方舟の白

管野月子

001 水面の部屋

 目覚めたのは水辺だった。

 水辺――と言っても、周囲に草木が生い茂っているわけじゃない。白く冷たい、石のタイルが敷き詰められた広い部屋で、天井は高く、遠くに大きな窓が幾つも並んでいる。窓の輪郭をなぞる壁は、白い亡霊のように等間隔で浮き上がって見えた。

 窓の外は薄暗かった。

 ぼんやりと、今は何時頃なのだろうと思う。

 夜明け前か日没後か。真夜中や真昼では無さそうだ。けれど、低い雲に街の光が反射している夜かもしれないし、厚い雲に覆われた昼かもしれない。ただ物の形を曖昧にするような、鈍色にびいろに染まった空間があるだけ。そしてその鈍い明かりが、部屋の形と色を教えている。


 僕は冷たい床の上で横たわりながら、長い時間、記憶の欠片を反芻はんすうしていた。


 かすかに水の中に在った映像が浮かぶ。

 ごふり、と空気の泡が音を立て遠のいていく。軌跡を視線で追い、見上げたそこには歪んだ輪の形で踊る光があった。手が届くような距離ではない。でもたどり着けないほどに遠くもない。水面みなもに届きはしないが、下りてきた幾筋もの光が僕と水の底を照らしていた。

 底は、白く平らな床だった。繋ぎ目はあったかもしれないが記憶にない。

 左右のどちらを見ても、果ては緩やかな闇に消えていた。ただ視界の届く限り、濃淡を変えて踊る光の筋が白い床を照らす。照らされた床は、生まれては消える命のように、水面の事象を描いていた。


 誰もいない。

  

 自分以外、動くモノの気配はない。


 わずかな抵抗を生む水に温度の差異は感じず、息苦しさもない。その感覚を不思議に思いながら、僕は揺らぎに身を任せる。

 魚であればおかしなことではない。けれど、今を不思議だと思う自分がいる。

 僕が人だからだ。

 人? 自分は人なのだろうか。

 そもそも人の形をしているのだろうか。

 何故、人だと思ったのだろうか――。


 ごふり、と空気の泡がまたひとつ、水面に向い昇っていった。泡を追うように右手を伸ばし、僕はそこで、輝く指輪の存在に気が付いた。





 ゆっくりと、水辺の床から体を起こす。拾い上げた記憶の通り、僕の右手の中指には銀の指輪がひとつはまっていた。

 輪は細く薄く、細かく彫られた意匠は植物の蔓のようであり花芽や葉のようでもある。とても繊細な作りだ。更にその所々に、透き通った碧い小さな石がはまっていた。

 センターストーンは特徴的で、薄い菱形ひしがたに似た石が二つと、涙形のような石が二つ。鋭角を集めた姿は蝶をかたどったように見える。爪や石座にも模様が彫られ、銀の蔓の先で羽根を広げる碧い蝶の姿を捕らえていた。


 左の親指の腹で、指輪を撫でる。

 確かな硬さのそれを、僕はどのような経緯で手に入れたのか、いつ指にはめたのか全く覚えが無い。ただ、とても大切な物なのだということは分かる。

 例えるなら、魂の欠片を形にしたかのような……。


「碧い蝶」


 空気を震わせ届いた言葉に振り向いた。

 けれど視線の届く範囲に人の姿はない。どこから……と思う僕に応えるように、銀色の球体が目に入った。直径は一メートル近く。ぼんやりと発光しているようにも見える表面は磨かれ、傷一つ無いというのに周囲を映さない。

 ただ、銀の球体、というだけで存在するもの。

 空間に嵌め込んだ異なる空間。

 夢の続きか幻覚でも見ているのだろうか。


「まだ意識の輪郭がぼやけているようだね。今一度、固定しよう。君は人だよ。胡蝶こちょうではない」

「胡蝶?」

「昔話にあるものだよ。我々はその時々で姿を変える。輪郭を変えることで触れる事象も異なってくる。蝶であった時は光と風と花の蜜が世の全てだっただろうが、今、君は蝶と異なるものに触れ見つめ、聴くことができる。人だからさ。面白いだろう」


 ごろり、と球体はわずかに身を転がした。

 僕は首を傾げる。


「う、ん……」

「よく分からないかな?」

「そうだね」

「これはひとつのコツだよ。面白いと思ってみれば面白く、つまらないと思ってみればつまらない。恐ろしいと思えばそれは恐怖の対象となり、悲しいものだと見ればそうなる」


 球体が饒舌じょうぜつに語る。


「感情を添えるの?」

「添えずに見てもいいが、それではただ粒子のパターンを観測しただけになる。せっかく輪郭を固定したのなら、魂と魄に事象を刻んでみるのも一興というもの……ふむ」


 ごろーり、と転がり続ける。

 何か面白いアイディアを思いついたようだ。


「もう少し輪郭を固定しよう。名前を――そう、白、というのはどうかね?」

「シロ」

しろしろか。しろというにははながないし、城などと大仰おおぎょうにするつもりもない。そのぼんやりと霞かかった頭の中は、まさに白濁といった様ではないかね?」


 確かに、水の中にあった記憶以外は、すべてかぼんやりと霞んで輪郭すらつかめない。喪失するだけの記憶を持ち合わせていたかもあやしくて、僕は軽く頷いた。


「それに、白は何物にも染まりやすい。世界線を渡るにはよかろう」

「ここは……何?」

「方舟だよ」


 球体は答える。


「昔々の大昔、人を消し去る風雨が星を覆い、大地は水の底に沈んだそうだ。その中でほんの一握りの命が方舟に乗り、再び現れた大地に降りた。――時を経て病み疲れ、しるべを失った人の魂は世界のひずみに呑まれ、眠りの底に沈んだ」


 胸が、どきりと鳴る。

 何だろう。これは予感だ。

 新しい扉が開かれる、未知の世界に足を踏み入れた時のような。そしてもう決して、後戻りできないのだと知った時のような予感だ。


「沈みこごる中で、わずかに触れるものの気配を感じた時、魂は夢を見る。その夢を手掛かりに方舟へと至るだろう。そこから更に先の世へ進むか戻るかは各々の人次第だとしても、魂の檻からは解放される――かもしれない」

「僕は」

「そう、白はこれから夢を通して、眠る者たちに知らせを送るのだろうよ。このまま眠り続けたいか、別の世界線へ旅立ちたいか。選ぶのは本人」


 ごろり、と転がり球体は僕の表情を伺う。

 僕は……自分の胸に手を当て、そして水辺へと視線を向けた。


「僕は、僕も夢を経て、この方舟に乗った……ということ?」

「そう自覚するものがあるならば、それが正解だろう」

「……ここは、水面の部屋」

「一つの境界」


 球体の言葉は謎かけのように難しくて、全ての意味を紐解くことができない。

 そもそも意味があるのかどうかも分からない。意味のないだだの音の波を、まるで世界の真実のように震わせているだけなのかもしれない。


「誰が僕の魂に触れたのだろう」

「それを探してみるのも面白かろう」


 右手の碧い石がきらめく。そのまま本物の蝶となって飛び立ちそうなほどに。僕は軽くもう片方の手のひらで指輪を包み、瞼を閉じた。

 きっとこの指輪をくれた人が、あの優しく穏やかな水底を見せてくれた。

 そしてここで僕は目覚めたんだ。


「確かに面白いね」

「ひとつ忠告を」


 僕の言葉に、球体はごろりと目の前で小さく円を描いた。


「夢は時に悪夢となる。いや、むしろそうであることの方が多いだろう。理不尽で無秩序で悪意に満ち、唐突に世界は――夢は終わる」

「なんの答えも出さずに?」

「そう、白は放り出され、次の世界線を見ることになる。その先に、歪みこごる世界の終わりと始まりを見るだろう」


 頷いて、僕はゆっくりと立ち上がった。

 白い部屋の向こうに、緩やかに上る階段が見える。壁は徐々に狭まり、先は更なる通路となっているみたいだ。そこに淡く輝く光の玉が点々と置かれいる。道標みちしるべだろうか。

 目に止まったということは、誘われているのかもしれない。


「僕は救世主じゃない、ただの放浪者の一人……で、いいよね?」

「もちろんだとも、自らを救うのは己が魂だけだからね」


 選ぶのは本人。

 僕が触れたことで凝りは解けるかもしれないし、何も起こらないかもしれない。どちらであってもいいのだと、思う僕は歩き出そうとしてもう一度球体に問いかけた。


「君にもまた会える?」

「私はどの世界線にも存在しうるよ」

「それは楽しみだ」


 答えて歩き始める。

 鈍い明りの下で白く浮き上がっていた部屋は、やや青みがかった色合いに染まり始めていた。あの水底のように。

 緩やかな階段を上り、滑らかな壁に手を添える。

 微かな振動を感じる。

 揺れる水面のような……と思うと同時に細い通路の片面の壁は、巨大な水槽の面となっていた。

 大規模な水族館でなければ見られないほど大きな水槽だが、その水の中に動く物の影はない。ただ水面から降りそそぐ光の柱が、白い床を、単色の万華鏡のように白く照らしている。


「ここは、僕がいた場所だ……」


 果てが無いように思えた水底の世界は、出てみれば囲われた一つの水槽だった。






© 2024 Tsukiko Kanno.

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