004 祝祭
延々と続く
他に人の気配は無い。
地下を思わせる暗く狭い通路は酷く朽ち果て、剥き出しの錆びた配管や電線の束が散乱していた。壁から染み出る地下水がコンクリートの壁に黒々とした模様を描く。千切れたビニールが幾重にも重なり、
雑然とした、打ち捨てられた廃墟とでも言うような地下通路を歩き続け、けれどそれもやがて何もない壁だけの通路に変化し始めていく。
おそらく、別の領域に移行したのだろう。
不思議な球体の話によると、この狭間の空間は――方舟、だそうだ。
舟と言っても、具体的に船の形をしているわけではない。広大な「世界の
今、病み疲れた魂は淀む水底に沈み、夢見ることなく眠り続けている。
僕はこの狭間を渡り歩き、魂に近づくことで波紋をつくる。波紋は夢となって形作られる。夢と……僕は言葉にするが、触れた魂には確かな
別の世界線に至るか、再び眠り続けるかを。
どちらが良い悪いというのでも、正しいとか過ちであるというのでもない。
ただ今一度、選択の機となるのが僕の存在らしい。
そして僕も、僕に触れ誰かと思い出せない記憶の欠片を見つけるために、歩み続けている。
いつしか通路は、マンションの廊下を思わせるような空間になっていた。
左手には等間隔に並んだ飾り気のないドアが果てしなく続く。コンクリートの床に淡い白色系の塗装を施した壁と天井。右手はアルミのサッシだろうか、銀色の縁に囲われた窓がある。
窓の外の向こう側は同じような窓枠の並んだ建物があった。対称の造りのマンションなのだろう。暗い窓の向こうは廊下のように見える。人影は無い。建物は上下にどこまでも続き左右も果てが無い。ここは巨大な建造物の中間層のようだ。
目の前の廊下は今まで歩いてきた通路よりずっと明るかったが、日差しが射し込んでいるとは言い難かった。厚い雲が広がっているような鈍い明りで、今にも雨が降り出してきそうに思える。
明りが灯ることのない廊下は、人が住んでいるのか疑わしく思えるほどにしんと静まり返っていた。
そんな廊下を進み始めてさほど歩かないうちに、ふと、物音が聞こえたような気がして足を止めた。
続く同じ造りのドアの一つから、確かに人の気配がする。
ノブに手を伸ばす。
指先が触れる前にもう一度ドアの周囲を見渡しが、ドアベルのようなものは見当たらない。ノックをするべきか……迷い、僕はそのままノブを回しドアを開けた。
ギギギ、と鈍く硬い音ともにドアが開くと、ふわりと美味しい匂いが漂ってきた。
柔らかな湿気。微かに緑と花の匂い。ラジオから流れてくるような声と音楽。かちゃり、と食器が鳴る音。短い廊下の向こうから差し込む夕日。
「お帰りなさい」
奥から年配の女性の声が聞こえる。僕は二呼吸ほど迷ってから、小さく「失礼します」と呟いて足を踏み入れた。
手前に洗面所やトイレと思われるドアを見て、夕日に染まる奥の部屋に向かう。そこは、こじまりとしたリビングだった。
真正面に大きな窓。遠く明りの灯り始めた街並みがどこまでも続き、地平線には
窓の手前には太陽と同じ色の電球がいくつか吊り下げられて、窓辺を照らしていた。その周囲には夕日を眺めるように並ぶ幾つかの植木鉢。詳しい種類までは分からないものの、手のひらサイズから膝丈を越えるほどに育ったハーブのように見えた。
窓辺の手前には、小さめのテーブルと椅子が二脚。椅子に背もたれは無くデザインもばらばらだけれど、使い込まれ部屋の雰囲気に馴染んている。
左手の壁には花や植物を描いた小さな額がいくつも飾られ、低い棚には書きかけの絵や色鉛筆、水彩絵の具が置かれている。シンプルな古い形のラジオも。
どこかで聞いたことのあるようなDJの声と歌が、一日の終わりを祝福するかのように流れていた。反対側の壁には大きな水槽がひとつ。
穏やかで幸せな、夕暮れ時。
「もうすぐご飯、できるからね」
振り向くと、カウンターキッチンの向こうで年配の女性が背中を向け、皿を用意しながら忙しなく動いていた。後ろ姿に見覚えはない。けれど、この空間の気配はひどく懐かしい。
何をどう答えていいのか分からず立ち尽くしていると、女性はくるりとこちらを向いて僕の顔を見上げた。
「部屋で着替えていらっしゃい。おなか、空いてるでしょう」
にこりと、微笑む顔に優しい皺が刻まれる。
そして二人分の皿をテーブルに並べ始め、またキッチンに戻る。
僕が思い出せないだけで知っている人なのだろうか。それとも、僕は彼女の親しい誰かという役回りなのだろうか。
着替えると言っても、他に部屋らしい扉は見つからない。
何か……鍵となるものが足りないか、全ての事象が出そろっていないのか。
テーブルには湯気立つ食事が並んでいる。
「先にご飯を貰うよ」
「そう」
にっこり笑いながら飲み物の準備をする。僕は洗面所に戻り手を洗い、目の前の鏡を見た。
スッキリと切りそろえた黒髪に蒼みがかった採光の黒い瞳。年は、十七か十八ぐらいに思える。まっすぐな眉の形や鼻筋、唇に顎のラインすら確かに自分の顔だというのに、初めて見たような感覚がある。
右手の中指には、透き通った碧い小さな石がはまった指輪がひとつ。着ている紺のTシャツですら……こんな色と形だっただろうか。
ほんの少し前までの自分の顔と姿すら、記憶が曖昧だ。
それとも僕の姿も、訪れた夢によって変化しているのかもしれない。
「麦茶でいいわね?」
「うん」
リビングからの声に応えて戻る。
窓の外は、地平線に沈みそうな杏子色の太陽が世界を
「ご飯は大盛りね」
「普通でいいよ」
「あら、ちゃんと食べなさい」
シンプルにソテーした鶏肉にはインゲンが添えられ、小松菜と高野豆腐だろうか、しめじを合わせた煮びたしに、わかめとねぎの味噌汁もある。カブとキュウリの浅漬けと湯気立つ炊き立てのご飯。
僕は「いただきます」と手を合わせて箸をとる。
「もう少し、早く帰ってくるようにしなさいね」
出汁のきいた味噌汁の温かさが体に染みる。醤油の薫りの煮びたしに、塩と胡椒のきいた鶏肉からは肉汁が溢れる。噛むほどに甘味を感じるご飯。これは……本当に夢なのだろうか。
延々と歩き続けていたあの暗い通路こそ、僕が見ていた夢なのでは……。
そう感じながら、顔を上げた先の水槽に視線がいった。
水だけが満たされ、生きるものの影もない空虚な水槽。こんな世界を僕は見た。僕は……そこから目覚めて歩き始めたのだと。
思い出し、瞼を閉じる。
現実のように思える幸せな夢であったとしても、歪み
指輪の石が碧く光る。
僕は、僕に触れた者を知りたい。
そしてこれからも、夢を通して眠る者たちに知らせを送るだろう。いつの日か歪み凝こごる世界の終わりと始まりを見るまで。
「美味しいね」
心から思い口にした。
目の前の婦人は一瞬きょとんとした顔になってから、嬉しそうに微笑み返した。
「おなかが空いてれば、何でも美味しく感じるものよ」
心と体が満たされる、そんな世界もあるのだと僕は食事を終えて箸を置いた。
このままずっと居心地のいい部屋で
ラジオから優しい曲が流れている。
遠い昔に聞いたような気がするし、今初めて耳にしたような気もする歌。地平線の太陽だけが世界を優しい色で照らし続け、幸せな時を留めつづけている。
夢の時間は止まっているように見えても、僕という存在に触れて変わり始めるだろう。先ほどまでは無かった水槽の横の壁に、上へ向かう階段が現れたように。
僕に背を向けて座る婦人が、お茶を口にしてからぽつりと呟いた。
「最期に、いい夢を見られたわ」
言葉と同時にぱしゃりと水音がした。
夜が来る。
金色の輝きが集まり、水の流れのように踊り流れる。新たなカタチをつくる。それは夕暮れの太陽と漂う雲の色をした、手のひらほどの大きさの金魚へと変じていった。
婦人の姿が無い。
魂は一匹の魚へと変じたんだ。
「行こう」
手を伸ばし声をかけると、金と白金に輝く金魚は水の中のように宙を泳ぐ。泳ぎそのまま、伸ばした僕の手のひらに寄り添った。
重さも冷たさも感じない。
ただ微かに、水の中にあるような波の抵抗を手のひらに感じる。
大切に、胸の側に寄せるようにして階段を進み上りきる。辿り着いたそこは夕闇の青に染まった広大な空間だった。
遠くから一筋の光が落ちてくる。海や湖の底を思わせる静寂の世界に、杏子色の花びらが降りそそいでいた。まるで婦人の到着を喜ぶ、祝祭のように。
「いや花びらじゃない……これらは全部、魚だ……」
花吹雪に見えた杏子色は、どれもが手のひらほどの小さなは金魚だった。
金魚たちは宙を踊りながら僕の側まで降りてきて、くるくると舞ってみせる。その動きに誘われるように、婦人が変じた魚も踊り始めた。
「皆と一緒に行くといいよ」
手を伸ばし、旅立たせるように促す。
金と白金に輝く金魚は迎えの魚たちと踊りながら、
© 2024 Tsukiko Kanno.
方舟の白 管野月子 @tsukiko528
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