「九曜巴」其の八

 イオリの眼前に広がる白黒の世界が、再び色彩と光を取り戻していった。


 再び目の前に広がったのは、最後に対爾核で見たような白い空間ではあったが、随分と様子が違う。無論、あの世界で間借人として過ごした伊呂波の自室でもない。


 横たわる寝台の傍らには、点滴を吊るしたガートル台があり、口元には酸素マスクが付けられている。外傷がないため絆創膏は一枚も貼っていないが、その代わりにケーブルに繋がれた電極が彼方此方に貼られている。


 「ここ、ひょっとして…?」


 周囲に眼をやると、患者の身体情報を二十四時間取得するであろうモニタの数々、そこにはハッキリと大合衆国はタバタ州に駐屯するエリス空軍基地のエンブレムが刻印されている。

 

 「間違いない…! ここで、ここで私は…!!」


 この基地が管轄する砂漠地帯の試験訓練場でイオリは全ての始まりとなる事故に遭遇していた。仮に、超音速機の事故から生還したのであれば、こんな傷では済まない。


 「ということは… 帰って来た?」


 驚きと気持ちの高ぶりを、つぶさにモニタに表示された波長と数字が証明している。


 イオリがポツリと漏らしたこの一言に、モニタのどれかが反応してアラームを点灯させた。それから軍医と救急看護師が部屋を訪れるまで、一分と掛らなかった。一同が驚嘆と歓喜で以って、イオリの生還を迎え入れた。

 

 「私はエリス空軍基地の軍医、シーラ・ウィルソンです。貴女のご自分の所属と氏名は?」

 「はい… 扶桑之國第三四三航空隊、イオリ・ツキオカ… 階級は大尉…」

 「その通りです。その通りですよ大尉…!! 良かった… 本当に良かった…」


 軍医はそうやって意識の回復と言語機能を確認すると、思わずイオリの手を取って祈りの言葉を捧げていた。 

 

 「そういば、どのくらいここで…?」


 段々と状況が理解できて来たイオリの脳裏には、この言葉しかなかった。伊呂波で過ごした時間が幻でなければ、それ相応の時間が過ぎているはずだ。


 だが、この問いかけに、先ほどまで歓喜一色であった軍医や看護師たちが少し気まずそうにしていた。やがて、軍医は意を決して口を開いた。 


 「一万二千…」

 「ええっ!? い、!?」

 「それは絶対に違います」


 気が動転しているにしても、軍医は思わず拍子抜けしてしまった。第一に、そんな年月が過ぎ去ってしまえば、空軍基地の所在はもとより、その関係者の末裔、我々が話している言語さえ消え失せてしまう。一体誰が、こんな風に彼女の帰還へ「おかえりなさい」と伝えることができるというのか。


 「落ち着いてください。一万二千秒、およそ三時間半です」

 「一万二千秒…? 三時間半…?」

 「はい、機体から脱出した大尉が発見から、ここに搬送される迄…」


 三時間半、余りに非現実的な数字に驚いてしまった。いや、非現実的なのはあの世界であったかもしれない。あれは、昏睡状態の内に見た夢幻の世界だったのだろうか、益々判らなくなってくる。


 「もう大丈夫です。ツキオカ大尉、安静にしてください」


 急に精彩を欠くイオリの反応に、シーラ軍医はまだ意識が混濁していると思い声を掛けた。再び病室の天井を仰いだイオリは、再び眠りに落ちた。夢は、見なかった。


 三日間の安静期間が終わった。


 経過観察を受けながら、イオリは事故に関して空軍内の航空事故調査官を相手に聴取と証跡確認の立ち合いに参加するようになった。


 そして、回収された試験機の残骸を初めて目の当たりにした。


 飛行記録装置フライトレコーダーに残された操縦と計器の記録、これらと本人の証言も相違ないことが確認された。彼女に列挙されるのはこの世界にある記録と、その記録に対する承認行為だけであった。対爾核のあった世界の記憶など、ここにはどこにもない。


 今日は新たに所持品が一部見つかったということで、イオリは調査官に確認を依頼されていた。墜落時の戦闘継続用装備は発見できなかったが、なんと短刀は発見されたという。


 「扶桑之國は刀剣の国、その霊力による加護というものでしょうか」


 これには普段冷静な調査官達も驚いていたが、イオリはようやく記録ではなく自らの記憶を確かめることができると思った。


 「無事に見つかって良かった…」


 そして金属製のトレーに乗せられて来たのは、肌身離さず持っていた短刀に違いはない。だが、爆発事故の炎上で黒焦げになっており、そこに五傑に勝利した証である紋を見つけることはできなかった。


 「鯉口の金具が熱膨張で抜刀できず、エックス線写真で確認しましたが、中身は無事でした」

 「ありがとうございます…」

 

 刀身よりもやはり、ここにもその証はないのかとイオリは肩を落とした。


 「やっぱり、夢だったのかな…」


 どうやらあの世界から戻って来たのは、自分自身の意識だけのようだとイオリは思った。大事故からの昏睡、その最中に見た幻影。なるほどそういう偶然、これが現実への帰還かと納得しようとしたが、調査官は何か気になっている様子だった。


 「一つ、追加で確認しても宜しいでしょうか?」

 「えっ、はい… 大丈夫です」

 「調査の過程で、このようなものが発見されました」


 調査官が手渡した短刀のエックス線写真を見て、思わずイオリは椅子から立ち上がった。それにははっきりと、鞘に五傑たちの紋が映っている。


 どれも見間違うものか、月輪に星に久留子、竜剣の丸、蝶車、破軍星立て兜そして、筆頭こと師匠のマサナ・ゼンヤの九曜巴がそこにある。あの時、仕合で向き合った五傑立ちの顔も技も、ありありと目の前に蘇る。


 「えっ、この紋… あの、これ…!?」

 「はい、前の所有者の紋が刻まれる例はあります。それで高温で黒漆が溶けて、浮き上がったものではないかとのことです」

 

 専門家の見立てでは、由緒に使ということ、更にはこのような高温でも失われないということだった。この事実は、調査官たちにとって思わぬ美術的な発見だったが、イオリにとってようやく自分の記憶を証明するものに辿り着いた。


 「師匠、ヲリョウさん、ちゃんと帰って来たよ」


 イオリが心の中で呟くと、思わず涙が出て来た。止めようにも、止められなかった。思わずこれには、調査官も動揺してしまった。


 「大尉、どうされました!?」

 「いえ… すみません。友人が贈ってくれた大切なものですから…」


 その翌日、エリス空軍基地ではいつものように、鋼鉄の翼たちが轟音とともに空へ舞い上がっていく。そして帰投しては、飛行士と整備士が何やらやりあっていた。


 そんな喧騒を余所に、基地の体育館には木刀を携えたイオリが一人あった。彼女は返却されたあの短刀を取り出し、一礼すると木刀を振るい始めた。


 八相の構えからの打ち込みに始まって、居合の基本型、自らがひょんなことから開眼したまろばしの所作、今まで自分が培った技を確かめていった。


 「よし…!」


 やがて構えを直すと、曲げた左肘を固めたように胴から離さず、右腕はまっすぐ高く上段に構えて、あの雲耀の太刀を繰り出した。

 さらに、そこから平突きの構えに転じての三段突き、これは無理があったのか少し構えが崩れた。これには、自分でも失笑してしまう。


 「まだ、師匠のようにはいかないけど… でも、きっと…!」


 そんな迷いを払うかのように、彼女が得意とする跳躍からの一太刀を渾身の力で繰り出した。


 その舞い上がる音は極めて静かでありながら、何よりも力強かった。


=「対爾核」完=

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対爾核 Trevor Holdsworth @T_Holdswor2

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