4 霞のような……
彼女をちょっと不気味に感じたのは、その後だ。
「あ、いた!」
道端の生垣を見つめて、ディーが小さく叫ぶ。
「あら、あっちにも……」
厭な予感がしたので訊(き)かなかったら、
「訊(たず)ねないのね……」
溜息を吐きながら、ディーが問いかける。
「キミの問題点は、そこか?」
ぼくが指摘すると、
「翼のある子にいわれたくないわ」
と返される。
「でも、さっきまで口にしなかったよね」
「いまのキミなら、ちょっと気味悪がられるぐらいだと見切ったのよ」
「ということは、見えるには普通に見えてるわけね! ずっと。……ま、そうだよね」
「見えるんじゃなくて、感じるんだけどね。……水蒸気、じゃ、気体だから見えないか? 湯気じゃないし……。凝集した雲みたいな、煙のような、靄のような、霧のような、霞のような、ちょっと違うけど、そんな感じ。水? 水銀のキラキラ……」
「ぼくの翼は?」
「空気感だけかなぁ」
「でも、わかるんだよね!」
「他には、わかる人いないの?」
「母さんくらいかな……。あっ! あと、母方の叔母さんも」
「お父さんの方の家系は、そういった点では鈍感?」
「……っていうより、感じても否定するタイプじゃないかな、理性で……」
「社会的には正しい生き方だと思います」
「頭はいいけど、ある意味、頑固だから。それで、お金持ちにはなれなかったみたいだよ」
「結局、キミの父親か!」
「どうも、そうらしいね。母さんには婚約者がいたみたいだけど……。いつだったか、叔母さんがうっかり――だと思うんだけど――口を滑らせてさ。でも、ぼくは、それを聞いていないんだ」
「………」
「それに、いまさら違うといわれても――いわれてないけどさ――あの人以外に、他に父親がいるとは思えないよ。そんな感じがしない」
「うーん、よくわかるような、よくわかんないような、その感性……」
それからしばらく二人で黙って歩く。沈黙が窮屈じゃなくて妙に心地良い。あぁ、こういう空気感もあるんだ、っていう感じか?
やがて閑静な住宅地を抜けると街の喧騒が蘇り……。
「ね、なんて呼べはいい?」
「別に『キミ』でいいよ。ぼくもそうしてるし……」
「うん、でも、キミはもう、わたしのことを『ディー』として認識してるでしょ」
「確かにそうだけど……」
「わたしもキミにそれを求めたい」
「隠してないから本名でいいよ」
「ダメッ!」
「意味、わかんないよ」
「とにかく、ダメなの」
「じゃ、Kは?」
「ヨーゼフ?」
「そうか! L、もあれがあるし、P……ちゃん、じゃ鳥だし、Q・ちゃん、じゃ、余計に、いろいろあるし……。連続体? 困るな?」
「ローマ字に限定しなくって、いいんじゃない。別に、必然性ないし……」
「道理だけどね……」
考え込む。
レンガ敷き歩道の先に喫茶店を見つける。カランコロン、と古風な音のカウベルを鳴らし、店舗内に入り、見まわす。空きテーブルを見つける、座る。対面に……。二人して黙っていると、ウェイトレスが注文を取りに来て、
「冷たいコーヒー」
「わたしはコーラ」
ちょっとメイド風美人のウェトレスが、その注文を装置にインプットし、復唱してから立ち去る。
沈黙。
しばらくしてから、
「Fにしようかな?」
ぼくが言う。
「博士か? 確かに理系の方が点数良さそうだし……」
「あんだけの量の本を読んでんのに、そう……って、文系にも博士はいるだろうさ。一般人はN?」
「新一さんですか? じゃ、そのココロは?」
「ファーレンハイト(Fahrenheit)。……セルシウス(Celsius)の『C』でも、ケルビン(Kelvin)の『K』でも良かったんだけど、やっぱ、『F』でしょ、『エフ』!」
「華氏ねえ。451。それとも911か?」
「歌の詞の意味の『歌詞』、お金を貸す/貸さないの意味の『貸し』、飴やクッキーみたいなお菓子の『菓子』、樹の『樫』、下半身の『下肢』、魚河岸の『河岸』、見える/見えないっていう分類における、その見える方の『可視』、傷がある……っていうか、本来あるものがないっていう意味の『瑕疵』、そして、まだ死んでいないってことを表す『仮死』」
「優しいのね。……ハーフライファー(半生者)?」
「……って、そりゃ、意味違うでしょ」
二人して笑う。顔を見合わせて……。
インナーヘッドフォンから聞こえる曲は、とっくの昔に移り代わっている。ルーマニアか、またはペンシルバニア現地人似の顔をしたアメリカ人テクニカル・ギタリストの普通の、でも若干ゴスペル寄りのブルース集。
「はじめて、あれを読んだときは吐き気がしたわ」
「ぼくは同じ作者の『火星』の方だけどね。……歴史上の有名人物ロボットが先生をしている卵型の学校で主人公が歯車を透視して、おかしくなるところで」
「……って、そのままじゃん!」
「単純なんです!」
「またまたぁ……」
「で、いいの?」
ぼくが訊くと、
「うん、エフに決める。あいだがEだから……」
答が返る。
「その感性がわかりません!」
そしてこの先、ぼくはディーの中でエフとして認識が形成されていくのだと感じる。
ヘンな感じ……。
七〇年代に売れに売れたハードロックバンドの歴代三人目のヴォーカリストそっくりの声をした件(くだん)のテクニカル・ギタリストが、間抜けな歌詞を実に楽しそうに歌っている。午後が、輝く。キラキラ、キラキラ……。
「で、エフ、くん、さん、ちゃん?」
「呼び捨てでいいんじゃない」
「じゃ、エッフ」
「なぜ、促音(そくおん)?」
「いいじゃない」
「で……?」
「これからどうしますか?」
「どうしましょうか?」
「リードはしないの?」
「また、歩きますか?」
「延々と?」
「いやだ?」
「ウーン、ま、ない選択肢ではないけれど、体力的には……。で、どこ、行く?」
「アテは、ない」
と、そのときディーの携帯電話が『Sex Sleep Eat Drink Dream』のメロディーを奏でる。着信を確認してから、
「悪いけど、これからの先の予定はキャンセルだわ。用事ができちゃった」
「ま、仕方ないか……。こうして、ここにいる方が不思議だし、不自然だし……」
するとディーが、
「でも次の曲が終わるまで、ここで、こうしていたい……」
静かに告げる。
それで二人して黙って曲に聴き入る。
まわりの騒音が嘘のように退いてゆく。
ぼくたち二人の耳にそれぞれ流れ込む左右わずかに異なった楽曲の歌詞は、よく聴くとやっぱり少し間抜けだったけれども、なんだか妙に心に染みる。
そして約束通りディーにアイスコーヒーをおごってもらって店を出る。ぼくが口を開きかけると、
「『奇跡』にしようよ!」
とディーがそれを封じる。
「地域限定だから、まぁ、小さな小さな奇跡だけどさ……」
「それって、どう(いう)、……あ、そうか、わかった!」
そのときの気持ち的には、かなり残念だったが、
「OK(オッケー)でーす!」
と、ぼくは答えている。
そんなことが実際に起こるとは、まったく信じていなかったのだけれど……。
彼女が地下鉄の最寄駅に向かいはじめたのを眺めながら、ぼくも逆方向に向かって歩きはじめようとする。
そのとき――
「I`ll miss you」
遠く離れる前に一度だけ振り返ったディーの唇がたぶんそう動き……動いたように見え、ぼくの唇からもまったく同じ言葉が同時に発せられる。
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