第9話. 「自分のスタイルを築け ー キース・ヘリング」
次の月曜の同じ時間、香奈美が持ってきたラブレターの原稿はよりカラフルになっていた。ピンク色のカラーペンを使って書かれた文字はよりビビッドに表現され、最後の方で「好きです」と繰り返されている箇所には赤いハートが周囲に幾つも踊っている。
「良くなったじゃない」
と響は言った。
「最初に書いたのと比べてご覧よ」
そういうと、その二つを机に並べて比較してみた。
「はずかしい」
香奈美は顔を手で覆った。
「ちっとも恥ずかしがることはないさ。人を好きになるってホントに素敵なことじゃないか」
響はそう言いながら、自分の交際相手について暁春が小言を垂れている場面を想起していた。
彼女は六本木のクラブで出会ったちょっとイケてる帰国子女の女性だった。ヒップホップが好きで響のニューヨーク体験を聞いて意気投合したのだ。
「お坊ちゃん、いや師匠、あんな遊び人みたいな女と付き合ってはいけません。これ程私が口を酸っぱくして言っている理由がまだお分かりじゃないですか?」
「いいじゃん、好きなんだもん。英語も話せるし、ユナは西海岸なんでオレのニューヨーク滞在にはリスペクトしてるんだ」
「お父様が泣いておられますよ」
「あ、オヤジはオレの一時帰国中出会って、気に入ったみたいよ。明るいイマドキの子だな。響らしい。羨ましいぜ、ってさ」
暁春は黙った。
父親は芸術の技能習得に厳しい反面、価値観の受容については鷹揚で、自由な響の世代を羨んでいるところがあった。そういうところが把握できない暁春は、父の表面しかやはり見ていないのだ。
「先生、どうかされたのですか?」
響の思考があらぬ方向に飛んで、香奈美はそれを元に引き戻した。
「あ、何でもないよ」
響は再び香奈美の原稿を見た。
「あのさ、なにかインパクトが欲しいよね。君の個性が強く現れたインパクトがさ」
「インパクト、ですか?」
「そう」
響は自分専用の本棚からキース・ヘリングの画集を取り出した。
「キース・ヘリング。バスキアとほぼ同世代で、彼もまたニューヨークの壁なんかにグラフィティを書いて注目された。彼はゲイで、性的少数者への差別反対や、HIV 保持者への差別反対、麻薬の使用禁止を訴えたんだよ。
最初はこんな風に地下鉄の駅で看板が外された黒い壁にチョークで線画を描いたのさ。この迷いのない曲線や直線がどうして生まれたか、分かるかい?
こういうグラフィティって、描いてる途中に警官がやって来て逮捕されちゃうこともあるんだよ。だから、ササっと描いて見つかる前に逃げないといけない。だから彼は迷いのない線で一気に描く方法をトレーニングしたんだ。
そして人間の手足、輪郭だけを描いて顔や服装は一切描かない。そのことで、性別や人種、年齢や職業などを超越した「人間」という共通の要素を明らかにしたんだ。みんな人間って平等な筈だってね。
そして肩を組んだり、ハグし合ったりさせて、その上にメッセージを大きく書いた。ある時にはSAFE SEXー安全なセックス、であったり、ある時はCRACK IS WACKードラッグってダセエ、だったりね。
だからこの絵と文字を見たら間違いなくキース・ヘリングだって分かる。このデッカイ赤いハートも彼らしいよね。
こんな風に、これはアタシよ、って主張するスタイルを見つけて欲しいんだ。いいかい?」
「ううん、難しいなあ」
香奈美は腕組みしている。
「ほら、なにか主張したいことを繰り返して書くっていうのもひとつの方法だよ。バスキアもそうだけど、キース・ヘリングも同じようなシンボルを幾つも幾つもかいているだろ。あなたが好きです好きです好きですって、もう何回も繰り返して紙に書き散らすってのもいいと思うよ」
「あ、なるほど。はい」
丁度そんな時、玄関のベルが鳴って響が出てみるとそこには暁春が立っていた。
「あの師匠、王羲之の蘭亭序を臨書して来たので見てもらえますか?」
「いいよ」
暁春は書斎に上がると響の前に座った香奈美をしげしげと見つめた。
「あの・・・こちらの方は?」
「あ、私、この近くの都立高に通ってる生徒です。照崎香奈美と申します」
香奈美と暁春は一礼を交換した。
「この香奈美さんは私が書を指導してる高校生なんだ」p
「はあ、でも筆と墨は・・」
「そういうんじゃないんだ。後で説明するからまずその王羲之見せろよ」
暁春が臨書した半紙に四字ずつ書かれた王羲之蘭亭序を何枚も見て、香奈美は嘆息した。
「わあ、きれい」
暁春は頭を掻いた.
「いえ、私なんかまだまだですよ」
「暁春」
響は尋ねる。
「この蘭亭序って何が書いてるのか分かって書いてる?」
「あ、いえ、意味なんて分かってる人、そうそうないですよ」
「それおかしんじゃね?」
暁春はそんな風に評されて戸惑いを隠しきれなかった。
つづく
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