15 インターリュードⅠ(オーケストラのピッチ)

 月曜日の登校途中、曲がり道で市川初枝と出会い、

「おはよう!」

「あっ、おはよう!」

 と挨拶を交わし、一緒に歩いて学校に向かう。

 昨日のディーとのレクイエムの件があったので、そのときまで彼女のことは、すっかり頭から抜け落ちている。もっとも同じクラスだったから先週の火曜日以降も顔だけは認識していたけれども面と向かって話すのは、あのとき以来だ。けれども向こうから声をかけてきたくらいだから、今朝は調子が戻ってきている……に違いない。

 しばらくして、

「この前は大変迷惑をかけてしまった。申し訳ない」

 と市川初枝に切り出され、ぼくは面食らってしまう。さらに、その場で立ち止まって深深と頭まで下げる。ついで、

「この数日、いろいろと自分のことを考えてみたんだ」

 と続ける。

「それで?」

「わたしは、キミのことが好きだったらしい、と気づいた」

「そうなの?」

「たぶん、そうだと思う」

 暫しの間。

「ええと、しばらく前のあのときには別の関心の方が強かったのは事実だけど、キミに惹かれていなければ、わたしは誘わなかったと思うし……」

「それが?」

「そう納得したら吹っ切れたよ!」

 確かに表情はさわやかだ。

「そういうもんなの?」

「キミは、きっとそういったことに鈍感なんだ。あるいは不慣れなだけかな。ま、それがキミの魅力なのかもしれないけどね」

「よく、わかんないなぁ?」

 確かに、よくわからない。

 そのとき――

「よっ、いつものお二人さん! 相変わらず仲がいいね!」

 と新城孝雄(しんじょう・たかお)が、ぼくたちの脇を自転車ですり抜けるとき恒例のチャチャを入れる。

 すると――

「ありがとう。わたしたちは確かに仲が良いわよ。大切な友だちですからね!」

 と市川初枝が大きく胸を張って答えるものだから、その返答を聞いた新城孝雄が、ぽわっと丸く口を開けたまま、ぽかんとした表情を浮かべつつ、アリャラとこちらを振り返る。

 だから――

「ホラッ、前見てないと危ないわよ!」

 市川初枝に、そう注意される。

 もっとも、そのおかげで彼は危うく電信柱との直接接触を回避できたのだが……。

「ところで、さっき言ってた、しばらく前のあのときって、サントリーホールとか、いくつかのオーケストラ定期演奏会を聴きに行ったときの話?」

「おはよう!」

「おはよう!」

「こけっこっこーっ」

「めぇ~」

 何人かの在校生たちと擦れ違う。

「うん。いろんな経緯で上手くチケットが手に入ったから……」

「それはいいんだけどさ、市川さんの別の関心って?」

「あのときも少し話したけど、調音……というか、オーケストラのピッチ」

「あ、『ラ』ね!」

「そう。日本の楽団の場合、確かにA(アー)=一点イ音が四四二ヘルツだったという話。アメリカは国際標準ピッチ(註 一九三九年に制定)の四四〇ヘルツで、ヨーロッパ系が四四四から五ヘルツ」

 ちなみにカラヤンが指揮者だったときのベルリンフィルハーモニーは四四六ヘルツだったらしい。

「そういう意味では、ぼくはちょっと気持ち悪かったけどね」

「あ、絶対音感あるんだよね! いいなぁ……」

 と市川さん。

「わたしは事前に結構頑張ってチューニングマシンでいろいろ憶えて耳を鍛えたつもりで行ったんだけどさぁ、結局のところ、よくわからなかったよ」

 一般的に弦楽器では弦の張りを強(きつ)くするとピッチが上がる。ごくわずかな違いとはいえ、その違いが演奏のメリハリを変えるともいわれている。また、一般的に管楽器は気温が五度上がると音が四ヘルツ上がる――気温が下がった場合は下がる――とされていて、かつ弦楽器のように弦の張りでピッチを調整するようなことが実際上は困難なので、ある地域の気候による管楽器のピッチに合わせ、ヘルツ数が変えられているという説もある。もっともシンセサイザーで有名な某作曲家は、その昔、『シンセサイザーでオーケストラの各楽器のピッチをすべて合わせて構成すると、音がオーケストラの合奏曲(アンサンブル)にならないので、最大で半音近くまでピッチをずらして重圧感を出している』といった趣旨の発言をしているから、実際のオーケストラが出す音群は、全体では一致していても、実はけっこうずれているということらしい。さらに余計な知識として、国や人種にかかわらず、赤ん坊の発する産声はすべて約四四〇ヘルツであるようだ。

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