第3話  生い立ち、そして

 幼い時から父親の厳しい指導を受けた。正座しろ、背筋を伸ばせ、そして筆と鉛筆、箸の正しい持ち方。おかしいと飯も食わしてくれなかった。悔しくて何度も泣いた。しかしそんな父の厳格さは理に叶った日本の美学と技能に基づいていた。


 人差し指と中指でしっかりと筆を固定させて、更に薬指で背後から固めると、運筆の時、筆が震えない。縦線をひくとき、体ごと後ろへ引くと縦線が歪まない。


 そしてなんでもよく観察すること。手本を渡されたら書く前に穴が開くほどよく見ろ、と言われた。どこからどんな角度で筆が入っているのか、回転させる時、筆の先は線のどこを通っているのか。


  母親とは不幸にも早くに死別した。遊び相手は専ら弟子の曉春だった。

 飯のときも、小さな豆を摘み損ねるとオヤジの罵声が飛んできた。


「バカヤロウ、どこ見てやがる、何でもしっかり見ろ」


 しかしオヤジの溢れんばかりの書籍を見て散らかしても何も怒られることはない。王羲之、顔真卿、米芾、蘇軾、藤原行成や小野道風、様々な書家が様々な書体で書いていた。絵文字みたいな甲骨文、やたら横線が整って堅苦しい曹全碑の隷書、藤原佐理の落書きみたいな草書や三色紙の風雅な散らし書き。


 時の経つのを忘れて畳に散らかして見ているといつに間にかやって来て、


「さて、どれが好きな文字ですかな」


 などと嬉しそうに尋ねながら傍にいる。


 学校ではいつも習字と図工のヒーローだった。区や都の展覧会でも特選は当たり前、いつの間にか絵にも興味を持っていた。


 学校の帰り道、絵を教えていた「ヒゲの爺さん」こと正木重三郎まさきじゅうざぶろうの画塾に入ったのは小学校3年の頃だった。


 父親は「大いにやるべし」と言った。「書と画は一体のもの。書画同源、書画一致、これは古来東洋の極めた芸の道じゃ」


 「ヒゲの爺さん」は大通りから一本入った路地をもう一本入った公園の突き当たり、大きな南天の木がある粗末なボロ屋に住んでいた。いつも部屋の中はタバコ臭く、絵の具とテレピン油の匂いがする。打ち捨てられた様なキャンバスの乱雑な山、大きな木箱に乱雑に入った色取り取りの大小絵の具チューブ、大きな机とイーゼル、ロッキングチェアと本棚の上に置かれた「ダルマ」という名のウイスキーボトル。


 そこはまるで魔法の王国の様で、それこそ本棚から画集をいくら眺めていても、爺さんはニコニコしながらヒゲを撫でてウイスキーをグラスでチビチビやっている。


 子供の絵の様なマチスやピカソ、ちょっと怖くて不思議なダリ、そしてこれは凄い、と思わせるターナーやコンスタブルの雄大な風景画。時間が経つのを忘れて、絵を描かなくてもなにも言われなくて、時々心配になる。


 「今日は何も描かなくてすみません」


 というと、爺さんは「いや、見るのも勉強勉強、こうやって酒を飲むのもまた人生の勉強じゃ、アハハ」と笑う。


 そして柘榴とレモンをテーブルに乗せて透明水彩で描き出した時、爺さんの表情はいつになく厳しくなった。


「もっとよく見ろ、そこはそんな風になってるか?回り込んで、下から上から近づいてもっともっと見るんじゃ」


 父親と同じだと思った。見ることによって景色が変わることをこの二人の師匠を通して学んだ。響は次第に美術に魅せられて行った。美大へ行きたいと言った日も父親は太鼓判を押してくれた。


 「どうせ行くなら、とことん極めてみろ」


 美大予備校に行って一日中デッサンに明け暮れていた日々。父は響の画用紙を見て「上手くなったな」と一言言ったきり、書斎へ入って行った。


 そしてアメリカの美術学校に留学したいと行った日に、父親は自分の前に響を正座させた。てっきりどやしつけられるものと覚悟していたのに父親はこう言った。


「この書という封建世界はお前には向かない。それはオレが一番知っている。お前の臨書はあの下手くそな曉春よりよっぽど上手い、いやうちの社中ではな、お前が一番上手い、流石我が息子じゃ。ハッハハ。


 後継は曉春にやらせたらいい、羽ばたいてゆけ、響。その代わり、泣き言を行言って帰って来てもウチの社中には入れてやらん、


 今日からお前は破門じゃ、美術で生きてゆけ。そしてオレより偉大になるんじゃ、よいか」


「はい」


響は大声で返事をすると、オヤジと向かい合って泣いた。


そして響はアメリカへ単身飛び立った。


父親の危篤に際して社中では会議が持たれ、心臓発作で意識不明のなか、曉春は後継を辞退した。


「私より直系の曉星ぎょうせい様がお継ぎになるのがスジというもの、私より曉星様の方が実力もずっとおありです」


曉星というのが響の雅号だった。


つづく



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