満月が輝く夜に

濡れた髪をバスタオルで拭きながら、私はリビングへと足を向かわせた。


先にお風呂に入った武藤さんは窓の前に立って、そこから空を見あげていた。


私は彼のところへ歩み寄ると、

「武藤さん」


声をかけた。


「ああ、果南ちゃん」


武藤さんが私の名前を呼んで、私の方へ振り向いた。


「何を見てたのですか?」


そう聞いた私に、

「月だよ、今日は満月だった」


武藤さんは答えた後、また窓の外へと視線を向けた。


彼のマネをするように私も窓の外へと視線を向けると、黒い夜空を飾るように銀色の満月が浮かんでいた。


早いな、この前は三日月だったのに…。


「早いね、半分だった月が丸い月に変わるのって」


武藤さんが言った。


「あ、そうですね…」


私は首を縦に振ってうなずいた。


武藤さん、私と同じことを思っていたんだ…。


ほんの些細な小さなことだけど、私は嬉しかった。


だって結ばれた人と同じことを思って同じことを感じていたんだもの、これが嬉しくない訳ないじゃない。


武藤さんの大きな手が、私の頬に触れた。


たったそれだけのことなのに、私の心臓がドキッ…と鳴った。


私に触れているその手は、持ち主の方へと向かされた。


「――本当に、いいんだね?」


そう言った武藤さんの目と私の目がぶつかった。


今から、私は武藤さんに抱かれるんだ――そう思うと、私の心臓がドキドキと早鐘を打ち始めた。


私は武藤さんが好きだから彼に抱かれて、武藤さんも私が好きだから私を抱く。


私は口を開くと、

「武藤さんが好きだから、武藤さんに抱かれる覚悟はできています」

と、武藤さんに言った。


「途中で“やめて”って言っても、俺は本当にやめないからね?」


確認をするように言った武藤さんに、

「はい」


私は首を横に振ってうなずいた後、

「でも、1つだけ…」

と、言った。


武藤さんは不思議そうな顔で首を傾げた。


「その…」


私はバスタオルを持っている手をギュッと握りしめた。


「――私は、その…初めてなので、えっと…」


私は落ち着かせるように呼吸をすると、

「――優しく、してください…」

と、言った。


“初めて”だと言ってしまった…。


“初めて”だと宣言してしまった…。


私、今すごく恥ずかしいです…。


と言うか、それ以前に私は一体何の話をしているのよ…。


武藤さんの目をまともに見ることができなくて、私は彼から目をそらすようにうつむいた。


「――そう言うことね」


武藤さんがそう呟いたのと同時に、それまで私の頬に触れていた手があごに降りてきた。


骨張った指が私のあごをさわったと思ったら、クイッと上を向かされた。


「――あっ…」


武藤さんと目があった。


「果南ちゃんの初めてが俺のものになるんだったら、俺は嬉しいよ」


武藤さんはそう言って、また私と唇を重ねた。


「――ッ…」


唇が離れた瞬間、

「――め、めんどくさいなって…思わないんですか?」


私は武藤さんに聞いた。


「めんどくさいって、何でそうなるの?


今さら拒否をしますって言うの?」


逆に聞いてきた武藤さんに、

「きょ、拒否なんて、そんな…」


私は首を横に振って否定した。


武藤さんに抱かれる覚悟はできているのに、どうして今すぐ拒否をしなきゃいけないの?


「ごめん」


武藤さんが謝った。


その謝罪の言葉は、一体どう言う意味なのですか?


武藤さんの方から“やめる”と言うことなのですか?


そう思った私に、

「久しぶりだから、どうすればいいのかわからないんだ」

と、武藤さんが言った。


「もちろん、優しくする」


そう言った武藤さんに、

「武藤さん」


私は彼の名前を呼んだ。


「好きです」


そう言った私に、

「俺も、果南ちゃんが好き」


武藤さんが私の唇に自分の唇を落とした。


彼のぬくもりを躰に覚えるように、私は目を閉じた。


武藤さんの両手が私の背中に回ったのと同時に、私も彼の背中に両手を回した。


唇を離して、お互いを見つめあって、また唇を重ねる。


「――ッ…」


それだけのことなのに、私の頭の中は嬉しさでいっぱいだった。


何回目のキスを彼と交わしたのだろうか?


「――ッ、はあっ…」


何度目かで武藤さんの唇が離れた後の私の呼吸は長距離を走った後みたいに荒くて、そして浅かった。


浅い呼吸を何度も繰り返している私に、

「ごめん、やり過ぎた」


武藤さんが呟くように謝った。


「何度もキスをしたから苦しかったよね?」


そう言った武藤さんに私は首を横に振ると、

「――苦しいと言う気持ちよりも、嬉しいと言う気持ちの方が大きいです…」

と、言った。


キスの相手が好きな人だから嬉しいに決まってる。


武藤さんはフッと笑うと、

「もう1度、いい?」

と、聞いてきた。


「はい…」


首を縦に振ってうなずいた私の唇に、武藤さんの唇が触れた。


私と武藤さんがいつも使っている毛布を重ねて、床のうえに敷いた。


そのうえに私と武藤さんは向きあって座っていた。


「本当はベッドのうえが1番正しいのかも知れない」


武藤さんが呟くように言った。


ソファーだと狭いから床の方がいいと言ったのは、私だ。


「私は、武藤さんと一緒ならどこだって構いません」


そう言った私に、

「もう、本当に聞かないからね?」


武藤さんが私の顔を覗き込むと、そう言った。


「はい…」


首を縦に振ってうなずいた私の額に、武藤さんの唇が落ちた。


それだけのことなのに、私の心臓がドキッ…と鳴った。


武藤さんの唇が私の唇と重なった。


「――ッ…」


まるで大切なものを扱うような優しい仕草で、武藤さんが私を毛布のうえに押し倒した。


唇が離れて武藤さんと見つめあう。


真っ暗なこの部屋に入っているのは月明かりただ1つだけだった。


月明かりに照らされた武藤さんの顔は青白く、神秘的な美しさを放っていた。


それはまるでよくできた彫刻のようで、私の心臓はさらにドキドキと音を立てて鳴り出した。


武藤さんの手が私の頬に添えられた。


私はそっと、目を閉じた。


怖い?


…ううん、もう怖くない。


好きな人に抱かれるから、もう怖くない。


武藤さんは私のことが好きだから私を抱いて、私は武藤さんのことだから武藤さんに抱かれる。


だから、怖がることなんてない。


武藤さんの唇が私の首筋に触れた時、

「――ッ、あっ…」


私の唇から声がこぼれ落ちた。


今まで出したことがない自分の声に、私は戸惑った。


チュッ…と首筋に武藤さんの唇が触れるたび、私の唇から声がこぼれ落ちる。


恥ずかしい…。


これ以上声を出したくなくて、武藤さんに声を聞かれたくなくて、私は隠すように手で口をおおった。


「――ッ、んっ…」


声を隠している私に、

「何しているの?」


武藤さんが首筋から顔をあげて、聞いてきた。


「――ッ、だって声が…」


呟くようにそう言った私に、

「俺は果南ちゃんの声が聞きたい。


俺に愛されて、俺に感じている果南の声を聞きたい」


武藤さんはそう言うと、口を隠している私の手をとった。


それを自分の口元へと持って行くと、

「――ッ…」


私の指を口に含んだ。


まるでアメをなめるように指を1本1本と丁寧に口に含んで、丁寧になめて行く。


温かい口の中と少しザラついている舌の感触に、私の躰が震えたのがわかった。


口に含んでいた指を離すと、武藤さんはまた私の唇に自分の唇を重ねた。


一瞬だけ唇に触れた後、今度は私の胸に顔を埋めた。


「――ッ、あっ…!」


武藤さんの唇が私の胸に触れた瞬間、私は声をあげた。


もう隠そうと思わなかった。


武藤さんが私を愛してくれているんだと思うと、嬉しかった。


気がついたら私は裸で、武藤さんも裸だった。


私の服は武藤さんが脱がせていたからわかるけど、当の武藤さんはいつ自分の服を脱いだんだろう?


そう思っていた時、

「果南ちゃん、もういいかな…?」


かすれた声で、武藤さんが私に聞いてきた。


「――いい、ですけど…?」


呟くように答えた私に、

「痛いかも知れないけど、少し我慢して…」


武藤さんが言った。


えっ、何を?


そう言おうとした時、私の躰を強烈な痛みが襲ってきた。


「――いっ、痛い!」


思わず悲鳴をあげた私に、

「――うっ、キツい…」


武藤さんは呟いて、顔をゆがませた。


「痛い…!」


私は叫んで、首を横に振る。


「果南ちゃん、もう少しだから…。


もう少しだから…」


武藤さんは私に言い聞かせるように、何度も呟いた。


その様子から、武藤さんは必死なんだと思った。


月明かりだけが照らす真っ暗な部屋で聞こえるのは、お互いが呼吸をする音だけだった。


こんなにも近くで呼吸をする音を聞いたのは、後にも先にも今日が初めてだと思う。


武藤さんは私を愛してくれているのだと思うとただ嬉しくて、私の目から涙が止まらなかった。


「――ッ、入った…!」


武藤さんが呟いた後、荒い呼吸をした。


「――果南ちゃん…」


武藤さんが私の名前を呼んだ。


「ごめんね、優しくできなくて…」


そう言った後、武藤さんは私の頬を伝っている涙を親指で優しくぬぐった。


「――違うんです、武藤さん…!」


私は首を横に振った。


「嬉しいから、泣いているんです…」


そう言った私に、武藤さんは優しく微笑んだ。


その微笑みに、私の心臓がドキッ…と鳴った。


私、ますます武藤さんのことを好きになってる。


「――武藤さん…」


私は武藤さんの名前を呼んで、涙をぬぐっているその手をつかんだ。


ギュッ…と、離さないように手を繋いだ。


そっと握ったら、握り返してくれたことが嬉しくて、私は嬉しくてまた涙をこぼした。


お互いの躰を流れている汗は、どちらのものなのかはわからない。


好きな人に抱かれることがこんなにも嬉しいことだったなんて、私は知らなかった。


死んでいたら、私は知らないままだった。


生きていてよかったと、私は心の底から思った。


武藤さんが好き。


武藤さんを思っている。


赤の他人である私のために涙を流してくれたこの人をが好き。


赤の他人である私に生きることを切望してくれたこの人を思っている。


それはもう深く、深く…武藤さんを思っている。


好きな人と手を繋ぐことは、こんなにも嬉しいことだった。


好きな人と躰を重ねることは、こんなにも嬉しいことだった。


私は武藤さんの背中に自分の両手を回した。


武藤さんの全てを受け入れて、私は改めて気づいた。


この人をこれ以上ないくらいに深く思っていることに、改めて気づかされた。


武藤さんが私に手を差し伸べてくれたように、私もこの人に手を差し伸べて一緒に生きて行きたい。


武藤さんが私を支えてくれたように、私もこの人を支えて生きて行きたい。


月明かりに照らされている彼の顔も、私と手を繋いでいる彼の手も、私を包んでいる彼のぬくもりも、全部好きだって言うことに改めて気づかされた。


武藤さんが好きだから、武藤さんを離したくない。


そう思いながら、私は彼の背中に回している両手を強くした。


それに答えるように武藤さんが私の背中に両手を回してきて、私を抱きしめた。


「――武藤、さん…」


武藤さんの名前を呼んだ私に、

「――果南…」


武藤さんが答えるように、私の名前を呼んだ。


――もし目が覚めた時、夢だったらどうしようと私は思った。


満月が輝いているこの夜に。


月明かりが部屋を照らしているこの夜に。


その光が武藤さんの顔を青白く輝かせているこの夜に。


好きな人に抱かれたことが夢だったらどうしようと、私は不安に思った。


私の名前を呼んでいること。


私と手を繋いでいること。


私と躰を重ねていること。


これらの出来事が夢だったらどうしようと、私は不安に思った。


でも…今私の身に起こっていることが夢だったとしても、私は嬉しいって思ってる。


好きな人に大切にされて、好きな人に抱かれているこの出来事が夢でもいいって思ってる。


好きな人に抱かれたこと。


好きな人を愛したこと。


好きな人に愛されたこと。


もしこれらの出来事が夢だったとしても、私は嬉しい出来事だったって心の底から受け入れるよ。


嬉しい出来事として、私の頭の中に刻むよ。


武藤さんは私が好きだから私を抱いて、私は武藤さんが好きだから武藤さんに抱かれた。


満月が美しく輝いているこの夜に。


月明かりが差し込んでいるこの夜に。


その光が武藤さんの顔を青白く照らして、輝かせているこの夜に。


武藤さんは私を抱いて、私を愛した。


私は武藤さんに抱かれて、武藤さんを愛した。


たとえ夢だったとしても、私は嬉しい出来事として忘れないように頭の中の記憶に刻むから――。


もしあの時死んでしまっていたら、私は何も知らないままだった。


人を好きになることも、人を思うことも、何も知らないままだった。


好きな人を支えることも、好きな人を愛すことも、何も知らないままだった。


それらのことを何も知らないまま、私は死んでいた。


武藤さんが止めてくれたから、私は助かったのだ。


武藤さんが手を差し伸べてくれたから、私は死なずに済んだのだ。


武藤さんが好きになってくれたから、私は生きることができたのだ。


好きな人に抱かれて、好きな人を愛して、好きな人に愛された。


この嬉しい出来事を、私は絶対に忘れない。


好きな人のぬくもりに包まれながら、私はゆっくりと目を閉じた。



私は目を開けた。


…いつの間に眠っていたのだろう?


そう思ったのと同時に、私は腕の中にいることに気づいた。


私を抱きしめている腕の持ち主に視線を向けると、武藤さんだった。


「――起きた?」


私と目があった瞬間、武藤さんが言った。


「――あ、はい…」


私は首を縦に振ってうなずいた。


武藤さんの顔を見て、武藤さんの言葉に答えただけなのに、私の心臓がドキドキと音を立てて鳴り始めた。


そうだ…。


私は、さっきまで武藤さんに抱かれていたんだ。


外はまだ夜なのか、窓の外から月明かりが差し込んでいた。


差しこんでいるその月明かりは、まだ武藤さんの顔を青白く照らしていた。


「武藤さんは…?」


そう聞いてきた私に、

「俺も果南ちゃんが目を覚ます少し前まで眠ってた」

と、武藤さんが言った。


「そうですか…」


呟くように返事をした私に、

「躰、大丈夫?」


武藤さんが聞いてきた。


躰が大丈夫って、どう言う意味なんだろう?


「大丈夫って、何がですか?」


訳がわからなくて聞き返した私に、

「――初めて、だったんでしょ?」


武藤さんが少し言いにくそうに言った。


それを聞いた瞬間、私は武藤さんから目をそらすようにうつむいた。


そうだ…。


私、初めてだと言うことを武藤さんに宣言しちゃったんだった…。


自分で言ったことをすっかり忘れていた私の頭は大丈夫なのだろうか?


武藤さんは私の額に自分の唇を落とした。


「夢じゃなくてよかった」


武藤さんが言った。


「――夢?」


夢じゃなくてよかったって、どう言うことなのだろう?


そう思って聞き返した私に、

「果南ちゃんと愛しあったことが夢だったら、どうしようかと思っていたんだ」


武藤さんが答えた。


大切なものを扱うように、武藤さんは私を抱きしめた。


私は彼の首の後ろに自分の両手を回した。


「夢じゃないですよ、武藤さん」


私は言った。


夢じゃないから、私と武藤さんはこうして抱きあっている。


「満月が美しい夜に果南ちゃんと愛しあったことを、俺は一生忘れない」


武藤さんが言った。


「私も忘れません」


私は言った。


満月が美しい夜に好きな人に抱かれて、好きな人に愛されて、好きな人を愛したこの夜を、私は一生忘れない。


「武藤さん」


私は武藤さんの名前を呼んだ後、自分から武藤さんと唇を重ねた。


「愛しています」


そう言った私に、

「俺も果南を愛してる」


武藤さんがそう言った後、私と唇を重ねた。


唇を離した後、

「もう少し、眠ろうか?」


そう言った武藤さんに、

「はい」


私は首を縦に振ってうなずいた後、そっと目を閉じた。


武藤さんの唇が私の額に落ちてきた。


もう武藤さんを離したくない。


この時間が永遠に続いて欲しいと、私は思った。


だけど、朝は必ずきてしまう。


きて欲しくないと思うほど、朝がくるスピードは早くなる。


だから、一生忘れないことを約束するの。


好きな人に抱かれて、好きな人を愛して、好きな人に愛されたこの夜を頭の中の記憶に刻むの。


こんなにも嬉しい出来事を覚えていたいから。


私が死んでいたら、体験できなかったこの嬉しい出来事。


一生…ううん、死んだとしても絶対に忘れない。


好きな人の腕の中で、好きな人のぬくもりに包まれながら、私は眠りの世界へと意識を手放した。

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