「あの人には、死にかけの私じゃなくて、最初に会った時の私に、ずっと恋に落ちて欲しいの」と彼女は言った。
肥前ロンズ
お題 スタート
こんなに、早く死ぬつもりはなかったんだけどなあ。目の前の女性は、桜が満開の季節に、そう言って呑気そうに笑った。
人間は、妖怪より早く死ぬ。そんなことは、誰もがわかっていたことだし、本人が一番よくわかっていたことだ。けれど、こんなに早く、あっけなく別れが近づいて来るなんて、思いもしなかった。
お願いがあるの。彼女は言った。
この家から出たい。私、死ぬ姿を、あの人に見せたくない。
あの人とは俺の主で、彼女の夫で、鬼神だった。そのくせ涙脆くて、甘くて、どこまでも手のかかる。けれど、伴侶の死を見届けられないほど情けなくは無い。
俺がそう言うと、あの人のためじゃない、と彼女は言った。
もう一つお願いがあるの。彼女は言った。私が死んだら、あの人の記憶を消して欲しい。
今度こそ俺は怒った。そんなことするわけないし、できるわけないだろう!
あなたならする。
か弱い人間である彼女は、妖怪の激昂にも恐れず、笑ったまま言い切った。
彼女の予言は当たった。俺は、主の記憶を奪うことになった。
彼女は失踪したのだ。見張りのものが目を離した隙に、布団にいたはずの彼女はどこにもいなかった。
主も、一族のものも、必死に探した。けれど、全く彼女は見つからなかった。彼女の病を知らなかった主は、何十年も屋敷を留守にして探していた。憔悴して帰ってきた主は、下手したら百年探しかねなかった。
もうこれ以上は無理だと、俺は主の記憶を消すことにした。
記憶を消してから初めの春、主は庭の桜をぼうっと眺めていた。庭の桜は、桜が好きな彼女の要望で植えられたものだった。その様子を見て、主が記憶を取り戻したんじゃないかとひやりとした。
だが、別に主は記憶を取り戻したわけではなく、単に桜が綺麗だと思って眺めていたらしい。いつの間に植えたんだろうな、と主は牙を少し見せながら、朗らかに笑った。その姿を見て、俺は安堵しつつ、どうしようもない痛みを感じていた。
俺は、思い出されるのも恐れていたが、思い出しても欲しかった。
主が思い出すようなきっかけにならないよう、この屋敷から全て彼女のものは捨てた。念の為、一族のものからも記憶を消した。後は、この桜と、俺だけが彼女のことを覚えていた。
全ては、終わったことだった。
あの人には、死にかけの私じゃなくて、最初に会った時の私に、ずっと恋に落ちて欲しいの。
どうして主から離れようとするのかと尋ねた時、彼女はそう言った。
人間はずるい。儚いくせにふてぶてしくて、すぐ変化するのに不変を求めて、すぐ死ぬのに強烈に記憶に残していく。
そのくせ彼女は、主と思い出話をしながら、感傷に浸る余白すら許さなかった。
死にゆくもののくせに、生者を手のひらで転がしているのも、気に食わなかった。
そうして時は流れて、 年号は新たに令和になり、彼女が生きていた時代より目まぐるしく人間社会は変わっていく。そして少し、若い妖怪たちも生まれてきた。
屋敷を拡張しようということで、桜の木を移動させることになった。なんとなく手を加えるのを躊躇っていたが、新しい時代の始まりとして一念発起した。
若い妖怪たちが、桜の木の周りを掘っていく。
なんか変なの見つけました。
どうやら何か掘り当てたようで、雪ん子が俺に手渡した。それは、泥にまみれたお菓子の缶だった。蓋を開けると、丁寧に封筒で包まれていて、さらにそれを開ける。
そこには一枚の古びた写真があった。
オシャレな方ですね。あ、これモガだ。あ、朝ドラの。昔のことを知らない若い妖怪たちが、俺を囲んで口々に言う。
短く髪を切って、丸い帽子を被った少女は、溌剌と笑っていた。後ろをめくると、彼女の名前と、彼女と主が初めて出会った年が記されていた。
なんで、なんでここに。主に思い出させないように、彼女にまつわるものは、写真も含めて全部捨てたのに。
若い妖怪たちの声に、なんだ、と主がやって来た。俺は慌てて写真を隠そうとしたが、先に小鬼が美人の写真です! と、主に渡す。
俺が止める前に、主はその写真を見てしまった。
主が俺の名前を呼ぶ。
この写真はどこにあった?
桜の木の根元にあったそうです、と俺は言った。
そうか。この女、知っているか?
いいえ、存じません。
俺の心臓は鳴りっぱなしだった。しらを切れるか不安だった。
そうか、と主はそれだけ言った。
記憶を取り戻されたんだろうか、と俺は主の顔をのぞきこんで、頭を殴られるような衝撃を受けた。
主は、まるで初恋のように、目を煌めかせ、顔を真っ赤にさせていた。
あ! 主様、顔真っ赤にしてる!
無邪気に言う雪ん子に、見るんじゃない、と顔を真っ赤にしながら主が答える。
なあ、この女がどこにいるかわかるか? と主が聞いてきた。どうやら、記憶が戻ったわけじゃないらしい。人間なら、外見と日付からして、もう生きてはいないでしょう、と俺が答えると、そうか、とガックリ肩を落とした。
とぼとぼと奥へ戻っていく時に、生きているうちに会えたらなあ、という独り言を、俺は聞き逃さなかった。
あの人には、死にかけの私じゃなくて、最初に会った時の私に、ずっと恋に落ちて欲しいの。
彼女の言葉を思い出して、俺は縁側から、池に飛び込んだ。若い妖怪たちが叫んでいたが、水の中では聞こえづらかった。
人間だった彼女は、ちゃんと主との時間を終わらせた。その上で、また何度も主との恋を始めるのだろう。その、みずみずしくうつくしい乙女の姿で。
ああ。――あの女、やりやがった!
「あの人には、死にかけの私じゃなくて、最初に会った時の私に、ずっと恋に落ちて欲しいの」と彼女は言った。 肥前ロンズ @misora2222
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