第2話 楽園
小雨が降っていた。額を、街中に溢れた日の丸のポスターを、建設中の東京タワーを、ひたひたと湿らせていく雫。冬の風を切って降り注ぐ、鈍い光の粒。それはかすかに地面の色を濃くし、雨の日独特の匂いをきつく香らせる。化学薬品交じりのどんよりとした空気を、少しばかり綺麗にするもの。それでいて、先日までは快晴であった空を汚い灰色に染め上げるもの。そして、疲れ切った俸給労働者の皺だらけの頬を、瞳を、潤すもの。
彼は一人で歩いていた。路面電車が走り、尖った字の看板が並ぶ、金鳳花のように華やかな銀座を抜けた先にある裏通り。彼の質の良いスーツとネクタイは、どちらかといえば表通りの方がよく似合う。それでも、彼はこの場には懐かしさを感じていた。それは、若かりし頃を思い出すからだろうか。
……火をくれないか、とひどく掠れた声がした。ふとそこに顔を向けると、ぼろ布をかぶり路地の角で寒さをしのぐ男が一人。他に人がいないからと、彼は仕方なくしゃがみ込み、胸ポケットからライターを取り出して渡してやる。男はしわしわになった煙草に何度も何度も火を近づけた。そして、やっと煙の上がった湿り煙草を変わった構えで咥える。煙草の先が天を指すほど、やけに傾けて吸うのだ。……その吸い方に、どこか見覚えがあった。
まさか、そんなはずはない、何でお前がここに。思わず彼から漏れたのは掠れ声。そんな煙草の吸い方をしていた男に、彼は見覚えがある。かつて、今の自分と同じ格好をしていたあの男。彼は立ち上がり、ぼろい服をまとった目の前の男を、ただ黙って見下ろした。
久しぶりだな。男の声は、鈍ったナイフのように力を失っていた。そして、それぞ自覚するように視線を泳がせてから、目をそらす。
学生時代の男は、交友関係も広く、誰もから慕われていた。成績を抜くことは一度も出来なかった。彼がひそかに慕っていた人を、当然のように男は恋人にした。男との差を感じるたび、彼はなけなしの金を持って新橋で飲んで回り、酔いを醒まそうと銀座まで歩いては裏路地で吐いていた。
仕事に失敗したのかと問うと、男は頷かなかった。矜持だろうか。
……今、彼は高度経済成長の波に乗って仕事に成功し、仕立ての良いスーツに身を収めている。一方で今の男はみすぼらしく、泥鼠のように汚く、ただ萎びた煙草を必死に吹かしている。眼は虚ろに見開かれ、髪には白が混じっているようにも見えた。あの頃の自信に満ちた表情が嘘のようであった。あれは幻だったのか。
幻だったのだろうか。
「……そんな姿を、見せないでくれ」
とっさに漏れたのは、そんな言葉だった。なぜ、こんな呟きが零れたのか、彼自身にもわからなかった。
見せないでくれ、頼むから。すると、男は傷ついたような顔をして唇を震わせた。そして、ふっと哀しげに嗤った。それも一瞬であった。
「そうか、そうか……」
そう低く返すと、男は路地の影に逃げるように消えていった。紫煙だけが、名残惜しげに路頭に残る。霧雨はまだ止まない。無機質な地面に焦げついた男の影が、脳裏に鮮やかに残っていた。街の喧騒が嘘のようだった。遠くに、中途半端な東京タワーが見える。車のエンジンが空気を震わす音が、小さく聞こえる。
彼は、一人立ち尽くしていた。かつては、楽園を貪っていたあの男を羨み、地に墜ちてほしいと呪っていたのに、いざその姿を見たらどうだろう。あの失墜した姿がかつての己に重なった虚しい懐かしみか。それとも、そんな姿の友人を見たくはなかったという優しさか。それか、今の自分の立場の危うさへの警鐘か。解答はもうわからない。全ては、今しがた吐いた煙に溶かしてしまった。
きりきりと身を裂く冬風。薄曇りの空。零れる雨粒。遠い喧騒。そして、水溜まりへ落ち、ほの暗く灰を燃やす煙草。……一抹の虚しさを胸に抱えながら、彼は無機質な路地を抜け、鮮やかで脆い楽園へと去っていった。
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