003 二重の虹と蛇きたる

 コトリ、と音がして足を止め振り向いた。

 白い壁と床と天井の続く明るい通路。等間隔に続く飾り気のない窓の外も、白い霧に包まれている。真昼を思わせる眩しい世界に自分以外の人影は無く、振り向いたそこも行こうとするみちと同じ来た路が続いていた。


 もうどのぐらい、この単調な空間を歩き続けているだろう。

 どこまでも続く通路を歩き、階段を上り、また通路を行くを繰り返す。同じような場所を延々と繰り返し巡っているようにも思えるが、不思議と僕は歩みを止めない。

 同じように見えても、微かな変化はある。

 目に見えない、肌には感じないほどでも時が流れている以上、変化はどこかにある。僕が歩み続けることで、眠りの底に沈んだ魂に触れる瞬間があるかもしれないと、それは――僕の思い出せないでいる記憶をも呼び起こすのではないだろうか。


 再び、コトリ、と音がした。

 慎重に首を巡らせる。

 まだ目に見える変化は感じないが、確かに動き始めているものがある。例えるなら目に見えない場所で木組みを組み換え、あと一押しというところですべてが暴かれる予兆のように。


 コトリ、カタリ、微かな音が続く。


 以前、僕に語り掛けてきた銀色の球体は、ここを「方舟」だと言った。

 建築物としての、縦横に組まれ切り取られた人工的な空間は、確かに船の中のようにも思う。ただ途方もなく広く果てしなく――まるで巨大な惑星を一人彷徨さまよっているのでは思うほどの造りは、とても人の手で作られた物のように見えない。

 見えはしないが、ここが夢の一部ならあえて人の手で作り上げる必要はない。

 ただ想像するだけでいい。

 ここに「それがある」とイメージするだけで。それだけ世界は形を成す。


「だったら……」


 カタリ、と鳴る音の方向に耳を澄ませ、僕は瞼を閉じる。

 そこに「それ」があると思えばいい。

 どのような形でもいい。魂と繋がるせかいへと。方舟は新たなせかいへとたどり着くための乗り物であり緩衝地帯だ。

 ここは、そういう空間なのだろうと。

 彼――とい言っていいのかは不明だが、球体が話した方舟とはそういう意味合いのものなのだろうと想像する。


 ぎきぃぃい、と重い木が軋む音がした。

 風が流れる気配がする。土埃の匂い。


 ゆっくりと瞼を開く。

 白く輝く長い通路が消え失せている。僕は途方もなく広く、頂きは闇に溶けて見えないほどに高く暗い部屋の中にいた。

 目の前には巨大な扉がひとつ。

 ゆっくりと、厚い扉が開き始めている。その向こうには、輝きながらうねるものがある。

 虹色の雲のようで、絡み合う花びらのようで、海の底の得体の知れない生き物のようにも見えるもの。炎のように刻々と姿を変えていくが熱は感じない。むしろ冷たく凍るような気配を放つ。

 更に扉が開いていく。

 虹色にうねるものは徐々に形を変えながら、長く、細く、絡み合う。

 ――これは、蛇だ、と思った。


「破滅の姿だ」


 声がした振り向くと、暗がりに一人の老人がうずくまっていた。いつからそこに居たのか気づかなかった。もしかすると、この扉と共に出現したのかもしれない。

 乏しい白い髪に骨と皮ばかりの痩せた老人は、薄汚れ擦り切れた着物をまとい、くくく、と喉を鳴らした。


「世界が滅びる。破滅が来たのだ。薄汚れた世界を粉々にするために」

「破滅……」

「そう、汚濁おだくに塗れた世界は消える。消える。消えろ。消えていくのだ」


 老人が笑う。

 隙間だらけになった歯の間から唾を飛ばし、笑い声をあげる。眼球は白く濁り、周囲が見えているようには思えない。それでも老人は同じ言葉を繰り返す。


「滅びよ、消えよ。汚れた世界は終わるのだ!」


 僕は扉の方に顔を向けなおした。


 今や扉は完全に開き、その向こうの世界を覗かせている。

 果てしない荒野と金色に輝く地平線。風が吹き遠く雷鳴が轟く。黒雲が湧き、水に落とした墨のように広がっていく。

 世界が割れていくかのようだ。

 太陽は無い。

 いや、厚い雲の間に、いつの日か見たようなリング状の陽が、暗い空に浮かんでいた。太陽と月がぴったりと重なった時にできる現象――皆既日食の光が、黒雲の輪郭を金に染め、燃えている。

 その只中に、巨大な虹色の蛇は輝きながら、絡まり合っていた。


 よくよく見てみると蛇は一匹ではなかった。二匹の蛇がそれぞれの尾を噛み絡まり合っている。絡まりながら雲をかき分け、雷を浴び、大地をたたく。

 リング状の陽に向かい咆える。


 ――ウロボロス。死と再生。永遠。不滅。破壊。そして創造。

 相反する二つの事象を壮大な姿で魅せている。

 鳥肌が立つほどに美しい現象となって、僕の視線を奪っていた。


「薄汚れた世界よ、消えよ、滅びよ! 何もかもこの世から消し去ってしまえ!」


 呪いの言葉を吐き続ける老人に、僕は答えた。


「世界は消えない」

「……は!」


 吐き捨てるように声を上げる。やはり老人は目が見えていないのか、僕の方に顔を向けても視線が合わない。ただうずくまっていた暗がりから背を伸ばし、宙に向かって拳を振り上げた。


「消えないだと! そんなバカなことがあるか、よく見てみろ。こんなにも醜く卑しい汚れ切った世界を。妬みと裏切りの世を。わしは誰も信じないぞ。この穢れはたとえ天の炎で焼き尽くしたとしても無駄なのだ! ならばすべて、壊れてしまうがいい!」


 怒鳴り返す。どれほど長い間、老人は呪詛を吐き続けてきたのだろう。この広い空間に一人きりになってしまうほどに続け、全ての繋がりを壊してしまった。

 心の大地は枯れて荒野となり、温かな太陽は月が隠してしまった。


 誰も老人のそばに寄り添うこともない。

 真実を伝える者はいない。


 伝えたとしても耳を貸さないかもしれない。それでも僕は静かに言った。


「ここは汚れもあるだろう。けれどそれ以上に輝く光が隠れている」


 そう……目の前で起きている現象は美しい。

 美しく具現化されているということは、誰かが心の中で願ったことなんだ。


 広がる黒雲――闇の縁は金の光で照らされ、刻々と移り変わる壮大な星々のように魅せている。リング状の太陽は燃え尽きることなく、絡まり合う虹色の蛇は緩やかにほどけ、やがて大地を繋ぐ架け橋になっていく。

 ――二重の虹へと。

 二重の蛇たちは天と地を結び、現世と常世を結ぶ。

 死と再生、破壊と創造。


「今、僕の目の前には、輝く二重の虹が広がっている」

「……虹? ばかな、そんなバカな……」


 老人が力なく座り込む。


「美しい光だと。そんなものは見えん。あり得ん。あり得ないものなど、見えるはずもない」


 老人は自ら目を潰したのだ。

 汚れたものは見たくないと目を背け、見る力を失った。その向こうにあるものに気づかず、信じようとせず、ただすべてを終わらせる呪いを吐き続け壊れることだけを願った。

 やがて病み疲れ、世界のひずみに呑まれてしまった。


「あり得ん……」


 どれほど言葉を重ねたところで、この老人は頑なに信じないかもしれない。

 それでも僕は、感じるままを口にする。



「何かが壊れる時、それは新しい世界が始まる時ではないだろうか」



 未だこのせかいは混沌としていても、金色の光は予兆として、僕らに先の未来を示唆しさしている。このまま光が広がるか消えていくかは、僕ら次第だ。


「まさか……そんな……」


 老人は冷たい地べたに這いつくばりながら、同じ言葉を繰り返す。


「新しい世界が始まるなど。まさか……そんな……」


 くずくずと老人の体が土のように崩れていく。やがてそれは小さな塵の山となり、風に吹かれ、やがて消えていった。

 老人の魂は、新たな世界を拒んだのだろうか……。


「問いの答えが欲しいかね?」


 ふいに、ごろり、と銀色の球体が転がり近づいてきた。

 どこで観ていたのだろう。僕は通り過ぎる風を見るように視線を落としてから、扉の向こうの美しい世界を見上げた。

 空に広がる黒雲は徐々に分かれ千切れて、隙間には金の光があふれ出している。

 太陽のリングはそのままにあるが、光は強くなっていた。何より二重の虹が雨となつて大地を潤し、荒野は天の光を映すように輝き始めている。

 この世界が光で満ちるのも間もなくだろう。


「答えは、そこにある」

「うむ」


 球体が満足気な声で頷いた。






© 2024 Tsukiko Kanno.

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