第4話 後継と葛藤

 帰国後、古い屋敷の父親が使っていた書斎で結城響ゆうききょうの1日は始まる。パンとコーヒーの軽い朝食を済ませると、響はオヤジが使い慣れた低い文机に向かう。


 その朝の臨書は書聖、王羲之の「蘭亭序」第八柱第三本。左にコピーを置き、右に半紙を置いて出来るだけ正確に写し取るのだ。後ろにある形見の大きなステレオコンポでオールドジャズのレコードをかけて書くのは気持ちいい。


 20分ほどすると手が慣れてきて、古典のリズムと抑揚が掴めてくる。休憩にもう一度コーヒーを飲もうと思った響は手回しのミルを取り出した。最近専門店で買ったコロンビアの豆を挽き始める。薬罐で湯を沸かして、コーヒー豆をフィルターにかけ、下の耐熱ガラス容器に焦茶の液体が少しずつ落ちるのを見つめる。


 馥郁とした香りが鼻をつき、出来立てを素焼きのカップで啜るたび幸福感に酔う。後継は本意ではないが、これはこれで良いと思う。


 ふと、隣の座敷を見ると、仏壇の隣に新聞立てにチラシ広告が詰め込まれ、横には半紙が入っていた大きな段ボール空箱が放置されている。


 「これで立体のインスタレーションが作れないか」


 そう思った響はセロテープと油性黒マジックを持って仏間に向かう。在米中注目を集めていたジャン・ミシェル・バスキアやキース・ヘリング。彼らは地下鉄の駅やビルの壁に社会派メッセージをスプレーやチョークで書いてヒーローになった。


 美術学校在学中、彼らが社会矛盾を摘発するグラフィティがいつも話題になった。巨大なケント紙をイーゼルに立てかけずに下に置き、スプレーやブラシで思いの丈を書き連ねる。でも幾らマネをしても彼らのような強い主張が湧いてこない。


 メッセージ力の無さがもどかしかった。できるとすればこの管理社会の日本で、自由を求める自己を曝け出して、若者たちの共感を得ること、アートを通して思いを共有することだ。


 彼らがグラフィティという二次元で勝負するのなら、オレは三次元でジャンク・アートをやってみようか。響は広告を捻ってまるで幼虫のような曲がった細長い紡錘形の塊を作り、それをいくつもセロテープで留めた。


  ひとつずつにマジックで嫌いな政治家や文化人のイニシャルを書いた。そして段ボール箱を立てて、そこに権力を笠で着たような表情の中年男の顔を書いて、幼虫が箱に擦り寄っていくイメージを座敷いっぱいにインスタレーションした。


 きっと美術学校のCJ やカイラに見せたら超辛口のコメントが返ってくることだろう。


「キョウ、オメエ、発想が浅いんだよ」

「コンセプトにヒネリが効いてないわ」


そして学校のカフェで議論が延々と続く。頭の中は既に元いたニューヨーク、思わず笑みが溢れる。


 そんな妄想を打ち破ったのは、玄関のドアベルだった。急いで古い戸をガラガラ開けるとそこには今週の予定を告げるためにやって来た黒縁メガネの曉春が立っていた。


 「入れよ」


短くいうと


「失礼します」


と礼をしながら靴を脱いで丁寧に揃えた後、書斎に入ってくる。


 「あれは何なのですか」


 曉春は奥の仏間にあった作りかけのインスタレーションを指さす。


「あれ、あれは作ろうと思ってる作品さ」


「坊ちゃん、いや、若師匠、もう美術はお辞めになっていただけませんか?」


 曉春はひとつ大きな溜息をつくと顔を顰めて、低い鼻から落ちそうな眼鏡を引きずって直す。

 

 響は思わず薄暗い仏間の欄間に架かっている父の威厳のある遺影を見つめる。それは響を戒めるどころか励ましているように見える。


「美術は辞めねえよ、オヤジも美術で行け、って言ったから。オレ、アメリカに行かせてもらったから」


 「あのね、もうお父さんは居られないんですよ、貴方がしっかりなさってお父様の偉業を継がなくてどうするんですか?」

「あのなあ、後継は曉春に任せとけ、って言い残してオレはアメリカへ・・・」


「私はお父様から伺っておりませんよ、証拠はあるんですか?」

「お前、父の急死をいいことにオレの話を無かったことにしようとしてるだろ」


「書の腕前ではこの幽門書道会ゆうもんしょどうかいで貴方に並ぶものなしって、お父様は仰っていたんですよ、いまさらなんで私が・・・ヘタクソ曉春っていつも罵られて・・・」


「だから父はさ、オレはこの封建社会には適応できねえって・・・」


「封建社会、ええ、そうですよ。貴方は私にいつもこうやってタメ口なんですからね。否定している貴方自身が私の本名も知らずに曉春って呼び捨てだ。そんなの勝手だよ、好きなことやれたのは誰のお陰なんだ、


 お父様だけじゃなくてこの書道会の運営とかみんなみんな下働きを誰がやってたと思ってるんだ!甘えるなよ、このお坊ちゃんが」


響は返す言葉を失った。曉春のいうことには一理あった。


「ちょっと散歩に出てくる」


そう言い残すと響は晩秋の朝風の中、スタジャンを羽織って玄関から出て行った。


つづく



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