THE ULTIMATE LOVE LETTERーバスキア、ヘリング、ウオーホル、アートラバーによるアートへのラブレター
山谷灘尾
第1話 ショッキング・バレンタイン
1987年2月14日
グランドは都会の真ん中にしては大きく取られている。それはこの学校が歴史が古く、まだ周辺の住宅地が未開発で、用地買収が容易だった頃の遺産だからだ。
二月中旬というのに暖かく湿った粉糠雨の降るその日、香奈美にとって勝負をかける夕方の一瞬を迎えていた。生徒昇降口のシャッターに出っ張った先端から滴る雨粒を見上げつつ、香奈美は白い息を弾ませてサッカー部が練習を終わるのを待った。
右手を添えたコンクリートの四角い柱は冷たかった。しかし彼女が立っている柱の斜め後ろ柱の背後で、親友が控えてくれることで香奈美の心は少しだけ暖まった。
「はあはあ」
息を弾ませてその少年は俯き加減に小走りにやって来た。乱れた長い髪、雨と泥で汚れた白い冬用ジャケットと黒いジャージ、そしてカチカチ足元で音を立てるスパイクを乱暴に脱ぎ捨てる。
下足箱から上履きの青いスリッパに履き替えると、少年は急足で右に折れて第一校舎へ入って行こうとする。
香奈美はそれを追いかけてゆく。昇降口から向かって校舎ヘ入ろうとする頃、漸く香奈美は少年に追いついて、前に立つ。
「え、何?」
訝しげに香奈美を見る少年。
「あの、あの、これ受け取ってください」
頭を下げ、腕を突き出して、チョコレートが入った小さな薄ピンク色包みを差し出す。
「どけよ、オレ、ミーティングなんだよ」
少年は邪険に香奈美にそう言うと、香奈美の腕を振り払って走り去ってゆく。雨で濡れた少年の指跡が香奈美のウールオーバーコートに少しついて、それを触れるとひと塩冷たさが感じられる。
パタパタパタ
少年が教室へ階段を駆け上がるスリッパ音が小さくなってゆく。斜め後ろから親友の
「目も、目も合してくれなかった」
香奈美が呟くように言うと、結愛はもう一度ゆっくり香奈美の腕を撫でる。
「あんなに優しかったのに、なんで?」
まだ香奈美には出来事の意味が飲み込めない。
それは1ヶ月前の出来事だった。プラスティック製の筆箱にシャープペンシルと鉛筆を入れて、教科書とノートの上に乗せ、一階上の化学教室に向かって階段を駆け上がっていた。
踊り場を過ぎて体の角度を変えた瞬間、誰かが溢したジュースの滑りで、香奈美は斜め前に階段に倒れた。踊り場から擦り落ちた筆箱が開き、鉛筆と消しゴム、シャープペンシルが派手なリズム音を立てて散乱した。
化学に遅れちゃう、
そう思った瞬間、ひとりの少年が前から声を掛けて来た。
「大丈夫? ケガなかった? あ、ちょっと待っててね」
そう言うと踊り場から階段を降りて散らばった筆記具を拾い始める。
「あ、いいです。授業遅れますよ」
香奈美は申し訳なさそうに階段を降りてゆく。
「君の方こそ、どこの授業、あ、3組はこの時間化学だろ、ヨウがそうだから。早く行かないと」
そう言いながら必死に転がった鉛筆を集める。
「あの、せめてお名前だけでも」
香奈美は咄嗟に出たその時代劇めいたセリフにちょっと自嘲して、相好を崩す。
「どしたの? あ、オレ1年6組の
にっこり笑うと全部を丁寧に筆箱に入れて、渡してくれた。
「ありがとうございます」
香奈美が立って深々礼をする。
「笑顔、カワイイじゃん」
聡は恥ずかしげにそう短く言うと、笑顔で手を振って教室へ走り去った。
その日から香奈美は心が疼く熱病にかかった。
来る日も来る日も、聡が言った最後の一言が耳をついて出てくる。
嗚呼、なぜ。
この夕方の出来事を上手く消化出来ていない。
つづく
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