第8話 「真っ直ぐ書かなくていい」

 次の月曜日、時刻が午後5時を過ぎる頃、少女はやって来た。前の週に暁春から手渡された公募展の日程や搬入、搬出の日と時間、出展料や新しい作家の納入するべき年会費などが事細かに書かれた書類を見ながらカレンダーに書き入れている時だった。


 「ったく、何だよこの年会費の高さ、30万なんてどういう意味なんだよ。何に使うんだよ。それに受賞した作家の「謝礼」って一体何なんだ?受賞したのはそいつの実力だろうが。なんで師匠に謝礼なんか払う必要あるんだよ。


 それからこの雅号をもらった作家が師匠に支払う謝礼が20万が相場って何なんだ。しかも暁春はその左にマル秘って書いてるけど、公表できない謝礼って言わば賄賂じゃんか。オレはオヤジから暁星って雅号ただでもらったけど、それはオレがやっぱ「お坊ちゃん」で特別扱いってことなのか。


  あーあ、全く馬鹿げてるぜ。雅号なんてアーティストネームなんだから自分で好きにつけたらいいじゃん。

 

 晩秋の日没は余りに急速だ。薄暗くなる中で響は書斎の天井から吊るされたクラシックな細長い蛍光灯に取り付けられた長めの紐を引いて部屋を明るくした。玄関のドアベルが鳴り、古いガラス戸をガラガラと横に開けると香奈美が立っていた。


「入りなさいよ」


 響は腕で中をさし示して招き入れた。


「失礼します」

 

 と短く言うと制服姿の香奈美は布鞄を横に置き、畳の上に正座した。


「脚は崩していいよ」


響がそう言うと香奈美は軽く一礼して、横に体勢を少し崩して響の文机の後ろから呼びかけた。


「あの、一応書いて持って来たんですけど」


 それはA4サイズのコピー用紙だった。先週見たのと同じ文面が罫線なしで綴られている。


「すみません、こんなに乱れちゃって」


 響は香奈美の文字を見た。イマドキの女の子が書くあちこちに方向が乱れるオレ釘みたいな字だ。しかし波打つように乱れる行には、整わない故の生き生きした美しさがある。


「乱れることが悪いことではない」


響は言い切った。


「これを見ろよ」


今日はまたジャン・ミシェル・バスキアの画集を見せた。


 1970年代の終わり、アメリカはオイルショックに飲まれ、日本やドイツの製品に呑まれて経済は停滞していた。経済的中心であるべきニューヨークは犯罪が多発して、下町の一部は廃墟の如くに変貌し、地下鉄の駅や街の壁は落書きで溢れた。


 落書きの主体である「タギング」はギャングや不良グループが己の縄張りを示すサインであった。そんな中で2人のアーティストがのタギングを新しいアートへと変貌させようとしていた。そのひとりが人種差別的を告発したジャン・ミシェル・バスキア、そしてもうひとりが自らゲイで、LGBTの権利を主張したキース・ヘリング。


 バスキアはダウンタウンの建物の壁に自分の名前をSAMO と記し、まるで雅印のように©️を付けて商標に見立てた。


 「このSAMO という名前はSAME OLD SHITー変わり映えのしないヤツって意味なんだ。自虐的ながらも一際大きく書いてるだろ。しかもレンガの横列を全く無視して右の方に傾いて行っている。


 彼は支配層である白人に、こんな風に思われてる自分がいつかお前らにとってかわるゼ、って宣言してるんだ。だから規則であるレンガの並びを無視して大きく書いてる。だからさ、自分が言いたいことをどう書くのか計算して、それを白紙の中にぶつけてごらんよ。


 じゃあさ、これはどうだろう」響は父親の書棚の中から一冊の書道の本を引き抜いた。宋代の古典、蘇軾が書いた「黄州寒食詩巻」。 「学校で科挙のことは習っただろ。中国に昔あった超難関の国家公務員試験だよ。蘇軾ってそれを首席で合格してエリート街道を歩んでいた。書の世界でもこれは名筆の中の名筆とされている。蘇軾ってホントに教養人なんだよな。


 ところが中央政界で王安石っていう反対派と対立して、黄州っていう辺鄙なところに流罪になるんだ。この寒食っていうのは、丁度新暦の四月「晴明節」の頃に食物に

火を通さず冷たい物を食べる習慣だ。


自我來黄州 已過三寒食 年年欲惜春 春去不容惜


我、黄州に来りしより、すでに三たびの寒食を過せり。年々、春を惜しまんと欲すれども、春去って惜しむをいれず


「私が黄州に来てから、すでに三度の寒食節を過ごした。
毎年春をいとおしもうとしても、春は容赦なく過ぎ去っていく。」


この人、我、っていう字を左に傾けて書いてるけど、その下の黄州を右に傾けてバランスを取ってるよね。で、年々、の年、を縦棒ビューって長く下に伸ばして書いてる。


 自分が主張したいところをわざとこうやって強調してるのさ。だから次来る時はもっと文章も推敲して自分の気持ちをどう強調できるか、書き直して持って来てごらんよ」


 「こんな書道の授業って初めて受けました。結城先生ってホントになんかスゴイ、来週もまた来ます。書き直して来ますよ」


 「ひとつだけいいかい、これ原稿なんだからさ、消しゴム使うなよ。間違ったら鉛筆の線で消せばいい。その方が自分の思考が見える化できるから」


「分かりました、どうもありがとうございます」


 香奈美はだいぶ響に慣れて来ていた。響は初めて本物の「書」を教えられる弟子を持った、と思った。


つづく








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