002 額縁の中

 長く続く無機質な白い階段や廊下を、どれほど歩いているだろう。

 周囲はぼんやりと明るい。光源は見当たらず、この場所自体が淡く発光しているのかと思う。手を伸ばして触れる壁の感触は滑らかで、ひやりとしている。

 ゆったりとした幅と高さの通路は、建物の中という印象が薄かった。むしろ幾何学的に切り取られ、整えなおした渓谷や巨大な洞窟を歩いている感覚に近い。


 魂と魂の狭間にある空間で、時間はどこまでも曖昧だ。数日、数か月と一人きりで歩いているようでもあり、まだ数時間のような感覚もある。

 それでもなぜか不安や恐れはなかった。

 小さな生き物がひとつひとつ糸を寄り繭を作り出すように、眠る魂は夢を紡いでいるのかもしれない。だから僕はゆっくりと呼吸を繰り返すような歩みで、白い空間を進んでいた。

 進みながら時折、水の中に在った時を思い出す。


 居心地のいい部屋で、ゆったりと微睡まどろんでいるような感覚。

 静かな……生まれた時に過ごした、時の流れすら感じないほどに穏やかな場所。

 心に想い描くだけで安らぐと――思い、ふと顔を上げると、不自然に暗い通路が目に止まった。

 この場所を歩き始めてから初めての大きな変化だ。




 通路は狭いというほどでもないが、今まで歩いてきたものよりは遥かに細い。高さは余裕があるものの、横幅は二人が並んでようやく通れるほど。長さはそれほど無く、すぐに広い部屋に出た。

 そこは絵画の展示場だった。

 光源を落とした暗い部屋の壁に沿って等間隔に絵が並び、スポットライトが描かれた世界を浮かび上がらせる。何よりも驚いたのは、絵を観ている人たちが居ることだった。


 この世界で目覚めて初めて、人に会った。

 驚き、入り口で足を止めても、鑑賞している人たちが気に留める様子はない。僕の存在はその場にいる人たちと同様に、来訪者の一人でしかないということなのだろう。

 一つ息を吐いて気持ちを落ち着けて、僕はゆっくりと展示場に入った。


 暗い色のマットを敷いているらしく床は柔らかで、足音がしない。聞こえるのはさざめきのような小さな話し声だけ。それも会話の内容まで判別できるものではない。

 観覧者の年齢性別は様々だった。一人で熱心に観ている学生もいれば親子や夫婦の姿もある。展示場の中央にはいくつかイーゼルと対になる椅子を置き、ゆったりと座りながら鑑賞する人に、スーツ姿のスタッフが説明をしている様子もあった。

 美術館の展示室というよりも、展示即売会といった様子だ。

 談笑する人々の姿から和やかな雰囲気伝わってくる。


 スタッフは新しい来訪者を目に留めても、こちらから声をかけない限り近寄ってくることは無いらしい。

 僕はゆっくりと、壁際の絵を端から眺め始めた。




 描かれたものの多くは、夕刻から明け方にかけた風景画だった。廃墟から望む満天の星空。暗い森に差し込む月明り。黄昏を過ぎた街角。夜明けに染まり始めた草原と遠く望む山々。流れる川も月を映している。

 中には宇宙そらから望む碧い星のものもあった。

 そのどれもがシンプルな金属質の額に収められ、窓の向こうを覗くように異なる世界を魅せている。


 ぐるりと、展示場の奥まで進み、僕は足を止めた。


 ひと際大きな絵がある。

 高さは人の背丈をこえ幅は両手を広げるほど。額はそれまでの無機質なものと違い古めかしい彫刻を施した木製だ。収められた絵画は淡い金色を基調とした――おそらく晴れた昼過ぎなのだろう、緑溢れるサンルームに小さな丸いカフェテーブルと椅子を置き、幼い少女と談笑する親子の姿があった。

 休日の午後、といった様子だろうか。

 少女は椅子に座る父親の膝に手を乗せ、お茶を淹れる母親を笑顔で見上げている。肩より少し長い栗色の髪は艶やかで、薄桃色のワンピースが花のように広がっていた。少女は父親似のようだ。寄り添う二人の目じりのかたちがよく似ている。

 母親の年齢は読めないが、シンプルなシャツとロングスカート姿で、薄い化粧にゆったりと結んだ髪を肩に流していた。

 多分まだ若いと思うのだけれど、静かな微笑みに深みがある。


 正に夢に見る、理想とするような家族の肖像だ。

 その幸せの全体像を観ようと一歩離れたその時、一人の少年が歩み寄って手を伸ばした。手に絵の具を含ませた筆を持って。


 声を上げる間もなく、少年は展示している絵画に筆を乗せた。

 するり、するりと走らせる筆を見て僕は思わず周囲を見渡す。スタッフも観覧者も少年の行いを気に留めている様子は無い。彼の行為そのものも、この展示場の一部のようだ。


 悪戯いたずらをしているのではない。

 彼こそがこれら絵画の作者であり、ここは彼のギャラリーでアトリエなのだと察した。


 見つめる僕を気に留めることなく、少年は熱心に筆を走らせている。

 歳は十五か十六ほど。あまり健康的とは言えない肌色に特徴の少ない顔立ち。人ごみに紛れたならあっという間に見失いそうなほどで、シャツとスラックスという身なりも質素で目立たない。

 それでもキャンバスを見つめる横顔が、描かれた女性――少女に微笑みかけている絵の中の母親とよく似ていた。


 少年と絵の中の人は、親子なのではないだろかと思うほどに。

 だとしたら、何故、絵の中に少年の姿は無いのか。


「……ん?」


 ふと、疑問が湧いた自分を不思議に思う。

 なぜ違和感を覚えたのか。

 絵画のモチーフには様々な理由があるはずだ。将来を願う、自分が理想とする家族の姿かもしれないし、購入者から注文オーダーで描いているのかもしれない。単に絵の中の人と自分が似ることも十分ありえる。

 それでも、この絵には足りないものがあると感じた。


 長く一つの絵の前で立ち止まっていたせいか、少年は気配を感じて筆を止め、僕の方へと振り向いた。視線が合う。やはり顔立ちは絵の中の母親とよく似ている。


「この絵が気になりますか?」


 年相応に見えない大人びた笑みを口元に張り付けて、少年は尋ねた。

 と同時に、展示場にいた人たちの姿が掻き消える。役目を終えたゲームのNPCが世界から退場したかのように。

 ここはこの少年の夢、魂の領域だ。

 彼が僕をいう者を招き入れ存在を定めたなら、もう余計な演出は要らない、ということなのだろう。


 僕は軽く首を傾げながら顎先に指を添える。ただ惹かれて観ていただけなのだけれど、違和感を伝えた方がいいだろうか。

 言葉を誤魔化すこともできず、僕は尋ね返した。


「このモチーフは……あなたの家族、ですか?」


 質問に質問で返すような真似をしてしまったが、少年は嫌がる様子もなくキャンバスに顔を向けた。瞳を細める。懐かしい記憶を思い起そうとしているような横顔は、わずかに寂しげな色を滲ませていた。


「新しいお父さんと妹、そして母です」


 新しい、という言葉を受けて、僕も絵を見つめた。

 更に想像を補完するように少年は続ける。


「お父さんはとても優しくて妹は可愛くて、母は……ずっと一人で頑張ってきたので、これからは幸せになれると思います。ボクも――」


 一度言葉を切る。わずかな躊躇ちゅうちょか、言葉を吐き出す勇気を溜めるように間を置いてから続けた。


「ボクも祝福したいと思い、この絵を描きました」

「君の姿は?」

「最初は描こうかと思っていたのですが、何だか気恥ずかしくて。でも、こうして描かず表わしてみると、これで完成なのだと思うのです。ここに……ボクは要らない」


 口にして、少年はわずかに肩を落とした。

 ボクは要らない。

 彼の言うように最初はそんな気持ちなど無かっただろう。それでも一つの形にしてしまうことで、世界は確定されてしまった。ボクは要らない。望む世界は美しく、より完成したものになった。ボクは要らない。もともとこうなるべくして生まれたものだったんだ。ボクは要らない。ボクは要らない――。


「本当に、要らないのだろうか」


 遮るように言葉を挟んだ。

 少年が僕を見上げる。


「新しいお父さんと妹、そしてお母さんは、君に要らないと言ったの?」

「いいえ」

「だったら……」

「……でも」


 少年は唇を噛む。


「最初のきっかけを失ってしまった」




 気にせず踏み出せばいいだろうに。

 そう思うのは僕だからだ。

 彼は不器用で、だからこのような形で受け入れようと、受け止めようと、伝えようとしてわずかな間を逃してしまった。


 小さなきっかけがあればいい。

 例えばこの愛らしい妹が少年の袖を引いて、声をかけるように――と、思う僕の思考に夢が応えた。

 想いが、形になるのだと。


「お兄ちゃん」


 高く明るい声がして僕と少年は振り向いた。

 絵の中の、花のように広がったワンピースを着た少女が栗色の髪を揺らして駆け寄り、少年の袖を引く。零れ落ちそうな笑顔で少年を見上げ、言う。


「行こう」


 何が起きたのかわからず、息をのむ少年の気配が伝わってきた。

 戸惑う顔で少女を、そして僕を見てからまた少女に顔を向ける。僕が彼の魂に触れたのがきっかけだろうか。だとしたら……。


「行こ」


 元気な声で微笑む妹に少年は顔を歪め、僕の方を向いた。

 最後のきっかけを失ってはいけない――あえて僕が言葉にしなくても彼は分かっている。静かに笑い返して少年は頷いた。


「うん、行こう」


 兄の言葉に少女は笑い返し、少し大きな中指と薬指を握って絵の方へと歩き始めた。続く少年の一歩に迷いはなく、新たな世界へと足を踏み出していく。絵の中の父親は笑顔でこちらを向き母も手を上げて招き寄せている。

 絵が、変化していた。

 明るい陽の射すサンルームの、両親のもとに向かう兄妹の後ろ姿へと。

 一人残った僕は言葉をこぼす。


「魂の檻からの解放……」

「別の世界線へ旅立ちだね」


 聞き覚えのある声がして足元を見ると、膝くらいまでの大きさの銀色の球体がごろりと転がり、僕に並んでいた。

 いつの間に、どこから現れたのだろう。

 僕の疑問を気に留める様子もなく球体は続けた。


「とりとめもなく浮かんだ思いは、この夢を紐解くヒントの場合もある。更に思いや言葉は新たな夢を形作る。気を付けて行くことだね」


 ごろーりと銀の球体は転がり、そのまま部屋の暗がりへと消えていった。

 なるほど、夢というだけあって何が起こるかわからない。

 神出鬼没の彼――球体の正体は謎のままだけれど、それもいつか分かる日が来るのだろうか。そう思い展示場を出ようとして、壁際の絵画が消えていることに気が付いた。

 ライトに照らされているのは、目の前に置かれたイーゼルに立てかけられている一枚だけ。木製だろう暗い色で、シンプルな額縁に収められたスモーキーローズを基調とする絵から、僕は目が離せなくなる。



 闇夜に浮かぶ、リングのような縁取りの新月。

 川を小舟で渡る人。

 舟の人はこちら側に背を向け顔立ちは分からない。川の周囲は柔らかな色合いの花が咲き、実がなっている。

 時は満ち始めている。

 熟れて落ちる果実を得る時は近い。目の前にはあふれるほど豊かな世界が広がっている。舟は向かう。そこへ行きたいと願うのなら。そして問う。

 貴方はこの目の前の果実に気づいているのか? と。


 ――僕はこの景色を、どこかで見たことがある。






© 2024 Tsukiko Kanno.

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