第5話 出逢いは突然に
響は薄寒い晩秋の大通りをある目的地を目指して歩いて行った。それは徒歩で15分程かかる絵の恩師、
米国留学中に父からの国際電話で正木の逝去を告げられた時、ちょうど卒業制作中で帰国できなかった。それが心残りで仕方なかったのだ。その後父から正木先生の自宅は取り壊され、ワンルームマンションになったと教えられた。
在りし日の面影を訪ねてみたくてたまらなくなった響は歩みを速めた。道すがら先程暁春の言った言葉が耳について離れない。
「このお坊ちゃんが!」
確かに彼に対する自分の態度は横着だ、それは幼い日より身に付いてしまっている。響は数週間前に行われた
コの字型に並べられた長机の上座に座っていた会長の響と隣の暁春は、出展された作品の受賞者を提案することになっていた。篆刻の部に、響は新しい感覚の作家を特選に選び、提案した。それは暁春を散々説得した上での提案だった。
響の雅号、
線の片側だけを厳しく切り込み、もう片側を補刀せずに放置したスタイルは、中国清朝最後の文人と言われる
ある骨董店で斉白石が描いた川海老の大群を描いた水墨画に響は驚嘆した。墨の濃淡だけで清流の中を泳ぐ何尾もの川海老がまるで生きているように泳いでいく。呆然とする響に父は一言、
「いいものを見たな、響」
と言い残して、先を急がせようと歩き出した。
しかし斉白石の現代的な書画はこの時代まだ保守的な書壇では評価が低かった。しかもアルファベットで刻印するなんぞ、論外だ。提案後、直ぐに着物姿の杖を前についた老書家、
「こんな品格のない印は評価にも値しない。一体新会長はどういう意図でこれを特選に選出されるのか伺いたい」
響は右横の暁春と目配せして立ち上がり、反論した。
「確かに旧来の印から見ると奇異に映りますが、この若い作家はちゃんと古典を勉強した上で、文脈に則ってこの作品を上梓しているのです。何卒、書というこの世界を現代に根付かせるためにも一考を願いたいものです」
「アルファベットで印を彫るなど、聞いたこともない。しかもそれをこの栄誉ある香蘭書道展に提案なさるなど言語同断じゃな。アメリカかぶれの息子は所詮、書など分からぬものよ」
その演歌の節をつけたような傲慢な語り口に、暁春は机を叩いて立ち上がった。
「口を慎みなさい、新しい会長を支えるべき理事が何という失礼な物言いだ。批判はいいが、こういうのは誹謗中傷って言うんですよ。これ以上仰ったら、退場を命じますよ」
暁春は低い鼻にかかった黒眼鏡を何度も引き上げながら絶叫するかのような剣幕で言い切った。響は暁春の体を後ろから支えて、座らせながら耳元で
「ありがとう、暁春」
と呟いた。
響と暁春は、ジグソーパズルのかみ合う2ピースだったのだ。
記憶を辿りながら知らぬ間に路地を幾つか曲がり、正木先生の旧居前に植えられた南天の木を見つけた。しかし昔日のぼろ家は既になく、バブル景気らしいプレハブのワンルームが建っている。
響はその真っ赤な無数についた南天の実に、画塾にいた頃のように語りかけた。
「先生、オレってやっぱ道を間違えてるのかな」
すると在りし日のニコニコ笑う「ヒゲのじいさん」が南天の実の上に現れた。
「何とかいってよ、オレを叱ってよ、よく見ろ、もっと観察するんだって」
そう言ってもじいさんはこちらを向いてニコニコ笑うだけだ。響はそのまま身を翻すと、路地を出て大通りを自宅へ向かった。
銀杏並木が色づいて落ち葉が歩道を鮮やかに染めている。景気が良くなってから公衆電話も昔日の狭くて汚れたボックスから、大きな窓のついた鮮やかなグリーンのボックスに変化している。
響は自宅への路地を左に曲がろうとしたその時、後ろから急いで漕いできた自転車と激しく衝突した。それは女子高生だった。響は投げ出されて、右斜め前の電話ボックスにぶつかり、女子高生は逆に左前の店先に俯せに投げ出されていた。前カゴに入っていたカバンが開いていたものか、教科書やペン、ノートが歩道に撒き散らされている。
「だ、大丈夫ですか」
響は散乱したものをかき集める暇もなく、足の痛みを堪えて体を屈め、女子高生に寄り添った。
つづく
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