第3話 献杯
カストリを呑もう、と死んだ友人は云った。
葬式もとうに済ませたというのに、彼は闇市の一角にあるバラックの酒屋で、笑いながら首を傾けていた。
正確に云えば、呑んでいた私の隣にいきなり現れたのだ。足音はしなかった。それに、彼の体は露骨に透けていた。擦り硝子のように、向こうの椅子を透かしていたのだ。隊服の向こうに、椅子の飴色と明かりの糖蜜色が滲んでいる。私は足が悪いから、不安定な席ではなく、手をつきながら松葉杖と一緒に移動できるカウンターに座っていた。そこには椅子がいくつかある。私はちょうど店主の目の前に座っていたのだが、彼はその隣の席に現れた。
……ああ、やはり幽霊なのだろうかと信じてしまいそうになったが、これは私の幻覚である可能性も十二分にあった。いや、これが仮にあの友人そのものだとしても、自分自身の虚構であったとしても、どちらにしても最悪だった。
「私は酔っているんだな、間違いない」
そうして、とりあえず私はいの一番に水を頼む。たちの悪い夢を見ているに違いないと思ったからであった。氷をたくさん入れて冷やしてほしいところだが、生憎そんなことができる時勢ではない。
「ちょっと待ってくれよ、俺はお前の幻覚じゃない」
友人は困った顔で私に問いかけた。
「……たち悪いな、幻覚のくせに反論してくるのか……」
コト、と目の前にグラスが置かれる。そこにもちろん、彼の姿は映らない。映りでもしていたら、私は卒倒していた。
「消えてくれ。夢なら覚めてくれ」
そうして彼を追い払うように手を振った。
その手はまっすぐ友人の体を貫き、そして空を切るように何度も彼の体の間でゆらゆら揺れた。感覚のない水面をばしゃばしゃとやっているようであった。
「……ひ、」
ひきつり声。もう一度手を振ってみたが、曖昧な友人の笑顔をすり抜けるばかりであった。すり抜けるばかりであった。すり抜けるばかり。すり抜ける……。
「うわああああああ」
思わず出たのは、実に情けない声であった。それに見かねてか、友人がため息をつく。その仕草は生前そのもの。しかしそんなことはどうでもいい。物語にあるような幽霊そのもの。体はそこにあるように見えるのに、実体はない。ないのにいる。いるのにいない。ないのにいる。いるのに。がしゃん、と手元の松葉杖が派手に地面に転がる。
「……お、お前、夢じゃない……のか? 」
声が震えているのは、自分でも十分にわかっていた。動揺の勢いで倒してしまっていたらしいグラスから零れていた水が手に触れる。それは生ぬるく皮膚を濡らした。夢では味わえない感覚。現実の、触覚。
「やーっと信じたか。そうだよ。俺だ。柿沼だよ」
店員から怪訝な顔でこちらを見ている。それを見て、ああこれは、たちの悪い現実という悪夢に違いないと確信した。柿沼という名字の男。死んだ友人、そして――妹の元許嫁。
髪型こそ周りの男と変わらない丸刈りであったが、それでも他とはどこか違った飄々とした空気を持っていた男。怜悧な瞳に、どこか余裕ぶった口元。筋肉がついていてもどこか華奢に見える体。背がひょろりと高い私と比べて、背格好は平均的だった。それでいて、いつもどこか周りとは違った場所を見ているようだった男。
私は長いこと彼の友人を務めてきたが、結局彼のほんの一角しか知らないのだと思う。そして、死んだ今も、透き通った瞳で、こちらを見ていた。透けているのはそちらなのに、こちらの内心を透かされているような気分であった。
「燁子は、元気にしているかい」
「誰よりも働いてるよ。俺に手伝えることは少ないから申し訳ない」
そう答えると、彼は肩をひょっとすくめて見せる。その輪郭に黄金色が映って、ゆらゆらと瞬いた。
「そうか、流石だな」
燁子は、今日も朝早くから起きて闇市に買い物へ行った。空を駆ける鳥に似た、強靭で美しい背中であった。そして、どこか寂しい背中。私は、うまく動かず感覚も薄れた足を引きずって、そんな彼女をどうしようもない思いで見つめたものだ。
妹は、燁子は、本当に……強い。
柿沼の死の一報が入った時もそうであった。おばさん――彼の母親から訃報を聞いた瞬間、妹はさっと青ざめた。そして、唇を強く強く噛み、黙って頭を下げた。妹の口元には、歯の痕が数日残っていた。
下駄が脱げているのも気にせずに、玄関に立ち尽くしていたおばさんの表情が、今でも忘れられない。唖然とした、それでいて燁子の本心を理解している故の、やるせなさに溺れた表情。
この時私が何を思ったか、それはもう思い出せない。今はただ、妹の震える体と、目を虚ろに見開いたおばさんの姿しか蘇らない。それほどに、燁子の姿は凄絶だった。本当に自分の妹か、と思ってしまうほどに。
死の一報の後、燁子は一見いつも通りに振る舞っているように見えた。だから、私は泣いてはいけないような気がしていた。そうしてしまえば、妹に申し訳が立たない気がしたのだ。
それでもある日、赤く腫れた目で気丈に「祐四郎さんが見ていても恥ずかしくないくらい、精一杯生きます」と言われた時には……思わず涙を流してしまった。その瞳はすでに、彼女から年相応の無邪気さを奪ってしまっていたから。
ああ、彼女は死を受け入れてしまったのだ。友人の死を受け止められないでいる自分よりずっと先に、彼女は想い人がもういないことを、受け入れてしまったのだ。
私も出兵していればよかったのに。昔から足を悪くしていたせいで、私は出征できなかった。それは、私自身の生存にとっては幸運なことではあったのだろう。それでもそのせいで友人が死に、妹に必要以上の苦労を掛けてしまったことを思うとこの足が憎くて仕方なかった。私の足がもし自由に動くのだったら。
この足は、数年前にひどい病気にかかった時の後遺症であった。熱のせいか何かで、右足がすっかり麻痺してしまったのである。そのおかげで、今や松葉杖なしに歩くことができない。もしかしたら、燁子の器量の良さは――年不相応に大人びた様子は、私の介抱を毎日のようにしていたせいかもしれない。そう思うと、尚のこと悲しかった。
だから私は、燁子が柿沼と楽しそうに話しているのが嬉しかったのだ。柿沼は、掴みかねるところがあるが心根は優しいから、きっと燁子に良くしてくれるだろうと思ったのだ。実際燁子は、私たちの家に柿沼が訪れるたび、彼と他愛のない話をして楽しんでいたようだし、柿沼も一度だけだが燁子のことを好いているという旨の話を、私にしたことがある。
……私は本気で、二人の幸せを願っていたのだ。
「お前が死ななければ、燁子は悲しまずに済んだ……」
そうぼそりと呟く。柿沼は死んではいけない人であった。どうしてこの男が死ななければならなかったのか。……本当に恨めしいのは、何もできなかった自分なのに。
すると、柿沼は心外そうな顔でこちらを見た。何を言っているのか、とでも言いたげな顔であった。
「お前が俺の代わりに死ねばよかったと思っているなら、それはとんでもない間違いだぞ。……お前が病気になった時、燁子はひどくうろたえていたよ。兄さんが死んだらどうしようって」
「燁子が……」
世話をしてくれていた時は、そんなそぶりを見せなかった。いや、単に病気に苦しんでいたあまりに、気づいていなかったのかもしれない。
柿沼は、少し寂しそうに笑った。
「俺は、燁子のそういう所が好きだったんだ」
柿沼が燁子の話をした時のことを思い出す。確か、軍学校の厳しい訓練でへとへとになっていた時に、私が聞き出したのだ。あの時は、頬を軽く染めた、初々しい少年の顔をしていた。今は、あの時と違う。ほろ苦さの仄見える、青年の顔だった。
「……あんまり自分を責めるなよ、達郎。俺は、お前が生きていてよかったと思ってるんだ。もっと、自分のことを大切にしてくれ」
カストリを呑もう、友人はもう一度繰り返した。幽霊なんだからグラスを持てないなんて野暮なことは云わないでくれよ、そう笑って。眉を八の字にして困ったように笑うのが、彼の癖であった。それを思い出した途端、ああやはり彼は死んだのだ、という事実が悲しいほど胸に迫った。
「今度、燁子と一緒に墓参りに行くよ」
そう言うと、柿沼は口元を緩めた。
「それは楽しみだ」
店主から受け取ったグラスの中で、黄金色がきらめく。その中に一粒、透明な雫が落ち、音を立てて弾けた。
連作短編集 徘徊紀行 市枝蒔次 @ich-ed_1156
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