88歳新米ニューヨーカー女子の日々と俳句

青山涼子

第1話 お義母さん生きてますか?

「Push! (プッシュしろ!)」

 管理人のエミールのかけ声に合わせ、Koichiroがドアに体当たりする。

 チェーン・ロックが伸び切ったところでドアが止まり、衝撃音が足元を震わせた。一体何が起きたかと、同じフロアに住む隣人達が怪訝そうに廊下に顔を出した。

「お義母(かあ)さん、お義母さん、なかにいるんですか?」

 再び呼んでみたが、返事はない。

 ドアは壊れてもいいから、とにかく思い切りぶつかっていけと、エミールに発破をかけられ、再びKoichiroが突入を図る。激しい振動と共に破壊音が響き渡り、航一郎の肩が脱臼したかと怯えた瞬間、ドアが大きく向こう側にスイングし、古びた鎖が床に落ちた。


「She is here!(彼女はここにいるぞ!)」

 真っ先になかに飛び込んだエミールが叫んだ。リビングルームに駆けつけると、ヨガマットの上で半身を起こした義母がいた。

「寝てたんや」

 義母の寝ぼけた声に一同呆気にとられた。エミールが出ていき家族だけになると、室内が異常に暑いことに気がついた。今日のニューヨークは四十度を超える酷暑だ。東向きの窓からは、近くに聳え立つ国連ビルに反射した光が容赦なく差し込んでいた。

「この部屋、外より熱いよ」

 そうぼやきながらKoichiroがエアコンのスイッチを入れた。鈍い音を立てながら冷風が出てくると、安堵の気持ちが愚痴になって口から出た。

「お義母さん、何度も大声で呼んだのよ。聞こえなかった?」

「よう聞こえんかったわ」

 義母が虚ろな目で答えた。Koichiroがはっとした表情で言った。

「おばあちゃん、熱中症じゃないの」

 慌てて水を飲ませ、冷やしたタオルを首にあててあげると、義母の意識がはっきりしてきた。

「あんたら、なにしてんの?」

「なにしてんのって、おばあちゃんが倒れているかと思って助けに来たんだよ」

 義母は合点のいかない様子で孫のKoichiroの顔をポカンと見つめた。

「お義母さん、この暑さだっていうのになんでまたエアコン切っちゃったんですか?」

「今朝、ふくらはぎをつってしもたんや。冷やしたら足に悪いと思うてな」  


 私が一人暮らしの義母を訪ねたのは二時間前のことだった。水茄子と茗荷を昼頃届けに行くと予め言っておいたのに、呼び鈴を鳴らしても応答はなかった。どこかに出かけてしまったかと思ったが、念のためなかを確認しようと、自宅で預かっていた合鍵を息子のKoichiroに持って来させた。解錠してみると、なかからチェーン・ロックがかけられていた。最悪のケースが頭によぎり、アパートの管理人にチェーン・キーの切り離しを依頼したが、工具を使ったくらいでは鎖はびくともしなかった。結局、がたいのいいKoichiroがドアに体当たりして強行突破した。


 義母はこの一連の出来事に(最後の建物を揺るがす轟音にも)全く気づかず寝ていた。意識を失っていたのかもしれず、すぐにでも病院に連れていきたいところだったが、救急外来の混雑を考えると、行くだけで義母の具合が悪化しそうな気もした。どうしたものかと彼女の主治医に電話で相談すると、明朝まで誰かに付き添ってもらって自宅で休養するのがよいだろう、とアドバイスされた。


 息子を帰宅させ、私が義母のアパートに一泊することにした。改めて辺りを見回すと、整頓好きの義母には珍しく部屋の中が散らかっている。コーヒー・テーブルの上には、ダイレクトメールの裏に書かれた走り書き、何冊かの本、書きかけの大学ノート、ファイル、ボールペンなどが、所狭しと置かれていた。意外なものに目が止まった。使い古しの国語辞典と新品の中学の国語の教科書だ。国語辞典の外箱には、幼い筆跡で書かれた夫の名前がかろうじて見えた。入手ルートが不明の『中学 新しい国語3』には、付箋がびっしりつけられている。床に転がっている丸められた紙と空のペットボトルを拾い集める私に、義母は恥ずかしそうに言った。

「今月の俳句を作ってたんやけど、いつのまにか寝てしもうた」

 義父が他界してから義母が俳句の会に通うようになったことは、数年前に聞いたことがあった。

「お義母さん、俳句を続けていたんですか?」

 義母はクリア・ファイルから、何枚ものフリー・ペーパー『週刊NY生活』の切り抜きを取り出し、無言で見せてくれた。伊藤園主催の俳句コンテストの月間入賞作品の掲載記事で、義母の句も選ばれてあった。

「お義母さん、凄いじゃないですか。教えてくださればよかったのに」

「昔何回か、記事をあげたやん」

 忘却の彼方に行ってしまっていた記憶を辿り寄せた。確かに、義母が頻繁に届けてくれる健康情報の切り抜きの束の中に、俳句コンクールの記事も入っていたことがあった。当時は残業に追われていて、義母の俳句に心を留める余裕がなかった。私がそんなだったから教えてこなかったのだろうが、義母は過去七年間でかれこれ十七回も入賞を果たしていたことがわかった。


 この日の午後、私は義母の俳句を一つ一つを鑑賞しながら、彼女がそれぞれの句にこめた気持ちとその句を詠んだ時の生活ぶりを聞いた。それは、80歳で越してきたニューヨークで単身夫を介護し、看取り、死別の悲しみを乗り越え新しい人生を謳歌し始めた義母の逞しさと優しさの物語だった。このエッセイでは、第二話以降、特に印象に残った義母の俳句と共にその物語を紹介したい。

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