夫ですか?


今病院へ連れて行きますからね」


私の呼びかけに答えるように、

「――う、ん…」


武藤さんは首を縦に振ってうなずいた。


幸い、悪魔に刺された傷は浅かったため、武藤さんは一命を取り止めた。


だけど武藤さんの病気が再発してしまったため、入院を余儀なくされてしまった。


「まだ生きててよかったよ…」


真っ白な病院のベッドで横になっている武藤さんが呟くように言った。


「そうですね、よかったです」


彼のベッドの横に置いてあるパイプ椅子に腰を下ろしている私は答えた。


あの事件から1週間が経った。


私は毎日武藤さんが入院している病院へお見舞いにきては、面会時間が終わるまで彼のそばにいた。


警察は武藤さんが入院してから3日目に、事情聴取をするために病院を訪ねてきた。


私は事情聴取にきた警察官に全て話した。


悪魔からストーカーをされていたこと、あの日の詳しい出来事を全て話した。


一方の悪魔は警察に逮捕され、事情聴取を行ったものの、精神に異常をきたしているせいで取調にならない…と、私の事情聴取にきた警察官は愚痴をこぼした。


精神鑑定の結果によっては不起訴になるかも知れないと、警察官は私にそう言うと病院から去って行った。


「不起訴となると、それは悔しい結果だね。


果南ちゃんは被害者なのに、加害者のあいつが罪に問われないなんてね」


武藤さんはやれやれと言うように息を吐いた。


「精神の異常はあいつの演技だって言うことを祈るしかない」


武藤さんは私に向かって手を伸ばすと、ポンと私の頭のうえに手を置いた。


「あの日の果南ちゃん、とてもかっこよかったよ。


あいつに向かって毅然とした態度で立ち向かっていた果南ちゃん、とてもかっこよかった」


そう言った武藤さんに、

「武藤さんがそばにいて、私を抱きしめてくれたから、私も戦うことができたんです」


私は言った。


「逞しくなったね。


俺がいなくなっても…」


「武藤さん」


何かを言おうとした武藤さんをさえぎるように、私は頭のうえに置いてある武藤さんの手を握った。


武藤さんはフッと笑うと、

「ごめんね、ジョーダンだよ」

と、言った。


「ジョーダンでも言わないでください」


そう言った私に、

「もう言わないよ」


武藤さんが言った。


コンコン


病室のドアをたたく音がしたので、

「はい」


私はドアに向かって声をかけた。


「失礼します」


そう言って病室に入ってきたのは、スーツを着た中年男だった。


「あっ…」


彼に見覚えがあった私は呟いた。


入ってきた中年男は、私が武藤さんと一緒に警察署へ行った時に話を聞いてくれた人だったからだ。


中年男は私たちの前にくると、

「お久しぶりです、容態の方はいかがでしょうか?」

と、頭を下げた。


「ええ、おかげさまで」


武藤さんは中年男に向かって笑いかけた。


「今回は南部の精神鑑定の結果について、少し報告をしにやってきました」


中年男が言った。


私の心臓がドキッ…と鳴る。


その音に気づいたと言うように、武藤さんは私の手をギュッと握った。


「精神鑑定の結果、異常をきたしているため…」


「不起訴、と言うことですか?」


中年男の言葉をさえぎるように、武藤さんが言った。


「ええ、残念な結果ですが」


中年男はやれやれと言うように息を吐いた。


「だけど、あなたたちの前に彼はもう2度と現れません」


そう言った中年男に、

「えっ?」


私たちは驚いて聞き返した。


「あまりにも精神に異常がきたしているため、彼は閉鎖病棟へ入ることになったんです」


そう言った中年男に、

「…閉鎖病棟、ですか?」


呟くように聞き返した私に、

「精神障害者が入院している病院のことだよ」


武藤さんが教えてくれた。


「精神に異常をきたしている以上、彼が生きている間は世間に出てくることは決してないでしょう。


彼が罪に問われない結果なのは私も腹立たしいことではありますが、それは同時にあなたたちが彼からもう2度と被害を受けることはないと言うことでもあります。


これからは安心して暮らしてください」


中年男は言い終えると、私たちに向かって笑いかけた。


私の目から、涙がこぼれ落ちた。


「――本当、ですか…?」


そう聞いた私に、

「ええ、本当です。


あなたは彼から解放されたんです。


これからは旦那様と一緒に、幸せな人生を歩んでください」


中年男が言った。


「では、私はこれで」


中年男はペコリと頭を下げると、私たちの前から立ち去った。


ドアの閉まる音が部屋に響いた。


「よかったね、果南ちゃん」


武藤さんがそう言って、私の頭をなでた。


「はい…」


私は首を縦に振ってうなずいた。


「果南ちゃんはもう自由なんだよ。


あいつはもう2度と果南ちゃんの前に現れない。


それどころか、世間にも出てくることはないんだよ」


そう言った武藤さんに答えるように、私は首を縦に振ってうなずいた。


やっと、私は自由になれたんだ。


私は悪魔から解放されたんだ。


もう悪魔は私の前に2度と現れない。


私の大切な人たちを傷つけることはない。


「――武藤さん…」


「うん、果南ちゃんはよく頑張った。


果南ちゃんはよく耐えたよ」


武藤さんは何度も言って、私の頭をなでてくれた。


「私、家族と友達に連絡します…」


悪魔から逃げるために自分から交流を絶った家族と友人に連絡をしよう。


「連絡をしたら、彼らに武藤さんのことを紹介します」


私を助けて支えてくれた武藤さんを、みんなに紹介しよう。


「フフッ、それは楽しみだね」


武藤さんが笑いながら言った。


「だって私たちは…」


「うん、わかってるよ。


警察にも夫婦だって言ったしね。


まあ、結果としてはそうなる訳だけど」


そう言った武藤さんに向かって、私は心の底からの笑顔を見せた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る