アイレン

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アイレン

 春先の教室では窓から差し込む日差しが、淡い光を放ち、教室全体を温かな雰囲気で包み込んでいいた。

 その陽気さにつられ、窓際でまどろんでいた少年が、ハッと目を覚ます。

 自分がうたた寝していたことに気づくと、恥ずかしそうに目をこすりながら顔を上げる。

 少し細身な長身。

 やや幼さはあるが、目鼻立ちはしっかりとしている。

 さらっとした黒髪が光に照らされ、亜麻色に染まっているのが見える。

 見るからに優男といった風貌で、乙女心を刺激する風貌をしていそうである。

 しかし、いかんせん幼い印象が先に立ってしまうのは否めない。

 名前を浅見秀晴という。

 秀晴は寝起きの頭をフル回転させて現状を把握すると、はぁーっとため息をつく。

「何寝ぼけてるの?」

 そんな秀晴に声をかけたのは、一人の女子生徒だった。

 濃紺色の制服に身を包み、白い肌とよく映えている。

 小柄ながら目鼻立ちがしっかりしている彼女は、机を挟んで向かい側の椅子に腰掛けていた。

 短く切り揃えた髪が軽く揺れる。

 その様子はどこか小動物を連想させ、可愛らしくも見える。

 彼女の名前は戸松純子という。

 男女問わず人気のある存在である。

 柔道ではインターハイ出場経験もあり、学校ではちょっとした有名人だ。

 といっても、秀晴は純子とは長い付き合いなので、そういった意味での魅力はないと思っている。

「いや。もう卒業も近いなって……」

 秀晴がぼんやりと答える。

 さっきまで夢を見ていたこともあってか、妙に感傷的になっているようだ。

「まあね。あっという間の高校生活だった気がするね」

 純子は軽く息を吐くと、苦笑しながら応える。

 純子は秀晴の方を、チラリと見る。

 秀晴はぼーっと窓の外を眺めていた。

 少し外ハネした髪が風に揺られ、気持ちよさそうに目を細めた姿は、どこか猫を思わせる。

 そんな姿が微笑ましく、純子の口元が思わずほころぶ。

 戸松純子と浅見秀晴の二人は同じ中学出身である。

 秀晴とは同じ柔道部で一緒になって以来、親しくしていた。ライバルというには実力差が歴然であったが、お互い気を遣わないためか、昔から一緒にいることが多かった。

 身長も高く体格もいい純子は女子柔道のホープとして期待されていたが、秀晴はひょろりとした長身のスポーツに向いた体格ではなく、伸び悩んでいた。

 しかし、試合に出ればそれなりの成績を残せる選手であったため、学年が上がるにつれ、試合にも多く出場していた。

 戸松純子は秀晴のそばにいると、何となく落ち着くのである。

 それは、異性に対して興味のない純子でも例外ではなかった。

 恋人というよりも兄妹といったような関係に近い。

 グループで遊びに行った際は、ファミレスとファーストフードで意見が対立し、その矢面で対立するのが、この二人になる。

 性格は正反対に見えるが、不思議と馬が合う二人なのである。

 周囲にはカップルと勘違いされがちだが、そんな関係ではないことは互いに知っており、秀晴に至っては純子とはたまに会話するくらいの仲だと考えていた。

 二人が窓越しに話すのは、決まって外の風景だ。

 理由は簡単で、顔を合わせて話すには照れくさい内容の時である。

 勉強の話や部活の話など、本当に他愛のない話ではあったが、意外と盛り上がっていたりする。

 何気ない時間が、純子は好きだ。

 いや、好きなのは時間ではなく、秀晴という人柄である。

 本人に言う気は全くないが、純子は秀晴を心から好いていた。

 明るい性格でいつも周りを明るくしてくれる存在で、そばにいるだけでこちらまで笑顔になる。

 そんな彼のことがとても愛おしく感じていたのである。

 言葉にすると恥ずかしいので、絶対に口にはしないが……。

 しばしの沈黙が流れる。

 その沈黙を破ったのは秀晴であった。

「今日の放課後、ちょっと付き合ってくれない?」

 秀晴が思い切ったように純子に話しかける。

 突然の誘いに驚いた純子だったが、すぐに喜びの表情を浮かべると、元気よく応える。

「何よ。秀晴がアタシに、お願いするなんて珍しい」

 純子はそう答えると、いたずらっぽく笑う。

 そんな純子の様子を、今度は秀晴が呆然と眺めてしまう。

 いつもなら、嬉しそうに頭をかいたりしていたが、今日に限ってはそれすらできなかったからだ。

 様子のおかしい秀晴に気づいた純子が首を傾げると、彼はハッとして再び笑顔に戻る。

 その後、少し沈黙が流れる。

 時計の秒針が時を刻む音のみが教室内に響く。

 いつもなら気にならないそれも、今日はなぜか大きく聞こえた。


 ◆


 秀晴と純子は、少し夕暮れ時を迎えた

 街の風景の中を、のんびり歩いている。

 放課後特有のどこか浮かれた雰囲気のせいか、二人とも無言のままだ。

 しかし、決して気まずい訳ではない。むしろ心地よい空気で満ちていた。

「ねえ。どこに行くの?」

 そんな沈黙を破ったのは純子だった。彼女は秀晴の顔を覗き込んで尋ねる。

 どうやら、どこに行くかを聞くのが楽しみらしい。

 それは秀晴も同じことであり、むしろ何も聞かされていない純子の方が興味津々だった。そんな彼女に対して秀晴は苦笑いを返すと、再び黙り込んでしまう。

 純子はぷうっと頰を膨らませるが、それ以上追求はしなかった。

「もうすぐだよ」

 秀晴はそう言うと、それ以上何も言わず歩き続ける。

 彼の瞳に街の景色が映る。

 楽しそうな声や店から漏れる音の数々。

 しかし、その間を縫うように彼は足早に歩いていく。

(どこに行くつもりなのよ?)

 疑問を抱きつつ、純子は黙ってついていくことにした。

 二人が到着したのは、小さなフラワーショップだった。

 周りはレンガ造りで、どこか大人びた雰囲気を醸し出している。

 普段なら近寄りがたい感じだが、今は色とりどりの花々が咲き乱れており、その可憐な姿をさらけ出していた。

(ここで何をするのかしら?)

 そんな純子の疑問に答えるように、秀晴はいきなり店の中に入ると店員の女性に話しかける。

 すると女性は、ニッコリと微笑み、店の奥から鉢植えの花が入った袋を差し出した。秀晴は、それを受け取る。

 料金を支払い済みなのだろう、花の入った袋を手にすると、再び店から出てくる。

 花が入っているその鉢を渡され、純子は不思議そうにする。

 その花は蝶形で上部が淡い紫いと、下部が濃い紫色をしていた。とても大きな花びらが反り返っているため、強い印象を受けた。

 花を純子は不思議そうに手に取ると、秀晴の方を見る。

「何よ。急に花なんて」

 純子が秀晴に問いかける。

 すると、秀晴は優しく微笑みながら口を開く。

 それはまるで、母親に隠し事がバレた子供のように無邪気な笑顔だった。

 その表情から感じるのは嬉しさや気恥ずかしさといった感情であり、どこか照れているようにも見えた。

 秀晴は、視線を合わせられないのか、明後日の方向を向いてしまっている。

 しかし、その頰は赤く染まっており、照れているように見えた。

「この前のバレンタインのお礼。3月には卒業するから、ホワイトデーには渡せないと思ってね」

 秀晴が何とか声を絞り出すと、純子にその理由を告げる。

 バレンタインデーのお返しを渡されたことに気づいた純子は、驚きのあまり声が出せなかったようだ。

「な、何よ。あれは、例年通りの義理なんだから、そんな気を使わなくていいのに」

 純子はそう言うと、苦笑いを見せる。その口元はわずかにほころんでいた。

 バレンタインデーの際に渡したチョコに対するお礼だと分かってはいるが、それでも嬉しかったのである。そんな彼女に対して、秀晴は少し照れながら話す。

「僕は地元の福祉関係の学校で勉強するから、ここに残るけど。純子は進学で、地元を離れるんだろ。なら、次に会えるのはいつになるか分からないし……」

 その言葉に、再び照れを隠すように純子は視線を逸らす。

 秀晴の言葉を聞いて、不意に脳裏に浮かんだことがある。それは卒業した後の未来だ。

 こうして一緒に歩くことも、話すこともなくなってしまうのだろうかと考えてしまう。そう考えると、寂しい気持ちになってしまう。

 彼氏彼女の関係ではなかったが、はたから見れば恋人同士にも見えるような関係の二人だ。

 嫌いではない。

 嫌いではないが、好きかと聞かれれば……、そうだろう。

 しかし、気持ちを口にすることで、この関係が崩れてしまうことは怖かった。

(やだ! なんでアタシがこんなこと考えなきゃならないのよ!)

 それを否定するかのように、純子は頭をぶんぶん振ってしまう。そんな彼女の様子を見て、秀晴は心配そうな表情になる。

 それを見た純子が慌てて言い訳をする。

「なんでもない。なんでも……」

 そう呟きながら、彼女はちらっと秀晴の顔を見る。

(本当に、ずるいんだから……)

 そんな純子に対して、秀晴は屈託のない笑顔を浮かべた、その表情にはどこか寂しげなものがあった。


 ◆


 卒業式後。

 二人は高校を卒業し、それぞれが新たな巣立ちへと向けて歩み出した。

 純子は地元を離れ、大学に進学した。

 部屋選びをし、最低限の荷物を送って準備を整えた後、純子は電車で生まれ育った街を後にする。

 電車からの風景を眺めれば、そこには桜並木がどこまでも続いていた。まるで自分の新たな門出を祝福してくれているかのように、舞い散る花びらが風に揺れている。

 その傍らには、秀晴の贈り物である鉢植えの花があった。

 実家に置いておくことも考えたが、これだけはどうしても手元に残したかったのだ。

 電車はトンネルに入る。

 ふと、窓に映る自分の姿に目がいく。その姿は思いの外、垢抜けており、自分でも大人びて見えた。

(意外と、落ち着いているんだな……)

 そんな自分に驚きながらも、列車は着実に進んでいく。

 長い時間をかけて地元を離れ、新たな場所へと向かっているのだ。それは同時に自立を意味する行為でもあることを純子は知っていたし、秀晴と離れていく寂しさもあった。

 照れくさくて見送って欲しいとは言わなかった。

 この関係がいつまで続くかも分からなかった。

 それでも、この先もずっと続いてほしいと願ったのだ。

 それが、どんな形になるとしても。

 ふと純子は気になることができた。

 スマホを取り出すと、SMSで秀晴にメッセージを送る。

 

 《秀晴。聞き忘れたことのがあるの》


 するとすぐに返事があった。

 純子は少し嬉しくなった。

 

 《(´・∇・`○)⊃何っ?》

 《前にもらった花だけど、名前を聞いてなかった》

 《あれはね……。秘密》


 その返信に純子は、がっくりと肩を落とす。


 《なんでよ!》


 純子は抗議するが、秀晴からは


 《 ♪~( ̄。 ̄)》


 という顔文字メッセージだけが返ってくる。

 純子は、ムッとした。


 《もう! 教えてよね!》


 《花を、きれいと思うのに名前を知る必要はないよ》


 その返信に純子は上手いことを言うものだと感心してしまうが、秀晴自身も知らないのではと思った。


 《本当は知らないんでしょ》


 と純子は送る。


 《バレちゃった(^^;》


 純子は、その返信にクスッと笑って納得しスマホをしまうと、車窓からの風景を眺め続けた。

 窓の外にはどこまでも続く水平線が広がっていた。それは純子にとって初めて見る光景であり、何かが始まる予感を感じさせるものだった。

 この先に何があるのか。どんな出会いがあるのか、どんな経験をするのか……それを思うと胸が高鳴るのを感じるのだった。


 ◆


 夏休みを迎えていた。

 純子は夏らしく明るい色合いのワンピースを着て、手荷物をまとめている。その中には、秀晴からの花もあった。

 長期にアパートを離れるだけに、花をそのまま置いておくわけにはいかない。花は紙袋に入れて持ち帰ることにしたのだ。

 電車に揺られながら、生まれ育った街に帰れることに、何とも言えない達成感と安心感があった。

 終点に着いた時、そこにはいつもの街並みが広がっていた。

「帰ってきたんだ……」

 たった数ヶ月離れただけの街が、今ではすっかり懐かしいものに思える。

 秀晴には連絡していない。直接会ってビックリさせてやろうというのが、その理由だ。

 彼が驚く姿を想像したら、それだけで笑顔になれた。

(さあ! 待ちに待った、夏休みよ!)

 純子は気合いを入れて駅を出ると学生の頃によく立ち寄った喫茶店にまっすぐと向かっていく。

 外の暑さに耐えかねた純子は、店の中に入ってオレンジジュースを注文する。それから小腹が空いていたので、サンドイッチとポテトも注文していると、向かいの席から懐かしい声を聞いた。

「純子?」

 純子がパッと顔を向けると、そこにはタンクトップにジーンズというラフな格好をした、少女が座っていた。

 彼女を見ると、純子は目を輝かせる。

「桂子!?」

 純子は反射的にその名前を呼んでいた。それは高校時代の同級生にして同じ柔道部だった大森桂子だった。

 桂子は地元で進学し、短大に通っていたはずだ。

 思いがけない再会に純子は驚いたが、それと同時に嬉しさも込み上げてきた。

 桂子は席を移動すると、純子の向かいに腰掛ける。

 二人は高校時代の思い出話や近況報告などをする。

「桂子変わったわね。高校を卒業して数ヶ月しか経っていないけど、何だか大人びた感じがするわ。ひょっとして彼氏でもできた?」

 純子が桂子の雰囲気の変化を感じ取り、そう尋ねる。

 すると、彼女は照れ臭そうに笑みを浮かべる。

 どうやら図星らしい。

 そんなやり取りをしていると、注文していたものが運ばれてくる。純子は店員から差し出されたオレンジジュースを手に取ると、喉を潤す。乾いた喉に冷たい液体が流れる感触はとても心地良かった。

「やっぱり住み慣れた街って良いわね。ふるさとを感じるっていうか」

 純子はそう呟く。

「私も実家を離れて一人暮らししてみたかったんだけど、縁あって地元の短大に進学しちゃったしね」

 桂子は苦笑いしながら答える。

「ねえ。みんな元気にしてる秀晴は、地元の専門学校に行ったんでしょ」

 純子は喜々として秀晴のことを訊いた。

 すると桂子は喉に物が詰まったような反応を見せる。

 その様子を見て、純子は眉をひそめる。

「どうしたの?」

 純子の問いに、桂子は先程までの明るさは無く影を落としたように重々しい口調で口を開く。

「秀晴……。浅見君だけど、いないの」

 桂子の言葉に、純子は首を傾げた。

「いない。って、引っ越したの?」

 純子の言葉に桂子は首を横に振る。

 そして、静かに言葉を放つ。まるでその意味が理解できないかのように。唇を震わせ、そして言った。

 その言葉を聞いた途端、純子は驚きのあまり言葉を失った。

「ウソ……」

 呆然としながら呟くと、純子の瞳から涙が溢れ出た。


 ◆


 純子は呆然としたまま、荷物と花を持って街をあるいていた。

 影を落とし魂が抜けたように、ただ前へ前へと歩いていく。

(なんで秀晴が……)

 頭の中を駆け巡るのは疑問符だけだった。

 桂子から聞いた話。

 それは純子が想像もしていないことだった。

 秀晴は、春が終わる頃に亡くなったというものだった。

 死因は病死で、葬儀は家族葬で済ませ、周囲には伏せていたらしい。

 桂子がそれを知ったのも、ほんの数日前だそうだ。

 聞いたところによれば、秀晴は高校時代にすでに余命が短いことを宣告されていたという。病院に入院し、絶対安静にすれば多少なりとも延命できたらしいが、彼は自分の好きなように生きたいと普段通りの生活をしながら治療をしていたそうだ。

 最期は眠るように安らかだったと聞かされても、純子の頭では理解できなかった。

 秀晴が死んだという事実を信じたくなかったのだ。

 桂子は今でも交流のある友人とお墓参りをし、霊標に秀晴の名前が彫ってあるのを確認できたらしい。

 病気のことに関しても隠されていたことに純子はショックを受けた。

(なんで……)

 そう思った途端、胸が締め付けられるようだった。涙が溢れてきた。

 視界が歪み、地面が歪んでいくのが見えると、足が止まり座り込んでしまった。両手で顔を覆い泣き続ける。涙は止めどなく溢れてきて止まる気配がなかった。

 周囲の人々も彼女の異変に気づき立ち止まる者さえいた程だが、今の純子には周囲のことが目に入らなかった。

 ただただ悲しみと喪失感で心がいっぱいだったのだ。

(私を置いて、どうして……)

 そう思うと、胸が張り裂けそうだった。

 そんな思いをしながら歩き続ける家に、秀晴と立ち寄ったフラワーショップが目に飛び込んできた。

 純子はふと立ち止まり、中を覗き込む。すると店の中には美しい花々が咲き乱れていた。

 ほんの数ヶ月前、純子はここで秀晴に花を贈られたのだ。あの時、彼はもう自分の命が長くないのを知っていたのだ。

 純子は自分の手にしている花が、まさか形見になるとは夢にも思っていなかった。

(秀晴……)

 純子は花を手に、店の中に入っていった。

 純子が店内に入ると、あの時の女性が笑顔で迎えてくれた。

 だが、純子の様子に何かを感じ、少し控えめにした。

 純子は、手にしていた花を見た。

(私、この花の名前を知らなかった。お店で聞いてみたら分かるかな……)

 そう思った純子は、その女性に声を掛けてみる。

「あの。この花を、ここで買ってもらったんですが、なんて名前か分かりますか?」

 純子が訊くと、女性は純子の持つ花を見て、すぐに思い出す。

「ええ。覚えていますよ。当店では取り扱いがなかったので、お客様にご注文を頂いて取り寄せた花ですから、良く覚えています」

 女性の言葉に、純子は驚く。

(取り寄せた? でも秀晴は秘密とか知らない素振りをしていたのに……)

 純子の疑問を他所に、女性は話を続けた。

「この花はアイレンですよ」

「アイレン?」

 純子は復唱する。

「はい。ラン科カトレア属の交配種で、正式名称は《アイレン・ホルギン》。1969年に《カトレア・アストラル・ビューティー》と《カトレア・J. A. カーボン》から作出されました。

 当時のことは、私も覚えています。この花を、どうしても贈りたい女の子がいるんです。って言われて、慌てて取り寄せたんですよ」

 純子はその話を聞いて、何とも言えない気持ちになってくる。

 胸の鼓動が早くなるのを感じた。

(秀晴は……)

 その先の言葉を予想すると、胸が締め付けられるようだった。

「……でも、そうまでして、どうしてこの花を私に」

 純子は、この花を秀晴が贈ってくれた意味が分からなかった。すると女性は純子の顔を見て、何か思い当たることでもあったのか、ハッとしたような表情を見せる。

「花言葉じゃないでしょうか」

 純子は、花言葉という言葉に聞き覚えが無かった。純子の反応を見て、女性は説明するように話を続けた。


【花言葉】

 花などの植物に対し象徴的な意味を持たせるものである。日本では主に西欧起源のものを核として様々なバリエーションがあり、花だけでなく草や樹木、花が咲かないキノコにも花言葉が考えられている。

 その起源については不明な点が多いが、フランスの貴族社会では、19世紀初頭には草花を擬人化した詞華集が人気を博し、草花と特定の意味の組み合わせ例を示した手書きの詩作ノートが貴族サークル内で回覧されていた。

 そうしたノートは、草花の性質にことよせて恋人の美しさを賞賛したり、あるいは不実や裏切りを非難するといった恋愛の駆け引きのために参照されたとも言われる。


「アイレンの花言葉は、《幸せになってください》」

 女性は、そう純子に教えてくれた。

 それを知った時、純子は全身の力が抜けたように呆然と立ち尽くした。

 まるで時間が止まってしまったようだった。

 《幸せになってください》 その言葉が、頭の中で何度も再生される。

(そんな……)

 純子の目から涙が溢れ出した。止めどなく涙が流れ落ちる。嗚咽が込み上げてくると、声が溢れて止まらなかった。両手で口を塞いでも、その声は止められない。

 震える手で口を押さえながら、膝をついたまま泣き崩れる純子の肩に女性がそっと触れた。優しく手を置くと、彼女を慰めるように話しかける。

「お客様のお花の意味は、きっと貴女への最後のプレゼントだったんですね」

 その言葉に、純子の心は揺れ動いた。

(秀晴が私のために……)

 そう思うと、胸がいっぱいになった。

 そんな純子を優しく見守るように女性は隣に寄り添うと、一緒に涙を流してくれるのだった。


 ◆


 純子はフラワーショップをでると、墓地へと向かっていた。

 お墓の場所は桂子から聞いている。

 幾つもの墓石が並ぶ

 《浅見家之墓》と掘られた墓石を探し当てる。

 その前でアイレンの花を置き手を合わせると、静かに目を閉じて祈る。

「秀晴。どうして秀晴が私に花の名前を秘密にしていたのか分かる気がするよ。自分の気持がバレたくなかったんだよね。付き合いが長かった私には、分かるよ……」

 純子はそっと目を開けて、花を見つめた。

 そこには、生前の秀晴の姿が映っているようだった。優しく微笑み純子に語り掛けているように思えたのだ。

「アイレンの花言葉だけど、まだ2つあるんだね。意地悪なアンタは何も言ってくれなかったから、私も言わないけど。この花で秀晴に応えるわよ」

 純子は花を見つめ、静かに語りかけた。

 アイレンの花言葉は、もう2つある。


 私も貴方が好きでした

 今でも貴方を愛しています


 純子はアイレンの花を置くことで、気持ちを口にしてくれなかった彼に、その想いを花で伝えることにしたのだった。

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