第2話 絶望の帰国
1987年10月
東京 住宅地の中にある樹木に囲まれた旧家
「坊ちゃん、困ります」
黒檀の机を叩いて、その小太りで黒眼鏡をかけた男は叫んだ。
「雨は夜更け過ぎにい、雪へと変わるだろ〜、ね、曉春、あのJRのCMいいよなあ。女の子がクリスマスイブに駅でカレシ、待ってんだよ、大きく息をしてさ、んでさあ・・・」
響は
「坊ちゃん、マジメに聞いてください、アメリカ行ってどうなっちゃったんですか、錬成会にTシャツと半ズボンで来るなんて、しかも何ですか、マジックで大きく落書きしてあるようなもの着て来るなんて!」
「ああ、あれ、ハーフパンツって言ってよ、小学生じゃあるまいし。で、で、グラフィティっていうやつよ、メッセージ書いてるんだぜ」
響は小筆を筆置きに置いて、ずり落ちそうな黒メガネを鼻に掛け直す曉春の顔を見上げていう。
曉春は手を組んで机の前へ突き出す。
「あのね、皆さんもうカンカンですよ、後継があんなんじゃ、この名誉ある
響の表情が一気に殺気だち、目を剥いてまくしたてた。
「あのさ、オヤジのこと、オヤジのことをもう一回そんな風に言ってみろ、曉春。ぶん殴られたいか、曉春!」
曉春は下を向いて黙りこくった。
1987年6月 ニューヨーク ウイルキンズ美術学校 実習室
ニューヨーク、ロウアーマンハッタン、グリニッジビレッジ端にある名門、ウイルキンズ美術学校の大きな窓からは並木道、洒落たカフェやギャラリー、レストランが一望できる。今しも一人の背が高い白人青年が、響が着ている白Tシャツを引っ張って黒太マジックで何かを書こうとしている。
「|Wow wow cut it out dude《おーいやめろよ》」
後ろから少しがっちりした女子学生のカイラが響の腕を抱えて押さえつける。
そう大書すると漸く青年は響を放して笑う。
「キョウ、お前が東京で
「CJ,ありがとう、カイラも。君たちと出会えたことがオレにとって一番の財産だよ、一生忘れない」
前に回ってきた一回り大きいカイラとハグする。考えてみれば恋愛関係にない異性とハグすることすら東京じゃ考えられないことだ。カイラの香水が僅かに匂う。
「キョウ、ベイビー。何言ってんの、修士取ったのに、もう一度ここへ戻ってきて講師にでもなったらどうなの?、MASTER OF FINE ARTS が泣くわよ、ベイビー」
「もうそのベイビーやめろよな、ビッグブラザー」
童顔で背の低い響はカイラからしたらキュートなベイビーだそうだ。
「言ったわね、キョウ、ベイビー」
もう一度強くハグすると涙が止まらない。
「やっぱ、ベイビーだぜ、キョウ」
CJが上を向いて笑う。ふと実習室の隅、窓際を見ると今日も誰かが不思議な原色とりどりの立体を展示している。
「こんなの、日本の美大じゃお目にかかれなかったよ、毎日こうやって誰かが自己表現してるんだもんな」
ここで勉強を始めた時のことも印象的だった。学生は国籍も民族も違う。ラティーノ、メキシカン、東欧系、アフリカンアメリカン、中国からの国費留学生、勉強に人一倍熱心なコリアン、北欧から来たやたら気まぐれなアーティスト、価値観も言葉も文化も、
「皆んな違って皆んないい」
そんな雰囲気だ。
チェルシーの小さなギャラリーに行って、ちょっと時代錯誤的な抽象表現主義の絵画を見ていた女性が絵の前で突然体をくねらせて踊り出す。
「ねえ、CJ, あれ、何してるの?」
私が怪訝に尋ねるとCJはサモ普通だと言わんばかりに響をマジマジと見る。
「え、だって感想を表現してるのさ、あの子にゃあ訴えたんだろ、オレはちょっとな」
東京の美術館やギャラリーで絵を見てあんな反応する奴はいねえよな、やっぱここはアートの中心ニューヨークなんだ・・・・。
響はしみじみこの地に来たことを喜んだ、そしてそれを喜んで受け入れてくれた父を。
つづく
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